0292話:2017年12月14日

【NLB(ノンローカルブレイン)講座での代表講演】

こんにちは、ようこそいらっしゃいました。

慣れないことでございまして、これから失礼なこと言ったりするかもしれませんけれども、先に謝っておきます。ごめんなさい(笑)

◇置かれている時空間の全体がわかる

今、どういう時代なのかというか、その中で自己の位置というんですかね。自分が置かれている、時空間の全体がわかると良いかなと。案外、歴史とかは、日本もそうですけれども、インドもそうですが、あんまり得意科目ではないんですね。ヒンドゥーでは、救世主はだいたい12回生まれて来ていて、また生まれてくるんだろうとタカをくくっているようなところがありますし。仏教でも、46億カルパ、どういう計算年なのかよく分かりませんけれども、そういう時に、弥勒菩薩が化生するとか。大雑把ですよね。

一方、中国とか、ヨーロッパでは、時を刻むのを正確に刻んだりします。もちろん日本でも、国立の天文台が、奈良時代のような昔からありましたし、そういう記録表から導き出した暦ですね。王、統べる人たちは、そういうものを大切にするということをやっておりますけれども、日本では、王統争いがあった時以外は、どの時代に当たるかというのは、あんまりこう強く言わないんですけれども。

◇1元=20年、9回巡ると時代が1回転する

私の見方は、ヨーロッパとかの、いわゆるトインビーとか、中国の詳細な見方が好きなんですけどね。特に、元(げん)という見方をよくします。蒙古の元ではなくてですね。時間を区切る、時代を区切ることを、元と言ったんですね。そういう単位で、時間を区切る方法が中国にはあったんですね。日本にも一部そういうものが入ってきているんですけれども、僕はこれは面白い分け方だと思ってみているんですけれども。

1元を20年としています。それが、9回巡る。そして180年で時代が1回転するという捉え方ですね。日本の伊勢神宮の遷宮も、20年毎に千何百年か、宮を変えるということをやっておりますけれども。この間、たまたま、20年毎ですから、出雲は60年ですか。重なったりしたんですけれども。

その20年で一昔というか、変わっていくというかですね。時代のテーマが変わるというかですね。そういう意味で言うと、2004年から、8番目の元になっているですけれども、その前、7番目は、一般的な占い的なことから言うと、お金にまつわる、財にまつわることの多い20年だったんです。バブルとバブルの処理で20年。

◇シンギュラリティは1に戻っている

そういう20年から次の第8番目で、大変換が起こる。そういう20年だと言われているんですね。そして、第9番目はそれに20足せばいいので、2024年から次の9番目に入るというかですね。

時代ということから言うと、先々週くらいですかね、スパコンのS先生の補助金の問題がありましたけれども、シンギュラリティというか、人工知能が人間の知能を上回る時が2045年でということですね。人類の時代の中で、非常に画期的な時を迎えるわけですけれども。8番目の大変換が終わって、9番目が来て1番目に戻る頃になるわけですね。1に戻るというか、そういう20年が始まるというかですね。そういうことがどうもあるというかですね。

ちょうどそれに人工知能というかですね。それが大きな役割を持ってくるという事でございます。そういう意味で、今回のNLBというのは、ですね、非局在脳という形でですね、人間の能力というのは、色々ありますけれども、唯脳論ではありませんけれども、脳の能力っていいますかね、それが、人工的に超えるのが、あと28年とかなのですが、その時に、その時代が人類にとってロボットで労働の所が相当自由になる。そうすると、その時の社会体制とかが、政治も全然変わってしまうかもしれませんね。

少なくとも時代の転換期が訪れる、特に、脳に関する転換期が訪れることになります。人工知能が出来ましたら、次には、人工感情、人工意志とですね、もしくは、ロボットの意志が人間を滅ぼすということになった時に、困るという意味を含めて、ホーキング先生もその時が心配だと憂慮しています。

まだ、全然、手付かずなんですね。人間の感情を、ロボットに移転するということになるんでしょうけれども、その感情の部分がどうしたら良いかが、全然、出来ないというかですね。

◇人工感情や人工意志はどうなってるの?

