0283話:2017年12月07日

おはようございます。何かご質問ありますか?

 

●Tさん
今日の感想ではないのですが、ふと思ったのは、七沢先生が話しをされるとき、ダジャレではないですけれども、よくダジャレめいたというか、お話しの中で、そういうお話しをされますが、僕らは会話をするときに、例えば僕がある女性をお綺麗ですね、と褒めた時、そのまま素直に受け取る方とある側面から受け取る方がいて、ある時点からなんというか一つの話しを聞いても、二重にも三重にも理解できるというか、七沢先生の話しを聞いていると、何重にも理解できるというのか、そういう特性というのは日本語だけのものなのか、他の言語でも二重、三重に捉えられることができるのかということをお伺いしたいと思いました。

 

【七沢代表】

◇見方の違いがよくわかるのが「易」

だから、言語も数の言語とか、形の言語とか色とかになっているわけですね。エスキモーは雪の白の色を1000種類くらいを見分けられるそうですね。フランスなんかの調香師(匂いを嗅ぎ分けて香水を作る人)では1000種類くらい臭いが嗅ぎ分けられるそうです。200の単語があれば、軍隊なんかでは最高の軍隊になりますね。多くても良くない。漢字で丁寧ということの語源は、沢山の人に確実に命令が伝わるということですね、軍隊の言語ですね、中国では。言語というのはコミュニケーションするためにあるわけですけれども。

言語が色々あるということで、象形文字などの形に現れる文字と音声ということに分けられるのですけれども、色々ありますけれども。今のお話しだったらまず見方の違いというものがある、それがよく分かるのが易ですね。易経という中国の一番古い書物ですね。3000年くらい昔のものと言われています。卦(け)というものが6個あって、陰陽を6個並べて占っていくんですね。易の卦を立てる。50本の内、1本を神様に置いて、残りの49本で占っていくんですね。

あれもだんだん下から見る方法ですよね、普通はね。それは上からも見られるし、6つあるから、2・2・2に分けて3卦で見るという見方もあるんですね。横から見たり、上から見たり、視点というのが何箇所かあります。そういうものを帝王が卦を見るというのは帝王学の一つですね。集団になってくると、それも変わってくる場合もありますけれども。その人の個人の卦、つまり王様の卦と集団の卦というのはまた違ってくる時もあるんですね。

信長は本能寺に行く前に易を立てているのですが、その時は凶と出ているんですね。立てた人は絶対行かない方が良いと言ったのでしょうが、行ってしまって、あのようなことになりました。あえて、王になって、自己の意志の強い人は、それを無視してもやるという方法もあります。松下幸之助さんは、色々な占いをやっても、全く反対のことをやったという人もいましたけれども。そういう見方を変えるということが王の一つの、ですから、君から天皇から民を見る見方と、同時に民が君を見る見方の両方を天皇、あるいは周りにいる人は本当は帝王学の中で教えないといけないのですけれども。

◇民から君を見るか、君から民を見るか

特に白川というのは、天皇の御一人のための学問や神拝作法なんかで伝わっているのですけれども、例えば、天皇陛下がお座りになって、災害の時に、御見舞をされたりされるようになってしまいましたが、元は神様の前でも礼なんかしないんですよ、天皇の作法というのは。榊を持っていって、ドンと立てるだけなんですよ。皇族は本来はそういうことですね。

高濱先生は大きな神社に奉仕されておられた時に、高松宮様をご案内された時、礼なんてしなかったと言われていました、戦前ではね。ところが、消費税の入る直前では、私の会社の取締役をやっていた方が、政界の重鎮を集めて、消費税を決めたのですけれども。この時代の中で一つあったのが、要するに、平民は礼をしているのに、天皇陛下はなぜ礼をしないのかということがありまして、どうしても民から見ると、悪印象を与えるのではないのかという時代だから、それで会釈をするということを伝えたんですね。

それは見方ですね。民から君を見るか、君から民を見るか、ということですね。そういうものを要するに、演技というのかね、それを本気でできるということではないのかと思うんですね。

