0259話:2017年11月12日

【霜月月次祭 後半】

◇「たま」の重さ

「たましい」ということは、「たま」らしいということでありますから、心が丸くなっていない状態から、丸くなって、地球の中心や、太陽のように正円になっていく。この地球の中心にある金と言うか、地球の中心が真ん丸なわけですが、我々の魂もきっと真ん丸になることは、若干、土や、遠心力と言うか、重力で楕円になっている部分もありますが、真ん中は正円だと言われております。少なくとも「たま」と言うか、五魂を「たま」に変えていくということは、具体的な事例としてやっていく必要もあろうかと思います。

もちろん物質が、分子にしろ、原子にしろ、「たま」であるわけですが、そのようなものから逆に、核になっていくことが・・・またそのように感じられることが、人間の技でもありましょうが、また帰って行く時に、丸になっていく時に、多分、それが細かくわかれて離散しいくと言うか。

火葬にするということは、一つひとつのカルシウムとかミネラルの、そのようなもので、最後に何グラムか僅かながら残していくわけですが、それはグラム数でも、空中に散乱した部分があっても、そんなグラム数にはならないというか。もちろんそれは、この大地に帰ると言うか、その全てが帰っていくことになるわけですが、「たま」がどのぐらいの重さかを測った人がいたようですが、15ナノグラム、細胞一つぐらいの重さが魂の重さなのではと。亡くなっていく時に、魂の重さだけを引くと、15ナノグラムの重さだと言われていますが、そうなるとほとんどわからないぐらいの粒子になるわけですね。

◇時空間を超える粒子を考えなければいけない時が迫っている

粒子が飛び交う速さというものを、一つの人間の脳の中でやると、粒子というか、ホルモン(フォトン)なんかでは、今、ロゴストロンで使っている、一万分の一秒ぐらいの速さで移動するような、そのような速さを持っているわけです。

我々は、魂も色々と調べて、亡くなる前と亡くなった後、それで49日、50日経ったらどうなるかということを調べたこともありましたが、これは昔の波動機で測ったのですが。どうも魂も亡くなる時に、波動が弱くなって、亡くなる時に一端ゼロになって、またそれが五魂で調べると、亡くなった後、7日、7日、7日で、49日で、だんだん回復して、今度は元の身体の中にあった時よりも、非常に細かい周波数になっていることがわかったんですね。

多分、周波数を調べていく時に、きっと光になって上がっていくという言い方もありますが、あの世に逝くということは、その5次元とかに行く前に時空間の途中に引っかかってしまうものが、ゴーストと呼ばれるものとして中にはありましょうが、多分、次元を超えていく時の速さというのは、粒子として見る時も、多分、非常に細かい粒子があるのではないのかと。

それは原子とか、素粒子とか、ヒッグス粒子とか、そのような17の、非常に細かい粒子もありますが、それよりももっと細かい粒子になって、初めは重力、そして重力の無いところで存在できるということが、5次元、10次元という、次元を超えるということをする時に、必ず人類が追求する時には、無いことをそのまま無いとは感じられないから、必ず粒子みたいな存在を想定するんだと思います。速さもそのようなことで、時空間を超えるということで概念として捉えると、時空間を超える粒子を考えなければいけない時が、もうじき迫っているのではと思います。

◇「たま」は光を超える粒子

我々も20年ぐらい前からタキオンという想像上の粒子と言うか、粒子にならないような名前のタキオンというものを前提にして、東京工業大学の仲間達と一緒に研究したこともありました。もちろん証明されるわけではないのですが、論理的なものや、思考実験をしてみたこともありました。それが光よりも速い粒子というのもおかしいですが、きっと速い粒子、あるいは物質としては非常に細かい粒子としてあるのではないかと。それが重力を超えるものと言うか・・・。多分、「たま」、五魂が上がっていくということは、タキオンのような粒子と言うか、それは光を超える粒子と言うか。

我々の心臓もメビウスの循環のように、血液を押し出す力は、光の600倍のぐらいだとも言われておりますが、多分、タキオンというのは、光の10億倍の単位の速さで飛行するということが、理論上は可能なことになると考えられると言うか。その辺りの研究は、まず重力子という最小単位で10次元に飛んでいくような、そのところの研究が、それを証明する意味で始まっておりますが、次の段階ではタキオンというものが仮定され、次に、いずれその証明をすることになるんだろうと思います。魂というものが、一つの粒子と一緒にそれが結合していくと言うか。その間が50日なんだと思います。これは今、はじめて私が言っていることですから、これはスルーして頂いても結構ですから、真剣に考えなくてリラックスして聞いてくださいね。