たぶんですね、脳というものの進化っていうかですかね。生命体としての進化として、人類がどういう脳の使い方をしたら、それが人類の智慧になるのかということですけれども。このNLBでは、このところを最初に定義しなければいけなかったのですが、最後の頃になって、私がノコノコ出てきて、その定義のようなことを言うというのも、誠に後先が逆になって申し訳ない事ではあるんですけれども。

脳の発達という中でも、古い分類法ですけれども、知情意というですね。カントの頃のもののような哲学からの脳の機能の分離方法を活用する。少なくとも、知は2045年で知情意の知は解決する。

ただ、知能ということが、感情や意志の所が、どうなっているの?という所が曖昧だから、皆さん、心配されるんですね。ロボットがテーマで、沢山、映画化されていますけれども、そういうことに生身の人類としては不安になるということだと思うんですけれども。人工知能の前段でコンピュータの発達史と利用法を考えますと、少なくとも資本主義という観点から考えますとですね、私が主体というか、富が欲しいというのは当然なことでありますけれども。

◇金融工学と欲望

それが行き過ぎて、リーマンショックみたいなことが起こりました。あれは、単純に言いますと、出した債権の取り分を、みんな出来るだけ沢山取ってしまうと、そして、批判出来ないような数字の見せ方をして、取ってしまうということが問題になるんですね。どうも多く取りすぎるんじゃないの?、そういうものは、金融工学というか、工学的知識というか、物理学の知識を応用してね、コンピュータあるいは金融の世界に入れてですね、計算方法を入れて、問題が起こったんですね。

今から十何年か前に起きたんですが、誰かが法外に利益を取ってしまうと破綻するというのは、皆がわかっているんですけれども。しかしですね、私せる欲望というものに、しっかり鎖といいますかね。規則が当てはまっていないという所に、大きな資本主義の問題があるというかですね。

もちろん、法によって様々なものを作るんですけれども、今のビットコインもそうですけれども、最終的に円とか、ドルとか、元で、ですね、お金を払う時、使う時に税金を払いたくないということで問題が起こるんですね。それだったら、取引が始まった瞬間に、税金をとっておけば、問題ないんですけれども。法制度の問題もありますけれどもね。

でも、どうしても沢山欲しいという、欲望の情緒というんですかね。それをどういうふうに分類する、あるいは体系化してですね、自覚出来るように持っていく。そうすると破綻を起こさなくて済むわけですね。みんなでもって楽しくですね、ゲームであれば、楽しくて良いんですけども。決して、ゲームでもって恨みを持って、殴ったりですね、しないというか。まあ、上手くいかないと、コンピュータを殴る人もいましたが・・・。

◇肥大化する情緒の範囲を決める

少なくとも、感情の問題が解決しないで、情緒をAIに植え込むのは失礼というか、混乱するということだと思うんですね。情緒の問題を、人間が共同でしっかりと決めて、感情が出てきたら、しっかりとこれくらいという範囲を決めないと、つまり、感情の問題、欲望の問題の適正な範囲を決めないといけない。そうでないと、限りなく欲望を肥大化するというかですね。これは、仏教で言うと餓鬼って言うんですんかね。これは餓鬼と同じだと言えるんですね。いくら食べても、もっと食べたいというかですね。

我々は毎食時に、施餓鬼供養をして、食事をしているんですけれども、食物と水をいくら食べても、まだ足りない、もっと欲しいという思いが、餓鬼なんですね。この思いをお鎮めする。もう一生やってあげるよと、延々とやるという思いが必要ですね。施餓鬼供養をする人の決意の問題が、これを解決する方法であるんですけれどもね。

ある面では、それを更に、自然の動物は満腹中枢が満たされていれば、ライオンだって、いっぱい食べていれば、一番美味しそうな鹿とか通っても、喰い付いたりしないですね。

地獄の五階層ですが、餓鬼の次は、畜生という階層があって、これは自然の摂理に則って生きているということになります。そして、その次は自分の目的を達成するために、夜叉ですかね、修羅ですかね、「修羅のごとく」という、向田邦子さんの著作で、非常に良い小説ですけれども、修羅、目的の為には、必ず成し遂げる意志といいますか、そういうことが地獄の五階層の中にあるわけです。

