0275話:2017年11月29日

おはようございます。
何かご質問はありますか?

●Mさん
よく賢治先生がおっしゃる客観視ということがあると思うのですけれども、実際に日常生活を送る中で客観視が難しく感じる瞬間があります。目の前の出来事とか、人とのコミュニケーションにおいて入り込んでしまうことがあります。
そういう時に客観視できる方法やあり方はありますでしょうか?

【七沢代表】

◇言葉で出して、漂わせておく

まず言葉で出してしまうということですね、今のことはどうなんだということを。
それが正しいかどうか別にしてですね。一言主ではないのですけれども、一言でその状況を言ってみればいいんですね。人に言ったら傷ついてしまうこともあるから、自分自身が心の中で書いてみるということですね。それがまずは客観視ということですね、端的に言うと。それを繰り返していく。

三省とか、反省というのはそれで自覚する方法です。反省というのは、何も自分が悪いということではなくて、人を謗るということでも自分の罪として、一旦、出してみるというのかね。それを言葉として漂わせるというのかね。入れてしまったり、人に貼り付けたら問題が生じますけれども。漂わせておいて、今の言葉、これでどうかということをやってみてはどうでしょうか。だから、日記とかは、そういうことだと思います。チャットの問題点というのは、情報が速すぎて反省ができないということがあります。自分の客観視が出来ない内に次々と進んでいってしまい、仕事も速くなるから、だんだん自己が置き去りにされていくというのかね。

◇「省みる」という五情の働き

「省みる」という五情の働きですよね。みんなに遅れることを恐れたり、恥ずかしいとかいうことで回避するのでしょうけれども、省みるということ、覚える、自覚することが出来ないと、結局、無自覚のうちにストレスがどんどん溜まっていってしまいます。システム開発というのは、20年以上前に関わりがあって、6000人いる会社のカウンセリングをしたこともあるんですけれども、そういう人たちはいっぱいいっぱいになってしまうんですね。どんどん機械の方が先に進むからですね。そういうことが起こるんですね。それを一度、省みるということをすると良いのではないのかなと思います。

●Aさん
今のことに関連するのですけれども、システム開発をする人間というのは、独り言を言う人が多いように思います。これもやっぱりシステムの中に入り込む時に、客観視するということを知らぬ間にやっているということなんでしょうか?
僕は独り言を言ってしまうと、そのスピードに負けてしまうのではないのかということがありまして、言葉と同じスピードでしか、脳が動かないのかなと思って、独り言を言うのをやめようと思った時期もありました。

 

【七沢代表】

◇自分自身を分けることへの自覚

意識の中に入っていって、分かれる瞬間が言葉に出るということですね。それが病気になると分裂になるということですね。それを分けて客観視すれば病気にならない。その瞬間なんですね。

機械と機械の関係と、機械と人間の関係の両方があるわけですね。その時に機械の中の出来事なのか、あるいは機械と自分との間違った関係からくる情報の入れ間違いなのかとか、上手くいかないということを機械のせいにしたら、叩いたりもするかもしれませんが(笑)。自分のせいにすると滅入ってしまいます。自分の中で分かれるわけですね。自分自身を嫌悪するのか、それとも機械を含む他者を攻撃することで、一種の病になる。そういうことが起こりやすいわけですね。ずっと入り込んでいるから。

本来は時々、我に返るというのかね。人間は本来、一日に20分しか集中力が出ないと言われていますが、本当は20分くらい集中したら、一回、集中を解いたりして、そういう波を作らないと、とてもやっていけないと思います。そういう自分の波を持っている人はうまくいくんですね。その時に、自分は独り言は言わないというような独り言かもしれませんし(笑)自分自身を分けるということへの自覚ということですね。