◇「元つ御座に上りましませ」

粒子がもう一度集合して、魂の情報ですね。それは「たま」が作られた元の概念のフトマニと言うか、創造の時の設計図として利用された、魂の最小単位というのもおかしいのですが、どうも肉体とも違っている軽さですから、それは無重力と言うと科学的では無いですから、無ではなく、重力に反する反重力のようなもので、科学的にはそのような言い方をしなければと思います。

反重力というものの粒子みたいなもの、それは反粒子とか色々と言うのでしょうが・・そのようなものがもう一度、再構成されて、五魂が、そしてそれが光以上の速さで飛んでいくと言うか、そして発生した元の場所に戻っていくと言うか。

これは白川でも、古神道は、その「れい」や「たま」の存在を「元つ御座に上りましませ」という掛け声で鎮魂して、おあげするわけですね。この家を守って頂いている神様も、その家を壊す時には、一端、天に上って頂いて、また作った時にお呼びして、再び守って頂くことになります。この祝殿も屋根を含めた神様、家の神様と一つになっている働きを頂いているということになるわけですが。そのようにして「元つ御座に上りましませ」ということで、「タマ」を元つ御座に登って頂く意識を発しさせてもらう。ですから、構成される体というのは、まさに五行として、木火土金水に、まさにほとんど帰っていくわけですね。もちろん素に帰るという言い方をしますが、火葬にすれば、ミネラルになって戻るわけですね。

今回、お母さんの生前供養を考えた時に、一物たりとも元に帰らないものはないというところを感じていて、もちろん「タマ」も、あるいは命という概念さえも創造の源に帰っていくということを、一つの・・・そのようなことを科学的に、論理的に、信仰ではなくて、理解できる方法と言うか、そのような理解の仕方がこれからの時代の中では出来ると思います。

その時に、一番フィットする思考、方法論、それを提供する材料が、古神道は非常にピッタリ合うと言うか、科学と照らし合わせてみても、いささかも齟齬するものではないということが、ハッキリわかってくるということがありまして、これはやる価値があるなと感じた次第です。

一点一画も神の技は外すことはないと言うか、全てが元に帰っていくんだという一致と言うか、その感覚を掴むことが転生と言うか。

◇「誠」「真」を持っていく

さて、実社会で言うと、満足ということが生きるということの中で、資本主義の最終的な問題解決の中で一番大事なところですね。この経済の色々な、ノーベル賞もありますが、最近、平等にいこうというベーシック・インカムということも、お金の話で出てきますが、あるいはブロックチェーンとか出てきますが・・・最終的には、一人ひとりが生活の中で、すなわち買ったり売ったりする中で、顧客との間で満足することが100%でないと、資本主義は超えられないから、また違う経済ベースを考えなければならないわけですが、それは、水掛け論のような話になりますが・・・。

不安とか、恐怖からも充分に安心するということであり、要するに、平らけく、安らけく、清らけく、そして明けらけく、という非常に単純な神道の原理でありますが、それを誠の心、生成を持って生きる。今回のロゴフェスではないですが、「まつり」というのは、「真を釣る」という言い方をした一つのお祭りですが、それと同じように、誠をもって、あるいは真をもって行うこと、それだけしかないと言うか。

◇満たされても餓鬼。どのようにしたらそれを超えられるか、今問われている

色々な哲学を明治時代に入れてみましたが、神道というものは、そのような意味ではシンプルと言うか、生きるということの最小単位かもしれませんが、しかし、満足ということが輪廻しなくて済むということに繋がるというか。満足して、楽しみで、次のまた生にいくこともありましょうが・・・少なくとも輪廻というものを充分に満足するのが81回なのかもしれませんが・・・そのような意味で、何回もすることも悪いことではないと思いますが・・・この時代は、ある面では戦争の不安、生きることの不安が一杯あることには変わりはない。それは変わらないと捉えていくのか?それともそれを超えていくのか?ということですね。ちょうど、飢えと渇きに苦しむ、餓鬼というのは、いくら食べ物や水に満たされても、また欲しい、まだ足りないという意念なんですね。それを超えるということを、どのようにしたらそれが可能かが今、問われているのではないのか。

そのことが出来ないと、人類はいつまでもカルマと言うか、業と言うか、煩悩と言うか、転生から逃れられないということになってしまうわけですから、そのことを仏教では、地獄の五階層(地獄・餓鬼・畜生・修羅・天人)と言いますが、その解決が白川、あるいは古神道からみて、何か可能性があるかを問うてみることは、ハッキリ言ってまだやっていないと思います。

そのことを来年は、Oさん、Iさんを中心に新企画でやって頂くことになろうかと思います。

今月は、収穫祭、新嘗祭を控えていますが、学びの中の収穫は、まさに事業も、事業計画として、概念として、ハッキリと作りあげることが、今月の皆様の一つの役割、お仕事なのではないかと思ってます。その辺りを含めてあと、皆さんにそれぞれお話をして頂きたいと思います。

今日はありがとうございました。