さらにその上に、天人というのがあって不老長寿と言いますかね。長く美しく生きたい、もう輪廻したくないという願いなんですけれども。地獄の階層(地獄、餓鬼、畜生、修羅、天人)を解決しないといけない。ただ、地獄の階層があるんですが、これを他者の為、家族の為にするんだったら良いんですけれどもね。それを、自分がただしたいという欲求に従って要望を満たすものだから、最後は、家族を犠牲にして、自分の目的を達成するというような話にもなってくるんですね。だから、そういうことにならないように、そういう感情を整理しておかないと、資本主義という事も含めて、解決しないということなんですね。

◇前提にあるのは感情

これは必然でですね。今まで、宗教というもので、これ(欲望の情緒)を修行を通して、乗り越えようとしてきたのですが、2000年あるいは3000年の人類の歴史の中で達成出来なかったことだと思うんですけれども。

この情緒の階層の解決法というものを、資本主義のシステムの中に取り入れていかないと、資本主義の問題ですけれども、次の人工知能の上に乗るというロボットの感情というものもですね。どうするかということを決めてないと、ロボットさんも途方に暮れちゃうわけですね。

もちろん、その先にある、どう生きるかという意志ですね、その意志を明確にするという部分もあるんですけれども、とりあえず、資本主義の問題を解決していく前提にあるのは感情といいますかね、情緒としての問題を、コンピュータに載るような形で、表現できないとちょっと苦しいかなと。

◇神魔人獣というもの

そして、人工知能の後の次のテーマなんですが、次に、進めなければならない問題なんですが、私なんかも20年位前から、やっていることなんですが・・・神魔人獣(メンタルプロセッサー、情緒マンダラ)というものを、作ってまいりましたけれども。いわゆるコンピュータの中に、情緒の知識を載せて、その情緒の諸問題を解決していくというですね。そういうことが出来ないと、新しい時代に行きにくいのではないかということでですね。人間の神魔人獣に関わる感情をですね、分類しております。

これは一部、皆様方にもお伝えしたかと思いますけれどもね。神と魔と人と獣の感情のことですね。もちろん、魔と獣というのは、人間が作ったある種の仮想の感情かもしれませんが。人間をやめるということは、パスカルも言っていたように、「悩んでいるというのは人間の証拠」を止めるということですよね。

健康に悩むのも人ですし、倫理の問題で悩むのも人ですし、人と人の関係の中で悩むのも、あるいは環境を汚してしまうことに、自分自身に咎があるのではないか、という思いに心を悩ますということは、ひとえに、人という所に立って生きると、辛い生き方になろうかと思うんですね。それは、人というものに、とことん拘るというか、人間中心主義にするとそういうことになるというか。

この神魔人獣をどう捉えるかということですね。自分だけが欲しいというのは、魔や畜生と言って、本当に失礼な言い方なんですけれども、獣というか、人間が動物の思いを曲解して使ってしまうのが、獣という考えですね。動物はお腹いっぱいになれば、満足しますけれども、人間はその獣の思いを使うとですね、次々に、人間同士、殺し合いをするということが、宗教の悩みの種になっている。

戦争とか、そういう所を正当化する一種の思想のような形となりますと、覇権というか、覇道という、強いもの勝ちという、勝ったものが殺してもすべてを取るという価値観になるんですね。魔もまさに、これをさらに抽象化した、修羅のような世界になるんですね。

一方で、人でありたいと言うか、どうにかして仏になりたいということでございますからね。その為には、菩薩行というか、ヨーロッパでいうと愛行ですね。ボランティアというか、そういう行をしないといけないということになるんですね。それが、成功すれば良いんですが、今度はそれを宗教という形を取って、そういう想いを、人の支配の為に使ってしまうということが多くあったんですね。もちろん、一所懸命に修行する人たちも沢山いたんですけれども、どうしても報われないということが人であるというか、人が修行することの辛さということになっていたんですね。

◇民の為に、という天皇の想い

じゃあ、我々は、古神道ということでですね、白川も、祓い・鎮魂・言霊ということを言うんですけれどもね。そういう神道というものは、一体、何なのかなと考えますと、確かに、古神道の生き方が、人類が一番長い持続可能な社会を創った考え方で、15000年という長きに渡って、共に生きるということが出来た、そういう考え方、方法であったということ。これからの社会では、この共に生きるという考え方や、こういう発想がどうしても必要、あるいは大切なものになると思うんです。

