0248話:2017年11月01日

◇一番最初に日本に出てきた飛騨を鎮魂。飛騨日本源郷ツアー

Mさん、飛騨のツアーのご報告をお願いいたします。

Mさん

飛騨に28、29日の土日で国際ロゴシスト協会のツアーということで行ってきました。

飛騨は日本列島が5億年くらい前に隆起した時に、最初に・・・。縄文人が初めて住んだ場所ということで、飛騨日本源郷ツアーということで、一番最初に日本で出てきた所を鎮魂するということで行ってまいりました。丁度、前の日にワープのオセアニアツアーの関係で、村山古道でディジュリドゥーを吹いたのですが、その参加者もいらっしゃいました。

最初に金山巨石群という、縄文人が10メートル以上の巨石を精緻に組み上げて作ったカレンダーであり、天文の観測所でディジュリドゥーを吹いたり、そこを開発した徳田さんという方にガイドして頂きました。

本当に縄文人が我々と全く違い、言葉がないというのも、言霊というか、違う言語、数学的なサヴァン症候群のような、本当に数字で全てを見ているというような、縄文人の息吹をそこで体感しました。

次の日は白川と非常に縁がある、飛騨の一の宮の水無(みなし)神社に正式参拝をして参りました。水無の語源は、水を創る神様という意味合いもあって、元々白川の領地で白川の傘下の神社でした。丁度、水無神社の御神体が位山でして、そこで丁度、来年の即位に向けて、歴代の天皇の尺を櫟木(いちいのき)で作っていまして、我々が行く一週間くらい前に神事が行われて、尺に使う木を切り取ったということを仰っていました。水無神社は水が無いと書きますが、何故「無い」という漢字を当てたかと言いますと、中国で無いというのは「舞」ということでもあり、雨乞の舞という意味があってですね、我々が行って更に大雨となりました(笑)。

位山の登山を予定していましたが、それは断念しました。8合目くらいまでは車で行きまして、そこで参加者の皆様とIさんと一緒に祓い、鎮魂を位山の8合目に水無神社の鳥居があり、頂上に奥宮があるのですが、そこでお参りをしましたら、そしたら、更に大雨になりました(笑)。非常に記憶に残ることになり、参加者全員無事に帰ってきました。

斉藤宮司に外祭(がいさい)のやり方を教えて頂き、門人のMさんのサロンで飛騨の鎮魂の外祭を滞りなく行いました。

◇京都に1000年以上皇居に天皇陛下がいらっしゃった都

【七沢代表】

ありがとうございました。

私は、30日、31日と京都に行っていました。源氏物語のオペラを京都でしたいという話を、京都府がどういう風に後援して頂けますかという話をしてきました。

源氏物語を紫式部が書いた場所が廬山寺ですね。白川家の菩提寺でもありますけれども。そこの町田管長をお訪ねして、その話をしましたら、非常に喜んで頂き、後援してくれるということでお話をしてきました。

ちなみに、町田管長は紫式部顕彰会の会長をされています。その時に立ち位置というのか、我々は東京とか、甲府から歴史を見たり、あるいは京都を見たりしていますけれども。京都は京都で、京都から東京を見ているわけですね、天皇陛下の場所もですね。そういった時に、大政奉還で武家の社会から天皇の統べる社会に戻ったことを大政奉還と言っています。しかし、天皇は京都から逆に東京に来てしまったということで、その辺の話はありますけれども。

やはり文化というのか、あるいは、神々の、あるいは遠津御祖神というか、そういうものを中心とした歴史は少なくとも、奈良は1200年経ちますが、その内の何百年かの時代の王城の地なのですけれども、京都というのは、1000年以上の王城の地であったわけですね。王城の地というのは、皇居に天皇陛下が一緒にいらっしゃる都という意味の場所ですけれども。

あと、国宝と言いますか、廬山寺に伝わる国宝になっていますけれども、それを町田管長から説明を受けたのですけれども。それは書ですね。

正親町天皇(おうぎまちてんのう)が信長に向けて直接書かれた比叡山の焼き討ちがあった前後ですから、廬山寺を焼かないようにということを、直筆で信長に送った書でしたが、ほとんどの書は、天皇が祐筆の方とか、女性の秘書の方が書かれて、それを出すのですけれども、それは直接、正親町天皇が書かれたそうです。

そんなことがありまして、色々な国宝とか、重要文化財の書を色々と見させて頂きました。

あと、白川の墓所に訪ねましたら、真新しい榊が対になって飾ってありまして、白川の門人さん達が頻繁に来られて、お参りをして頂いているということで、非常に清々しい場所にだんだんなってきたなと感じました。

そんなことがありまして、駆け足ですけれども、大体のところは予定をこなしてきたのですけれども。

◇原型に戻すことをしている

先程の文化という意味の大政奉還というか、そういうことを白川がそれをはっきりと離散してしまった王城の地の文化を元に戻すと言いますか。その中核になる神祇と言いますか、そういうものが1つ1つ元に戻す作業を今、白川としてはやっているのではないかということを非常に感じました。

もちろん、白川の神祇、言霊、鎮魂も、元々は、それこそ、縄文期から見れば、そういうものが伝承されてきたものですけれども、次第にバラバラになったり、失われてしまったと。  ですから、民俗学なんかでは、周圏論と言って、文化の形は同心円の中心から周辺に向って伝播したというのですか、京都が文化の中心であれば、一番遠くの日本、それがあまり遠い場合は、ブラジルまで行っている場合もあったり、もっと前の段階であれば、それこそ、ボリビアとか、メキシコとか、オーストラリアとか、非常に文明が古ければ古いほど、遠くに伝わっていくという周圏論という、遠くに伝わるということがあるのですけれども。そういう民俗学、フォークロア(folkloristics)ですね。通俗の俗を持ち出すまでもなく、民俗的なものが遠くに散らばっていて、それをもう一度、1つに原型に戻してくるということが白川を中心としてやっていることではないのかなということを非常に感じました。

ある面では、大政奉還と言いますか、そういう元に戻すというのか、それによって、はっきりとくっきりと日本文明の輪郭と言いますか、概要が見えてくるものを、即ち、戻すということを大政奉還と言って、文化というものが蘇ってくるというのか、そのことで日本文明の姿が立ち現れてくるのではないのかなと。その過程として、様々なものが認識の上に上がり、生み出されているわけですけれども、今回、その内の非常に大事なものが源氏物語でもあると思います。

そういう世界で一番古い小説、人類の、ある面では一番悩ましい悩みを恋愛という形で表現されている小説を、世界のオペラとして、今世界が京都に注目していますから、そういう意味でも、そういう試みをやるというのが1つの文化の継承発展であり、大政奉還なのかなということも感じた次第でございました。

ありがとうございました。