0252話:2017年11月08日

20171108全体会議(前半)

◇生前供養と葬り方

今日、Tさんのお母さんが亡くなられました。それで今日はTさんは会議に来れないということです。

お母様は祝殿から天に昇りたいということで生前供養を続けていて、奇跡的に持ちこたえて最後の別れもできたようです。今日の朝2時半頃に亡くなられました。僕は2時頃から6時頃まで起きていました。ここから昇りたいということで、ここから昇っていかれました。

事前に一ヶ月くらいトレーニングするカリキュラムがありますが・・・。高速で走るカリキュラムもあります。そんなことをやったこともありますけれども。

魂は頭から出るのが良いのですけれども。どこの位置から出たかというのは大事なところでして、足から出るのはまずいと。

うちの親父の時もそういうどこから出たかをまず見られることがありました。この時はネパールの釈迦族の坊さん達に一部始終を目撃されたことがありました。これは亡くなってからのことでしたが、頭から出てからまずは伊勢神宮に飛んでいき、次にネパールに飛んでいき、だんだん距離をトレーニングするんですね。そして、だんだん天に昇る速さになると。

普通は49日と言って、屋根の上に49日くらいまでいるということですが、それが早くなるというトレーニングですね。そのトレーニングを一ヶ月くらいしていたんですね。一ヶ月くらい前倒しでやっていくという方法があるんですね。そういう研究をしたこともあります。

椙村先生と前世で出会ったのも、お釈迦様が亡くなる時にこの人よく泣く人だなと思っていたのですが、その人が急に15年前くらいに現れてうちの普賢菩薩の前に立ったときに、フッとデジャヴというか、分かりました。そういうストーリーとして椙村先生とお釈迦様の涅槃の時に出会ったということがあります。先生も分かっていましたけれども。そんなこともあり、釈迦族とは長い付き合いでした。親父の時も厄介になりました。

そういう葬り方というのがあって、それがだいぶ改良されてきて、事前に走り方を教えるというか、高速で早く天に昇るというかね。

ですから、お別れを言って、家族が帰って来た時にどういう生前供養するかということを全部作り直してずっとやっていました。そのでき具合で、早くなったり、遅くなったりということだと思います。

生前供養するということはある面では、最短で上がっていくという方法をとるので、若干早まったというか、その辺はちょっとやる時には別れをしたい人がいれば、その間に別れるということが可能になるんですね。よく言われるのは、別れを告げたい人は早く呼んでくださいということを言いますが、そういう意味では早く呼んで別れを告げたということになるのかなと思います。若干、早くなって大丈夫かなと思いましたが・・・。

本人が心臓でありますから、弁のところの不調だったようですので、そういう死に対する意識が若い時からあったのかもしれません。ですから、非常に成仏というか、そういう意味ではこの世に執着を持っていなかったということのように思います。そんなことがありました。

◇変革が起る時に生まれる支配

丁度10月で年度替わりということで、たくさんの皆様にお願いするところがありまして、参加していただき、先週、金さんに会ったら私も参加しますということで、この全体会議にも出席してくれるということになりました。今回は中国に満州シャーマンの第二弾の映画の撮影のため、来れなかったのですが。15年来ですね、一緒にやっていただいています。これで次の映画の第二のロストマンチュリアサマンの最終的なところが撮影ができます。今、お願いしている折口信夫の「死者の書」の映画も構想がだんだんできてきています。

二上山のNさんの曲もありましたが、死者の書ということで映画とすることで、それが転生自由七科ということで、Oさんが来年のここでやっていた1つの白川学館大学のカリキュラムのオリエンテーリングのようなものを来年の六ヶ月間でやります。

丁度、ルネサンスではありませんけれども、文芸復興という言葉は今、言わないようですけれども、ダ・ヴィンチやミケランジェロやダンテといったヨーロッパの神学から1つの新しい科学、芸術、哲学が起こる前提となった社会変革、社会革命の始まりで、そういうことが起こってくるときの流れですけれども。

それと同じように今、世界が一神教と多神教あるいは、今までの宗教も神秘に陥り、科学さえも神秘に陥り、このような時代になっているわけですから。そのことで神秘が支配の道具になっていたということであるわけですけれども。

それをまさに経済的にはブロックチェーンとか、そういうところで最終的には支配の枠組み、新しい貨幣の枠組みが作られようとしていますけれども。そういうものが人工知能と同じように、いよいよ1つの支配か非支配かというところに進んで行こうとしている時です。

本来、結社が言ってきたものは標語としては自由・平等・博愛ということで正しい表現ですが、支配者の中の自由と支配者の中の平等と支配者の中の博愛ということを友愛と言っていますが、そういうことではなくて、全ての人類にとって、全ての生きとし生けるもの全ての自由・平等・博愛というような世界です。

我々は今、Tさんと一緒に動物の世界でも平等な人間との命においても平等なですね、これは禅の犬に仏性有りや否やという公案がありますけれども、命というものを大切にする事の中で我々が自由・平等・博愛を実現していく上で今まさに、そういう提案がもう一度、行われないといけないというかね。

今、それが一神教的な神学というものが様々なユダヤ教、キリスト教、イスラム教が全地を覆わんとするときに、それはある面では、シャーマニズムとか、アニミズムとか、トーテミズムのような縄文の豊かな生き方というものを塞ぐような意味でのそれを科学として、宗教学というものもそうですけれども、それをやろうとした時期がありました。

その学びに入った一人が私でもありますけれども、一神教の修道院神学が再び覆わんとするときに、科学というものがこの地を覆わんとするときに、そういうものが結社化して形を変えて支配していくようなことが起こっているわけですけれども。

そういう問題の中で本当に今、それがスピリチュアルリズムというか、神秘というものが分からないところで支配を完結しようということですね。世界の科学がその方向に行こうとしている時に真の神学が復活して、あるいは学問が正しい位置に帰り、学びに立つという意味でのことを来年のOさんがワープの新しい形を作っていただいています。

◇形骸化した王政復古を真の王政復古へと考え直す時

そういうものの中身と言いますか、少なくとも我々が先駆けて、ヒロイックに言うと、人類の行くべき道を先駆けて神学を確認するということを、今まで日本が神というものを出さなくて、150年前に明治の王政復古ということでしたが、一神教に合うような形で構成されて神道というものがただの形式だけになってしまったというかね。

実質のところは神仏分離ということで、仏教ももちろん、神の世界というものがあるわけですが、まさに日本が3000年、神道と仏教の神仏習合の中の神の学びがわからないようにされたのが明治だったんですね。そして、神道というものが形式だけになってしまいました。

これが神社というものを作って、明治の始めの20年間悩んだわけでしょうけれども、キリスト教に合わせる様な形で伊勢神宮に天照大御神という形で祀られていったというかね。本来は白川の五神というものを中心としてやろうとしたのですが、それができなくて神社という形で一神教の神学に合わせた神道観を作っていたことが、日本にとって、世界にとっての害悪になってしまったと言ったら、口はばったいことでありますけれども、そういうことが起こってしまった。王政復古というように、150年前の白川の教えに戻すということが白川学館大学あるいは白川家学館ということの体制にもう一度、戻すということが本来あった宮中三殿も我々の中では皇霊殿も賢所も御神殿も1つの雛形として祝殿の中に戻しつつあるわけですけれども。

それが先々週、京都に行って、廬山寺の管長から出てきた言葉が王政復古ですね。

それは京都に戻すということだけではなくて、明治の150年間の日本の歴史というものの元をもう一度、考えてみようということで、白川というもの、言霊というもの、鎮魂というものを、これをお清め三科として、Mさんと話してなりました。