◇瞬間の振り

ですから、人間関係もそうだけれども、一つのコミュニケーションのプラットフォームとして、そういう見方というものを自在に変えていくということができるようになると、非常に円滑なコミュニケーションになるというのかね。たぶん、昨日も少しありましたけれども、人間同士のコミュニケーションでも、動物とのコミュニケーションでも、自然とのコミュニケーションでも、既にコミュニケーションしていると思うのですけれども、瞬間に情報は伝わっているということだと思うんですね。後はそれぞれのコミュニケーションの次の段階では、相手の顔を見たり、表情にも結果が現れているんですね。瞬間にコミュニケーションが終わって、あとは表情という結果がね。会う前もそうだし、会ってもそういうコミュニケーションが起こっているわけですけれども、それを今度はおもしろおかしくと言ったらおかしいですけれども、更により良い人間関係にしていくというのかね。そういうふうにしていけば、問題はなくなるというかね。その時にもう終わっているんだというくらいから見るというのかね。

瞬間の振りの中に、何か解決の道やあるいはそこでですね・・・そういうものは元々ヨーロッパではエスプリとか、ユーモアとしてあるのですけれども、日本では神道にはですね、笑うという・・・僕は神道というのは食べる宗教でもあるのですが、笑う宗教ではないのかと。

◇縦と横のコミュニケーション

そういう一面もあるのですけれども、漫才というのは元々、神道の正月だけではないのですけれども、会話の面白さというのがあって、それが発祥でもあるというのかね。今の落語とかもそうですけれども、仏教が入ってきて、講釈師とかね、日本では歴史・史実なんか怪しいでしょ、殆どは戦記物とか、琵琶法師とか講釈師が伝えてきて、それを面白おかしく伝えてきているのですけれども、今度はそういうふうにそれを情緒的に捉えると、韓国のドラマみたいにファンタジーばかりになっていって、恨み辛みのファンタジーになるんですね。それも一種のエンターテインメントではあるのですけれども。少なくともコミュニケーションを円滑にしていくということの内容、それは階層を上がり下がりしながら、横とのですね・・・

ですから、3次元、4次元ではないのですけれども、目いっぱい人と人がこの場で、コミュニケーションの場で楽しく生きるということをですね・・・天理教なんかはそのことを陽気暮らしと言っていますね。陽気に生きようと。陰と陽ですけれども、陽の気で生きるということ、そういう場になるということを言ったりしますけれども。その辺りはコミュニケーションの縦系のコミュニケーションをする時に、様々なコミュニケーションの形が出てくるということですね。白川では人清まらなければ、神も清まらないということを言います。神から人を見る、人から神を見るということで、そこから清まるということをどうするかということで捉えたりすることもあるんですね。

◇自分のことを他人の立場で言える

来年の新しいワープに変わる転生自由七科ということでやりますけれども、それは結局、見方というのかね、それを自在にするということがテーマになるのではないのかなと。それで演劇を入れたらということを言ったんですね。ポイントとなるところは、いじめで子どもたちが命を断ったりするというのは、結局、自分のことを他人の立場に立って、言えないというのかね。言えるようになると、いじめは無くなるんですよ。

だから、これはカウンセリングもそうですけれども、自分のこととして言わないで、自分はこういうことを聞いたのだけれどもとか、こういうことはどう思いますかということでも良いんですね。そういうことであれば、自分のことなのですけれども、解決の出し方、言い方が出てくる。それと同じように、そういうことをするといじめが無いというのかね。

◇いじめは演劇をすれば解決する

うちの子供達とH君のおじいさんが甲府児童劇団をやっていて、小学生4年位から中学2年までやるんですね。それで私は会長を8年位やったこともあるのですけれども。一番良いところは、いじめがないんですね。あっても陰湿なものにならないんですね。早めに分かってしまうから。演技のようにセリフが言えなければ、自分自身でいっぱいになって自己にぶつかってしまうんですね。自分の中で悩んでしまうから。今のいじめを半分以下に減らせるのは、学芸会とか、劇団とかお芝居のようなものとか、演劇をすれば解決するというのが私の持論です。H君のおじいさんからそのことを学びました。小学校の先生たちを指導してきたから、それをやりましょうとずっと言ってきました。
児童劇団の練習場になるところを作ろうとしていたんですね。文庫もそうだし、ロゴストンセンターの2階も昔は練習場でした。演劇の時のようにセリフを言えるということですね。セリフを言えるということでもって、それを楽しくできるというのかね。そうしたらより良いのではないでしょうか。余計なことをいっぱい言ってしまいましたね(笑)

他に何かありますか?

