0260話:2017年11月12日

◇見える神を通じて、見えない神をまた祀る

階層性で理解するという発想というのは、20世紀の人類の科学、あるいは進化の中から出てきた発想です。神道には、非常にそういうものが、人から神様の間に、色々と神様を迎えると言うか、その神様もまた色々と存在するというのが、五階層の神と言えば神ですね。体イコール神と言っても良いくらい、体の働きと神様の働きが繋がっているということに、非常に神魔一体ではなく、神体一体というところがあるのではないのかなと思います。ですから、体というものの、全て神の働きとして捉えるという捉え方をしていくと言うかですね。

その時に、体が神を迎える、要するに、体が良い状態になって神を迎える。あるいは、悪い状態だから神を迎えてより良い状態にするということを含めて、色々の場合もあろうかと思いますけれども。そういう見えるものと見えないものと言うかね。普通は見えないものを、特に一神教では創造者を神と見立てているわけですから、見えないと言うかね。だけれども、神の形に似せて人は作られたという一文もありますけれども・・・。少なくとも、見えない神から見える存在までの間の・・・体も、あるいは自然も我々が見える、聞こえる存在としてはあるわけですね。

ですから、体も1つの土から出来た、あるいは水であるというところで一体だということの確認をするということが、1つの神の働きということを体感するということに繋がっていると言うかね。ですから、子や孫や人種においても似ていると感じるのは、見えているということだからですね。DNAや遠津御祖神という存在が、自分自身が遠津御祖神であるということの確認ということを出来る存在と言うかね。それもまた神なんだと。

ですから、見える神を通じて、見えない神をまた祀るということになると思うんですね。まずはDNAとしての存在としての、体遺伝子としての、遠津御祖神と言うかね。生きても亡くなっていても遠津御祖神ということですね。これが第7種入門での、天津神、国津神、遠津御祖神、産霊幸倍神と言っている部分であります。

次に、自然を水とか、空とか、見えないところに姿を変えていくところがありますが、基本的に見えない存在というのは・・・特に、風というのは動きでは見えますが、見えない存在と言うかね。それを第10種で頂いた息というのも、風の1つの働きのようになると言うかね。

高濱清七郎先生は、自分が亡くなったらまず風になるということを仰っていたと、よく高濱浩先生は言われていました。水は透き通っているということもありますけれども、風というものを使って、そして祓いになるということに繋がるのですけれども。仏教では、風も含めて五大(地水火風空)、あるいは識を加えた六大と言いますが、基本形と言うか、それもまた神道では神なんですね。

◇各神拝作法について

大地というのは、大地主(おおとこぬし)という言い方をします。地も神の名前が付いています。そういう五行というものの神を迎えると。第6種というのは五行、あいうえおとイコールとなっていますけれども、その働きの神を迎えて五行を鎮めるというのが、第6種鎮魂ということになるわけです。ということは、我々は体が五行であるように、五行から出て、五行に帰っていくということで、五行の神を迎え、その上で人間の営みというところで働いてくださる働きと言うか、それが国津神と言うか。より良く生きるということを可能にしてくれる働きを、国津神と呼んでいるわけですね。そういう天津神も、国津神も、八百万神を迎えるというのが第五5種ですね。

第5種は天地八百万神を迎える行ということになります。その上で大祓の第4種ですね。中臣祓というのは第4種なんですね。源に帰る為の、回復する為の、元に戻る為の、神に戻る為に必要なのが、大祓であるわけですね。それを社会で納得してやって頂くということが第3種ですね。一の宮の全ての主祭神をお迎えして、そしてその大八州(おおやしま)と言うか、日本という国を安泰にする働きにして頂くのが第3種ということですね。第2種、第1種は天皇の役割の技として、また作法であるようでないような、見えない作法があるわけですけれども。

第10種で命の息をもらってから、降神、昇神の第9種、第8種があってというですね・・・。十(とお)の間に込められた情報というのは、神を迎える作法、白川の神拝作法というところがですね・・・。