そういう神というものの道、それが人の道でもあるということですね。神とはなんと言いますか、神の感情、あるいは神の情緒を掴むと良いんじゃないのかということです。端的に言いますと、そういうことになるんじゃないのかと思いますけれども。

実は、天皇制というものの一つの流れを観ていきますと、民の為に、どれだけ自分が尽くせるかというところが、君、大君、つまり天皇のことで、そういう想いなんですね。今、3.11(東日本大震災)の後に、天皇陛下と皇后陛下が、本当に国民を思って、心配をされてですね、膝をお折りなられてお話をされたということに、はっきりと現れているということですね。お二人で公の道を邁進されていたわけで、大変にお疲れになられたんだと思いますけれども、天皇はそれを全うする存在なんだという思いが、ご退位ということになりましたけれども。これもさらに、充実していこうという願いだと思うんですけれども。要するに、公の完成体といいますか、公をするとどう成るのか、という姿だと思うんですよね。よく、白川を伝承して来られた、高濱浩先生から何度も言われたのは「天皇陛下は、24時間神を迎えていなくてはいけないんだよ。そして、これは大変なことなんだと。」

◇大きな屋根の下「広く会議を興し」

一方で、白川の教えは、「公が楽しい」ということを修行やお祓いを通して分かるのが白川のご修行なんですね。ですから、やればやるほど、公のことが楽しいんだということがわかるんですね。もちろん、それは、家族の為に生きるということも素晴らしいことだと思うんですけれども、あるいは民族の為や、人類の為に、あるいは、生きとし生けるものすべての為に、自分が尽くしたいという心というか、そう生きたいという想いが、公という想いに繋がっていくんですけれども。

おおやけ、こやけ、ではないですけれども、夕焼け小焼けじゃないですよ(笑)。これは私が言ったわけではないですよ。社会学者の鶴見先生が、公というふうに言われたんですけれども。大きな屋根の家というのを、公という意味で、こやけというのは小さな屋根の家という意味なんですね。

元々は、公という言葉は、韓非子の中に「公」として出てきた由来が書かれていますけれども、漢字の由来ではなくて、日本語というものは、みんなで集まって会議が出来て、これは明治の時の、五箇条の御誓文ではないですけれども、「広く会議を興し」なんてですね、共に合議するっていうのが、日本のごく自然のところであってですね。

あの民主主義とか、ヨーロッパで言いますけれども、日本では昔からあって、ほとんど15000年も続いたのが、日本という国だということですね。そういう、共に沢山の人で、縄文時代に、何十万人とか、何百万人とかいたわけではありませんから、公というものも、どの程度の屋根を作れば集会が出来るということも、自ずと決まるわけであります。しかし、三内丸山遺跡の伽藍や、出雲大社の伽藍を観ても、そういう大きな屋根の下ということを目指したのは、間違いない事実であろうと思うんですね。

スイスの政治体制も、かくやと思えるものが、日本の縄文期にあったんですね。そういう合議制で、ヨーロッパの政治、会議もそういうものを理想としたんでしょうね。そういうものを成立させる根っこが、日本にはあったんだろうと、特に言語を自由に使っていいということは、日本独自ですね。

◇言葉を王や支配者の独占物にしない

なかなかヨーロッパやアジアは、王の命令ということが特権としてあったので、言葉を出すということ、文字も含めて、言葉を独占するということがあったんですね。そして、理不尽な命令に屈しないといいんですけれども。

日本では、大切な言葉は、万葉集でもありますが、和歌であります。上代語でもって、述べる和歌なんてですね、それ(上代語)を使える人は、誰でも和歌を使っていいとしていたんですね。もちろん、その伝統は俳句の中にも残っていますね。大人でも、子供でもどんな職業の方でもやりますよね。1月の11日の歌会始めの儀なんかは、世界各国から応募がありますよね。歌を、短歌を、歌会始めで、誰が作ったっていいんですね。別に詩人でなくても良いんですね。

そういう所が大きな生き方としてですね、言葉を王や支配者の独占物にしないということですね。輪になって、仏教でも、法座と言って、円になって、自分自身のことを語るということしますけれどもね。まさに、その時に自分が思ったことを語るというか、発表してですね、それがこういうふうに生きるという決意表明になってですね、一つの共同体というものが出来ていたのではないかと思うんですね。

