0258話:2017年11月12日

【霜月月次祭 前半】

◇「たま」の話。白川学を前提とした宗教学的立場を踏まえて

 

8日にT君の母親が亡くなり、8日から「たま」の話ばかりで、はふりめくでも3回ぐらい出てきますが、内容が同じことになってしまうかもしれません。「たま」の問題というか、鎮魂も含めて非常に大事なところでありますので、その辺りも含めてお話をさせていただきますね。金曜日に葬儀を済ませてきました。

本人から、また色々な話があるとは思いますが、私が感じたことは、客観的な意味で、白川学を前提とした宗教学的な立場を踏まえてお話させていただきます。

もともとお母さんは京都の方でありますが、T君のお父上は科学者で、鳥取大学の教授でありました。お花が好きな、今風に言うとガーデニングというか、大きな庭を作ることをしていたようですが、定年でまた京都に帰ってきてからも、ガーデニングが出来るような場所を選んで家を建てたようです。棺には、お父様がお母様のお作りになった沢山のお花を摘んで、胸元に置かれいていたわけですが・・・。代々、お母さんの方も、もちろん森嶋家は大徳寺の中にお墓がありますが、無宗教ということで葬儀をやったわけですね。それは、大徳寺のお寺の坊さんと話して、そのようなことでいいということで、戒名もいらないということで、葬儀が行われました。非常に簡素というか、みんなの前で、二人の息子とお父さんが、別れの言葉を言って、あとは棺の中にお花をいっぱい手向けて、まるでお花の中に浮かんでいるようでした。

この様を見ていて、無宗教というのは、もともと戦後の宗教学の大家が無宗教で葬儀した事例も知っておりますが、今は、大概が仏教か、キリスト教か・・・最近はイスラム教もありますが、日本では神葬祭という神道式もあります。神葬祭が一番多いのは、なんと山梨県が一番なんですね。富士吉田の近くであったり、小淵沢の近くであったり、神道が盛んなところが神葬祭で行っていたようですね。

ご多分に漏れず、高濱家は神道でしたから、先生も神道でしました。今回たまたま、先生がおられた城陽の近くで葬儀がありましたので、先生のことを思い出しながらその場所を通ってきましたがね。

 

◇手向ける

 

無宗教ということで感じたことは、ちょうど、ネアンデルタール人というか、急に何万年も下がってしまいますが・・・ネアンデルタール人は、人骨の周りに花粉の粒子が大量にあるということを考古学的にわかっているのですね日本人はネアンデルタール人のDNAが51%で、世界の民族で一番多いと言われておりますが、お花をかなり手向けたようですね。

そのような気持ちというか、優しい気持ちというか、それがちょうど「手向(たむ)ける」ということの上代語ですね。要するに「たむける」ということは「手」ですね。お花を持った手を、亡骸に対して、葬る時の仕草というか、それが、た・ち・つ・て、の「て」が「た」ですね。手を向けるというか、言葉の語源になっているわけですね。手向けるということが、縄文期と通過して、きっと日本語に残っているように、そのようなお花を死者に手向ける行為というか、それが基本的な葬り方なわけですね。

もちろん、仏教も蓮だけではないですが、蓮華というか、花の中の花というか、お釈迦さんにも、死者にも・・・もともと仏に花を手向けたんだと思いますがね。そのようなことが非常に基本的なことなんだと。色々な儀式がありますが、花を手向けるということが、一番の基本になるのではと感じました。

お母さんが花を作る、庭を作るということが一番の趣味で、広大な庭を作っていたことがあったので、きっと本人も満足だったのではないかと思います。

今まで一度だけ、ここにおいで頂いたことがあったんですが、ちょうど二回目の来訪の時に、祝殿から天に上っていきたいということを言われていたようですがね。

私も、亡くなる30分ぐらい前から、どういうわけか目が覚めて、朝まで起きていたんですが、その日の朝の2時30分ぐらいに亡くなったと後で聞いたんですが、その時にきっと、御霊(みたま)が来られていたんだなぁと感じていました。きっともう難しいということで、子ども達と最後の別れに来たんですね。

子供の頃に、心臓の感染症で弁膜症をおこしていたことがあって、それが原因で亡くなるわけですが、ちょうど一ヶ月ぐらい前、生前供養というのもおかしい話ですが、そのような言葉、構文をロゴストロンで発信して・・・この間、終わってから、供養の言葉の中身を公開させて頂いたようですが、Tくんが。あとで、またそれを知らせていただければいいかと思いますが・・・。

 

◇生きているということは同時に死んでいる

 

普通は、旅立つということを隠さないで、一つの遷化というか、住む所を変えるという意味合いでは、長生きするとお祝いをするところもありますが、病気を持っている場合に、若干、早くなったりすることもありますが、そのような中でも、一つの仏教的に言いますと、成仏というか、神道的に言えば神になるというか。そのように変化していくというか、そのことは必ずあるわけですが、そのことが死というもの、哲学的にも生きるだけという哲学もあれば、死へ向かう為に生きていると考える哲学もあります。その瞬間を観ると、生きているということは同時に死んでいるというか、共時に行われているというかですね。

体の60兆個の細胞が、1日2兆個ぐらい死んで、また再生する、生まれ変わる、というのはリモデリング、新陳代謝をしていくということですが、新陳代謝をするということは、生と死が同時の起こっているということで、3ヶ月でほとんど入れ替わってしまうわけですね。