◇古神道に帰る。その白川学館大学を目指してた本来の学び

今回、何故、このような話になったかと言うと、この一年相当たくさんの皆様にお聞き頂いて、白川を学んで頂いて、実践をして頂くということになりました。そういう伝授ということを通じて分かったことを、体系的にそういうことを説明させて頂くということが、白川学館の役割でありますから、その辺りは充実させていかないといけないということで、皇(すめら)の学として、本来は皇学研究所が言霊であったり、あるいは神道の皇學館大学というのがあるわけですけれども、そういうものを音楽とか、芸術を含めて、それは世界的にはロイヤル・アカデミーということになろうかと思いますけれども。

元々、一神教の中では、それが神学と言うか、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神学としてあったものを学ぶ為に、神学者、あるいは神父さんがいらっしゃり、修道院というのがあるわけですけれども。それを前提にする学問が、ヨーロッパではリベラルアーツと言うわけですね。たまたま近くの大学で私が2年間くらいリベラルアーツ学部で神道を教えていました。そこで分かったのは、世界というのは神学というものを前提とした学びが、リベラルアーツで、翻訳すると自由七科ということなんですね。

本来は、それを学んで神学にいくということであるわけですね。元々、宗教改革や文芸復興、ルネサンスというのが原点にあるのではないのかなと思いますけれども。本来、社会変革や社会改革というのは、その元のところへ一旦戻って考え直すということをしたわけですけれども。
革命で共産主義も一旦戻ってしまったので、今ない状態になっていますけれども。中国は共産主義か分かりませんが、習近平思想というものになってしまっていますね。本来は、自由、平等、博愛の世界が共産主義でもあるし、結社の思想でもあるし、神学の思想でもあると思うのですけれども。

本当の意味で古神道に帰るということをしないと、一神教の神学に災いされて、そういうものの影響、関係で出来たような神道になっているから、宗教だの、宗教ではないのだ、と言われるわけですね。古神道では宗教の定義に合わないというのは当たり前のことなんですね。これは私が宗教学をやりましたから、ハッキリと言えます。宗教にしないで、信仰にしないで、科学という範疇でも掴めるものにするということで、我々は白川学館大学というものを目指してやっていこうということで、皇だけのものではなくて、本来の学びのものとして、それをやることが大学というアカデミズムということになると思います。

◇馬庭念流(まにわねんりゅう)

私と能澤さんで7万冊を超える蔵書を収集してきました。ここには1万冊くらいですが、残りは中野の野方に置いてあります。金曜日には、国会図書館の一部を移築する場所に行ってきたのですけれども、それは辺鄙なところでしたよ。宇治の近くですが。東京の永田町では足りなくなっているわけですけれども。どんどん電子化しているようですけれども。我々も今、仮の白川学館大学の図書館というものを近くに作ろうと進めておりますけれども。

変な話ですね。白川学館大学出版部を構想し、次に出版局を登記して、今度は情報学部とか、白川学部とか、図書館とかがあって、大学を最後に作るわけですね。そういう大学を作る為の研究をしているわけですけれども。

今は銀行を作る為の研究もしています(笑)。未来世銀行という名前だけ作りましたけれども。来世の銀行を作ろうということでね。バングラデシュのノーベル賞をとった銀行もありますけれども。最初にバングラデシュの独立運動をしたのは、奈良先生と私で国賓待遇して頂いています。それはそれとして、その時でも銀行がテーマでした。前後してしまいますが、後ろから作るという方法は、馬庭念流(まにわねんりゅう)の過去未来の法ということで、今、大学を作っている次第であります。文部省も色々と、どこが弱いか研究が終わっていますから、多分できるのではないのかなと思っています。希望ではなくて、現実にする、夢ではなくて、現実にするというのが、白川のやり方だと思います。皆様のご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。