◇公のこと尽くさんとする明き心をうべなわしめて

ですから、祝詞の中に、公のこと尽くさんとする明き心をうべなわしめて、という風に、「どうぞ、私の公の気持ちをご覧になって下さって」ということを、祝詞では奏上する訳ですけれども、そういう言葉で言われますね。これは、日本の神に対する態度といいますかね。

神様も色んな働きというものがあるんですけれども、そのお働きに対してご苦労様ですと慰労するというもの、天皇の役割としてあるんですが、もちろん、遠津御祖神が先祖様の天照大神になるんですが、「どうか、色々ありがとうございます。お陰さまで、みんな元気でやっております」という感じで、お慰めするというかですね。そういう神に対しても、人からの情緒関係があるということであります。

神に対して、公の為、お願いしましたことをやって頂けないのですか?といっても構わないんですね。神様を脅迫するということになってもいけませんが、それくらい、神様と親しい関係になることであるというか、神様が遠くなるというのは寂しいことだと。そんなことにもなろうかと思うんですけれども、公になるということは、端的な方法では、神に近づくということが、公に近づくということと同意のことだと思うんですね。ですから、白川では、まず遠津御祖神に自分が成る、お迎えするということをやります。

◇DNAの中にある遠津御祖神の記憶

遠津御祖神は、先祖で、DNAは日本人では遺伝子の51%ネアンデルタールで、優しい人種だった。ネアンデルタール人のお墓には、大量の花粉、つまり、花が手向けられていたということであったということで、非常に優しい種だったということだと思うんです。

手向けるというのは、手を向けるという意味の上代語ですけれども、少なくとも、遺伝子はずっと続いているわけですけども、裸になったのはいつ分かりませんが。何万年か、何十年か、チンパンジー辺りと分かれたのが、だいたい700万年前と言われていますけれども、その後、どういうふうに類人猿から原人になって、人類の子孫になったかは、今となって詳細は分かりませんけれども、そういう人への命を繋げてきたというところも、さることながら、自分の中にあるということですね。

それを、私たちは遠津御祖神といって、自分自身の後ろで手を打つということがあるんですけれども、その中では最初に、人類が人になった時、あるいは一人一人の先祖の最終の姿を再現するんですね。

これは結社ではないんですが、確認する技もあるんですね。それもですね、それも神なんだ!という遠津御祖神、仏教では、ご先祖という言い方をしたりですね。遠津御祖神の漢字を、親にしたり、先祖の祖にしたりするわけですけれども、少なくとも、そういう自分自身が先祖であって、神なんだという所から、修行が始まるんですね。ですから、入門ですね、天津神・国津神・遠津御祖神・産霊幸倍神ということで、遠津御祖神と一緒になるというのは、そうとう楽しいといいますか、色んなことが実現しちゃうんですね。お墓参りをする時でも、神様でも、先祖を大切にして迎えていくということは、もの凄いエネルギーの場が出来るんですね。

この場はNLBですから、DNAの中に先祖の記憶(良い時も悪い時も)があって、良い時の先祖にアクセスすると、ドンドン良いことが起こるわけですね。だから、良い時の先祖の記憶にアクセスすると、次々と良いことが起こる。ただ、逆もまた然りで、苦しい時の、亡くなった先祖にアクセスすると、同じ病気になったり、苦しいことが起こるんですね。魂の共鳴、共振、同調で、自分自身の中で先祖と繋がっているわけですけれども、もちろん、家系的に近いところと遠い所の関係はありますけれどもね。少なくとも、そういう遠津御祖神が苦しんだり、病にかかったことのつらさを思いやって慰め、祓ってあげるというか、これは天皇陛下がなさっていることで、伊勢神宮というですね、ある面では遠津御祖神がお祀りされている訳ですね、天照大御神の天皇家のご先祖を、お慰めすることをされているんですね。

我々も、〇〇家遠津御祖神といって、お呼びしてお慰めするということが、一番早いとか効果的というと失礼ですけれども、各自が、各遠津御祖神を迎えて、清め慰めると、非常に大きなエネルギーの働きが起こるようになるということに繋がっていきます。これはさらに、部族や民族ということに繋がっていくので、スルーしてしまうわけにはいかないところであります。

