0277話:2017年11月30日

おはようございます。感想やご質問はありますか?

 

●Kさん
お祓いをしている時に、意識がなくなる時があります。以前、何かのお祓いの時に「語止(ことやめ)しめて」という祓詞の中であるのが、その働きが起こっているというお話を聞いたことがあります。その辺の理解が追いついていないので、もう一度、教えていただけますでしょうか?

 

【七沢代表】

◇祓詞は禅の公案のようなもの

祓詞というのは、文字通りそのまま受け止めるというのかね。受け止めておいて、「あっ、分かった」ということが起こるような、それが悟りとか、修行の目的ということに繋がっていきます。祓詞の全てが、ある面では禅の公案のように、「狗子(くし)に還って仏性有りや無しや」(犬にも仏性があるでしょうか?)とか、五十則とか、色々な言葉があるから、そういうものを立てて、悟りということをやるようなものと、似た修行になっていることがあってですね・・・。

◇風になる音までも音を止めて・・・

先程の話で、大祓の「語止(ことやめ)しめて」ですね。ある面では、草とか、木とかが、人に言寄せるとうるさいというかですね。日本語以外の言語だと雑音というか、ノイズになって感じるらしいですね。例えば、虫の音も日本は人の声や、この間の篳篥(ひちりき)の音が、赤ん坊の泣き声のようにうるさいというような、自然の太陽のプラズマとか、そういう自然の五行の音に比べると、人間というのは言葉でうるさいというふうな言い方をしているわけですね。

そういうことがあるけれども、特に大祓の中にある、草の根っこまで、木のさやぎというか、風になる音までも、音を止めてというか、そういう意味ですよね。それはやっぱり、我々が遠津御祖神から、自然の五行の神を迎える技をしているから判ることでもあるわけですね。それは木火土金水というかですね。それに風がそこのところに当たって、音を出すというかですね。風の音が止まるようなイメージかもしれません。草や木が鳴って、人の声のように聞こえるというのは、ある面では、ヨーロッパの森の考え方だと、森の精というか、木とかそういうもので、そういう精霊があって、それは夜うるさいようなですね・・・。そういう童話や民話の中にありますけれどもね。そういう、うるささでもないと。

日本でも、木の中にかつて生きていた人が入っているというようなことをも感じるような、敏感な人はいっぱいいます。そういう場合でも木の中にそういう存在が入ったというような言い方をしたり、木を切る時には、そういうものが出てきて、邪魔をするということが、もちろん日本にもあるのですけれどもね。そういう木の精だけではなくて、憑依というのかね。木に憑依をするといったらおかしいですけれども、そういうふうな捉え方もあるんですね。そういうものもある面では、うるさいと言ったら、うるさいですね。

◇息吹で鎮める「六種鎮魂法」

五行の木火土金水というものが、そのままありのままに存在するということを実現するのは、六種鎮魂という作法で、全ての、ある面では「語止しめて」いる方法というのは六種鎮魂法ですね。それで息という風の息吹でもって、鎮めるというのかね。

自然の働きの中にも、結局また荒魂とか、和魂とか、そういう神さえも魂(たま)を五魂に分けたりする。まず最初に、荒魂と和魂に分けたりとかですね。それを鎮魂するということで、それを「語止しめる」ということをやっているわけですね。白川では鎮魂法ということでやるわけです。ですから、言葉としては、そのままの言葉でお祓いの言葉も使う。あるいは、そのことで言霊というのか、言葉としてそういう働きを起こすということも一方でありますけれども、神拝作法でもそういうものがあって、それは六種鎮魂法ということで、六種の中に「語止しめる」という働きを持っていて、そのことを実現しようとしているわけですね。

◇そのまま確かに存在している

ある面では、それだけではなくて、色々とひっかかる言葉が沢山あるわけですけれども、それも全て神の名もそうですし、働きというものもそのまま実現できたんだというかですね。それが仏教で言う「悟り」というようなことでもあります。自然というものを、そのまま確かに存在して、それが五行であるということ、あるいは六大であるということを確認することが、最初の悟りということをよく小笠原先生が言われていました。そういう感覚になるということですね。

ですから、それはちょうど、人間だけが、逆に言えば、自然とのコミュニケーションの中でうるさいと感じるということは、自分自身がうるさいということでもあるわけですね。赤ちゃんのような音色まで楽器の中に取り入れながら、天地人というような捉え方もありますけれども。少なくとも、そういう一つひとつが言葉で祓い、大祓ということでやる技があって、それを実現していくということですね。その言葉がそのまま分かったというのが、最初の悟りというかね。

◇自身の身で音を聴き、意味も聴く

もちろん、今度は大祓の中では、更に様々な解決しないといけない問題が沢山あるわけですね。それは社会というようなところで、解決しないといけないものがあるし、それが今まで試みてきた日本の歴史でもあります。そういうものを含めて、一字一句、それは一音一音になっていますけれども、一字一句、意味も含めて感得する。それを体感するというのかね。その為にあるというのかね。

だから、口祝詞というように、ただ口に出していれば悟れるということではなくて、そういう一つひとつを、音を自己に戻しながらというのかね。自分自身の身で音を聴き、意味も聴くということをすると、お祓いをあげるということがとても役に立ちます。

不思議な言葉が沢山ありますし、よく分からないというところもあると思います。色々な階層があって、言葉というものを間違えると、それは犯すというよりも言葉の強い、殺す文句ということもあるんですね。そういう殺すようなことが出来る言霊というものも、それも中にあるわけですね。とても犯す程度の話ではないということですね。それは階層があるということですね。そういう母音とか、子音というようなものの働きを犯すというのかね。そういう間違えるということへの配慮が、言霊から見ると、大祓ということになるのですけれども。そういうことが色々な階層にあるから、それを掴みながらやるというわけですね。

◇分かった時はとても嬉しい

ある面では、三種の祓い、大祓、一二三も、一種の悟る為の暗号みたいなものですね。それを次第にシステム的に学習したりするということが、古代からのやり方ですね、その辺りを口祝詞にしないで、諦めないで、沢山の楽しい悟りがあるんですね。分かった時はとても嬉しいことですね。それは何十年あげても、いつまでも悟りというものはあるのではないのかなと。そのようなことは体験から言えます。それは私が悟る力が弱いから、沢山の時間をかけてやっているかもしれませんけれども。少なくとも、そういうことで飽きることはないということですね。それはもう十分などということが、自分自身の慢心に繋がるのではないのかなと密かに思いながら、自分であげています。毎日、あげていると同じようなことだから、口から出まかせではなくて、口に任せて出ていっているかもしれませんけれども(笑)。

そういう言葉を満遍なく、ただ出すのではなくて、一音一音をしっかりと出して、それをもう一度、自分に循環させて、そして、それを確認するということでやると更に良い結果が出るのではないのかなと思います。

ありがとうございました。