死と言うものの生物学的な意味というものも、一つの有性生殖ですから、人間を種としてみると、必ず命を繋げていくことをしているわけですが、途切れるというかですね。自我からみると、一見、我々の形が亡くなってしまうので、生命の流れが途絶えるというように感じるというか。もちろん、その時に、次の代に、あるいは人類全体の種を繋げていく上では、有性生殖が起こって、基本的なDNAというか、体遺伝子も精神遺伝子もそれによって繋いでいくということをやっているわけですね。ですから、体遺伝子が繋げるということも同時にやっていることでありますが、人間が到達した一つの精神というか、それも繋げていっているということをしているわけですね。

 

◇伝えていく・・・

 

高濱先生がよく仰っていたことは、白川のことを「ことやめしめて」というか、誰も言わなくなって、伝わらなくなってしまったとしても、時代を経て、その教えは忽然と出てくるという言い方をされたことがありました。

それはきっと、精神というものが、時空間を超えて伝わるというか・・・もちろん人があっての話かもしれませんし、あるいは宇宙があっての話かもしれませんから、宇宙が輪廻するということになった時には、その宇宙が消えるということもあるかもしれませんが。

情報というものは、またパラレルワールドではありませんが、他宇宙に住む場所を変えても、その宇宙の次元境界面に、全て生きた痕跡、記録が残っていくということがあろうかと思います。

要するに、同時に伝えていくというか、それが掟というか、あるいは天は君と共に永劫に続いていくという、天壌無窮万世一系という表現をされている中身かもしれませんがね。

そのようなことを永遠というか、その中で、あるいは無限という中で、しっかりと確認するということが、神道の中今の把握に繋がると思います。

そのことを現代の科学としても、しっかりと掴むことが必要なことになるのではと思っております。

 

◇支配の中で、感じる言い知れぬ不安

 

今回、特に「たま」、五魂ということを中心にして、白川を再認識することが出来たと感じております。いわゆる命というものに対する恐怖というものが、輪廻せざるを得ないということになり、最終的な人間の情動の中にある動きになるところだと思います。

今、ネット上でもそうですが、国というものが安定して存続する、民族、人類が安心して存続することの、一種の支配とか被支配からみると、非常に見えない支配の中で、感じる嫌らしさというか、言い知れぬ不安とか、恐怖を直接的な独裁ではなくても、世界というものが解決しない、そのような方向に動いているということも確かな事実であるし。

ですから、宗教も科学も、どちらかと言うと、一種のスピリチュアル、神秘主義のようなもので、牛耳られているようなところがあって、一方では、不安を助長しているところがあろうかと思います。そのようなもので、どちらかと言うと、支配というものも、ある種、極限にきているとも言えますね。

自由、平等、博愛の逆バージョンが、密かに、ひたひたと迫っているということも一方では感じるわけですが。そのよう不安というものが、きっと人類の、輪廻転生というか、リインカネーションというか、非常に、日本だと6割以上の人たちや、世界でもドンドン増えているということは、一種の不安の証明のようなもので、別のところに生まれ変わって、それで何とかしよう、という消極的な生命の連続への試みなのかもしれないというか。

 

◇輪廻を繰り返す理由

 

我々は来年、転生自由七科というか、リインカネーション、リベラル・アーツというか、輪廻転生というものを、この中今に自由になる、そのような道を考えるということで、仏教やインド思想をもう一度見直すということで、今日、後期密教をIさんに調べて下さいと伝えました。

どうしても輪廻しなければいけないという理由が、どのように歴史の中で試みられていたのか。簡単に言ってしまえば、インドの中で興ったということは、ヒンズー教や仏教は・・・比較的、中国なんかでは、モンゴロイドは現実主義ですから・・・不思議研究所のMさんが調べた本の中にも、中国の中にも一部、輪廻のことを言っている村があることも報告されていましたが、中国にはあまりないんですね。インドが中心的なところというか。

私は若い頃から、インド、あるいはネパールに非常に縁があって、研究や現地によく行っておりましたが、やはり貧しさというものが、一つの繰り返しになるというか、カーストではありませんが、人にプリントされる意味合いで、繋がっていくということで、貧しさや苦しみなど、生老病死もそのようなところから出てくるわけでしょが、そのような苦しみが前提の一つの社会、これはもちろんどの時代、どこの国にもあるわけですけれども。

今の日本が、ある面では恵まれていた時期もありますが、そのようなものはインドだけではありませんが、少なくとも、そのような悩みというか、飢えと渇きということもありましょうが。それが何度も、輪廻しない限りですね、ヒンズーの神様は、3000万年ぐらいのスパンで人間になったり、また神に戻っていくという、そのような時間の幅で輪廻ということが繰り返されるという思想としてあるのですがね。

そのようなところを今世で、その問題を解決出来ないかということを試みとしてやっていこうということで、それを我々は神道から見つめる時の、論というか、論陣を張るわけですが、そのようなものが確かにその通りという実感が得られるかというかですね。こういうことの入口は、臨死体験をすることが導入になる場合もありますが、この世の生を受けた普通の人として、そのようなものが、超越というか、超えることが出来るかという、神道では今まで、そのことを言わなかったわけですが。それが可能かどうかを問うことをする。