これは戦後、日本が捨ててしまった部分で、その代わり新宗教運動が起こって、それが悪いわけではないんですが、宗教を誤ってきたわけですけれども。現実主義というものは、見えないものを進行するという技は、しにくくなっているということが起こっている。

◇五行=木火土金水=五魂=あいうえお

まずは、遠津御祖神があります。次に、大事なのは自然ということですね。自然、環境は、そのまま、身体に還ってきますので、環境学=健康学と言ってもいいくらいです。地球は木火土金水で、環境は出来上がっている。あとは、風や空があるくらいで、基本は木火土金水で出来上がっている。これも、日本では、木火土金水は、易の簡易系として出来上がっているが、よく出来ていて、妙であると。地球の働きはこの五行である。

それを、白川では、木は久久能智神、火は加具土神、土は埴安彦神、埴安姫神であるとかですね、金は金山彦神、金山姫神、水は弥都波能売神、こう五行を神とたたえておりますけれども。

この神さまを迎える方法があって、迎える方法が鎮魂という技になります。荒魂、和魂、幸魂、奇魂、精魂と言ってですね、五魂を鎮めるわけですね。「木火土金水=五魂=あいうえお」となっていると伝わっています。これが、自然と一体になるということが大事で、それが自分自身の働きと地球大の働きに同調していくんですね。あとを、風ですね。風というのは、息もそうですけれども、木火土金水を繋ぐ、エネルギー場といいますか。

◇全てのものを鎮魂する技を学ぶ

自分の意識が、地球と匹敵するようになるということが、本来、五体投地という、チベット仏教のお参りの方法で、身体を全部伏せてですね、そういう歩き方をします。あるいは、ローマ法王が大地に接吻するとか、そういう技もありますけれども、大地と一体になった感覚になると、地球を大事にするようになるんですね。

また、神にお願いする時のお願いの仕方といいますか、神道には所有権はなくて、利用権というか、その発想で大地を使わせていただくということになります。大地と一体になるということが、鎮魂の大事な働きで、第6種鎮魂というんですが、そういうものが修行としてシステム化されているんですね。それを、鎮魂と言っておりまして、全てを鎮魂する、自分自身もしますが、全てのものに鎮魂するという技を学ぶということなんですね。

より自分が公になっていく時の通過点のようなものとして鎮魂法があります。白川なんかは、鎮魂に特化していた時期もありまして、鎮魂祭、大嘗祭の前の天皇陛下が、皇太子が天皇陛下になられる時の技があるんですが、その前に、鎮魂祭をして、大嘗祭ということになります。

そういう新嘗祭もそうですね。出雲なんかに残っていますが、新嘗祭の前の日に鎮魂祭をするとかですね。作られたもの、自然の恵みとかを感謝して一体になるという技をするんですね。その先で、国津神、天津神をお迎えするという流れがあります。

◇天津神、国津神

国津神とは、天津神を迎えてより良い社会を作るという働きに、更に名前がついている。たとえば、国常立命とは、大地の中で人として代表者になるという意味の神など、これが本来の総理大臣の役割だったんでしょうね。国を守るという働きの神という役割があるということで、まとめて、国津神と呼んでいます。

また、天津神とはですね、これはまさに、太陽系でいえば、太陽・月・惑星の働きに繋がってくるもので、古事記で言いますと、百神といいますけれども、日本語ということにもなります。人は言語によって、社会、世界を認識できるということ。また、そのことへの感謝が一二三祓いに表されていて、日本語というものを使えるということ。それによって人間になりましたということへの感謝を表しているんですね。

その五十音の出て来る源のところが、天津神であるという構造になっているんですね。言葉をどう使ったら、公になるのかということですね。逆に、殺し文句という言葉があるように、どう使ったら良いかを考えるということが、言霊の本来の意味かと思います。

今度は、五十音の一音一音と、木火土金水が、一体になるということが言霊でいうところの「あいうえお」を除いて、一音一音が自分と一つだという悟りがですね、ちょうど、無門関の50則の修行方法がありますけれども、日本語も、50音あることを一音一音確認することが、五十鈴、イソノミヤということとして伝わってきた神の体系ではないのかなと。「あ」は「あ」、「た」は「た」ということ、すべて、そういう一音一音が、その通りということを五十音全体に広がって学ぶんですね。