 

●Sさん
年号が今度、変わると思いますけれども、どのような年号が先生的には良いなと思いますか?

 

【七沢代表】

◇民との関わりが言葉になっている

全然、考えていませんでした(笑)でも、年号で決まるということも言われますけれども。

今度、考えてみますね。たくさんあるからですね。一つの時代の画期というのかね、限って次に行くというのかね。中国だと客観的というのかね、そのように切る年号法みたいなものがあるんですね。1元、2元というようにね。20年で一巡りで時代が変わっていくというのか。それは九星ということにも繋がっていくのですけれども。20年を9回で180年で一回転するような、1元から9元というような見方もありますけれども。そういうものと伊勢神宮の遷宮は、20年というスパンで、そういうことでやっているということが言われますけれども。やっぱり天皇の時の、治世というか、年号というものの意味というか、その時代での民との関わりというものが言葉になっているというかね。それは天の時、地の利、人の和というような言い方で、天地人という分け方がありますけれども。人の和というのが大きいわけですね。

NASAなんかは非常に特化したところもありますけれども。太陽系に彗星が入ってきたり、太陽のフレアの放射がどのくらいになるかとか、細かく天の様子、あるいは月の影響も見ていますけれども。そういう人の、人というのは自然に生きながら、自然というものを忘れて生きることもできるし、天という宇宙のことも考えなくても生きられるというのかね。

人というのは非常に幅広い・・・最終的にストレスも極限に行くのは人間同士のストレスの荷重がかかってきた時に、ストレスで飛んでしまうんですね。閾値を越えて病になるのですけれども。人の病というのは、歴史もそうですけれども、影響力があるというかね。年号が変わるというのは画期でもって、大きく変わるのですけれども、ですから、非常に大事なところにくるというかね。

◇願い過ぎてもなかなか上手くいかない

皇太子と世界との関わりや、日本国民との関わりの中で、およそ予言する、創造するような内容になってくるようなことになりますけれども、大事な呼び方になると思うんですね。

それを極端に吉兆が起こるように願い過ぎてもなかなか上手くいかないというのかね。それは年号というのは、色々考えて出てくるというのかね。本来は卦を立てて、神示でやるのが筋ではないかということもありますけれども、今、なかなかできない状態となっていて、僕がこんなの出たと言っても仕方ないことでありますからね(笑)。なかなか難しいのですけれどもね。そういう我々の仕事としては150年間ある面では白川が天皇陛下にお伝えする中身、十種の神宝ということとか、三種の神器の本来のあり方というところまで含めては、あるいは神拝作法の部分をお伝えしないといけないということですが、いつでもご下命があればお伝えするという用意はあります。

◇皇太子の教育要員というミッション

「小説スメラミコト」という本も出ていますけれども、それで自分のミッションとか役割が分かったというかね。今の皇太子の教育要員というものだと分かっていたんですね。それがようやくそれは皇太子の時に本来は教えるわけですけれども、白川というのは旧の宮家の方にご修行してみて分かるのは、早いんですね。天照大御神が遠津御祖神ですからね。我々が遠津御祖神の修行をするという時に、最初でもって、それが出てくるわけですけれども。皇家は国津神を通り越して、天津神の天照大御神の先祖だから、遠津御祖神が天照大御神だから随分いいなと(笑)。我々もどこかで必ずつながっているので、天皇の血筋に関わることは間違いないですけれども。

そういう意味ではできると言えばできるのですけれども。クセがあるんですね。ここはお出ましがなくてもできますけれども、霊体をお迎えしてやるという作法の伝承もありますから、遠隔でできるようなものになっているんですね。だから、何の不都合もない、ここに皇太子が来られてとかね。できるようになっていますけれども。私が御所や宮中に行くなということを白川の中で遺言であります。それはもちろん150年の恨みがあるわけではありませんけれども。そういう方法が伝わっているということでご理解ください。

◇来年2日はスーパームーンのお祭り

さて、来年の2日は月がスーパームーンになりますので、それも兼ねて1月2日はお祭りになります。そういうときには大きな願い事やですね・・・それはネパールの釈迦族の末裔の方々と20年位、新月と満月の祈りを下請けしてお願いしていたこともありますけれども、月というものは満月の狼男ではありませんけれども、非常にエネルギーが高いと言われますけれども、2日はスーパームーンのお祭りもあります。そんなことでまたやっていきます。

ありがとうございました。