◇主観と主体の違い

主観ということの観ということと、主体ということは異なるわけですね。

昨日のIさんの質問の答えがあまり答えなくて話してしまいましたが、「いし」も「意志」と「意思」があります。より明確なベクトルを指したものが「意志」ですし、「意思」は思いの方が全体に漂っているような状態になっているのではないのかと思うんですね。その「意志」も主観というものからくるものなのか、主体なのか・・・。主体が当然、「意志」に繋がるわけですね。意志も、しっかり見つめるということが主体の役割になるということですね。

主体に対しては客体というような言い方になります。主体と客体というか、より存在が明確になるということが主体に対しての客体になると思いますけれども。これは単なる漢字の遊びになってしまうかもしれません。主体性というような性というものを付けて、その方向を人間の生き方にするというような捉え方ですね。例えば、主体性を持った生き方とか。それを主体性という言い方をしています。

◇主体が階層を昇り降りしないと・・・

主体の確立が1つの生きるということの表明ということになります。その主体が単なる広がりというか、位相の中の主体は、見るというのか、1つ主なのですけれども、位相の中に自分で円を書くと、自分自身がそこでもって自己主体が決まってくるのですけれども、自分の決めたというか、主体ということになるんですね。主体意志は良いのですけれども、主観になってしまうと、自分の中での自己中毒になるわけですね。自己中毒にならないように生きるためには、主体が階層を昇り降りしないと、欠点に気付かないというのかね。

上、下とか、自己を見つめる視点を変えてみる。階層というのか、階層で身体レベルのことや感情レベルのことでもその違いを分けることですけれども、自分の体が感じる不都合な感情なのか、自分の主観が達成されないから、それに対して、憤っている感情なのか、色々と階層性で見つめるという見方をしないと解決はつきません。

それは位相の捉え方が今は学問でもあるけれども、トポロジーはできても、フラクタルな階層を上がる概念はなかなか掴みにくいということであって、そこを掴めると随分と楽になってくる。それを情緒でも神魔人獣と言いますが、これは表になっています。神様はこういう感情だから、これを使えば、悪人も使えるわけですね。

これが結局、今まで菩薩行をしていて、3000年間していた人たちで、世の中のためにということを思いながら疎んじられ、利用されるということがほとんどだったわけですね。結局、身を粉にして、辛い思いをして、また生まれ変わっていかないといけないという話になるわけですけれども。神魔人獣を出すと、そういう利用する人たちがでてきます。人間でいることは、非常にきついわけですね。神に行かないといけないし、魔に行ってはいけないし、獣になってもいけないしということで、非常に苦しいことが人間の性(さが)と思ってしまうんですね。

◇主体の動きを補足する自己の確立

ビジネスというのは、ビジネスの中での資本主義というものでもってやる、高速でやるのでしたら、この場でやらないといけないというかね。ある面では、そこに暗黒面が出てくるとみんなやられてしまいます。そういうことがありますから、ビジネスはビジネスでもって捉えるということを持っていないといけないですね。それは階層を自在に降りたり上がったり、瞬間に移動するんですね。

回心というのは心が神魔人獣を巡ると言いますけれども、階層も上がったり下がったり、自由にしないと捕まってしまうというのかね。逃げるわけではないですが、自分自身が瞬間に階層を上がったり下がったりしないと捕まってしまうというかですね。自分自身が、自分自身に背乗りした他者(憑依)にも捕まってしまう。また外の他者からも捕まってしまうということがあるわけですね。もちろん、人が神を利用するということで、慢心の極地に至ったりするということも起こるわけです。

これは21世紀になってのいよいよ出てきた方法ですよね。生きるということの方法が非常に進化しないといけないというかね。単なるトポロジーだけではなくて、フラクタルにも自在に心を変心したり、位相、階層を上がったり下がったりしていくというのが、主体の本来の動きですよね。

だから、主体の動きを補足している自己の確立ということが、ある面では反省とか、客観視になるんですね。そういうことになると思います。

昨日から難しいことを言ってすみません(笑)。もっと優しく言えるようにしていきたいと思います。ありがとうございました。