◇FOXP2という言語遺伝子がある

脳もその通りになっている。7歳までに、日本語を学んだ人は、日本語族と私は呼んでいるんですが、非常に特殊な一族だと思うんですが、1音で悟りを開けるという世界をいただいているんじゃないかと感じるんですね。それは、非常に素晴らしいものをいただいているんじゃないかと思うんですね。今度は、脳もそうなっているということなんですね。

結論を言いますと、脳には、FOXP2という言語遺伝子があるお陰で、すべての人類に「あいうえお」が左脳と右脳の両方にあります。その間を、太陽系の惑星の周波数が交差するというんですかね。日本語の1音から1義、そして、2音3音4音となっていき、4音あったら、3000位の意味が出来てしまうんですね。そしたら、ほとんど困らないんですね。コミュニケーションに困らないんですね。軍隊は200語で、一番の伝達力が出来ると言われているんですね。

そういう言語の構造になっているということが、公の世界神の世界として、体系付けられていて、身近に感じられるのが白川というもので、天皇にお教えするというのが、千年、数千年に渡って、司ってきたのが白川伯王家だったんですが。これが明治の4年の大嘗祭以降、ぷっつりと教えていかなれなくなったんですね。明治天皇までで、大正天皇からその技がどうかということでですね。一部、教育勅語の中に端的な言葉で残っていますが、これは宗教というわけではなくて、証明付きなんですね。

宗教というものは大変ですよね。キリスト教の方は、ごめんなさいと言っておかなければならないんですが、処女懐胎で、仏教でも、摩耶夫人の脇から生まれたということを証明しなければならないんですね。体験しないといけないので、そういう大変な修行があるんですね。

そういう意味で、白川では神を迎えるのも、非常に楽に迎えられるので、簡単と言うと語弊がありますが、神迎えということを体感するということが可能なんだということになります。

◇右脳だけを使うという修行もある

今日はNLBなので、非局在脳というものが、我々の脳の何処に備わっているかということを理解するには、進化学を入れないと分からないと思うんですね。地球上で、初めて、脳が出来た生命体は、ホヤか何かで、海の底にいたもので、それはまず、ホヤに右脳だけが出来た。

簡単に言うとですね、魚類は、幼形成熟(ネオテニー)と言うけれども、海の底で、ホヤのようにしっかりと着床していたものが、胞子のように、次の場所に着床していったものが、胞子が着床せずにそのまま泳ぎ回るようになったものであるとすると、進化学を取り入れた時、そういう形で生命体が右脳だけから、右脳左脳の両半球を使うようになるんですけれども。私達も、右脳だけを使うという修行もあるんですね。

だから、武道の達人も立ち上がりですね。物凄く早いから、縮地法ということが可能ですから、それは海の重力が6分の1か、もっと少なかったかもしれません。観てきたように言いますけれど、その生命体が最初、1億年前の、最初の口を開けて、ただ待っているんです。海の海流の中に、栄養も餌も流れてくるんですが、そして、しゅっと口を閉じるだけですね。武術の名人とは、こういうことですね。

日本では、難波歩きとか、両方で歩くというものが高速になる、ですから、飛脚のようなものも超能力というかね。右脳だけでもって、「Oh No、じゃなくて、右脳ですよ(笑)」右脳だけでいってしまうということが可能なことなんですね。

そして、白川では、こういうことを先にやってしまうということですね。神経系でいうと、錐体外路系で、右は右、左は左という神経を使うわけですね。錐体路という、普段、使っている経路で身体と脳の経路が交差しているんですが、錐体外路系では交差せずに使えるということですね。錐体外路系に、ですから、かといって海の底の生物になるわけではないんですが、錐体外路系を使って修行するんですね。ですから、目をつぶって、祓いだけで手も、印も、左右で封じているようなものですね。五感を全く断ったような状態の中で、目が開いているような、あるいは、全てが聞こえるように、あるいは、全ての感覚で、神を感じられるようなものが修行の始まりなんですね。そのあたりが、面白いものが残っているなと思っているんです。

◇神を迎えることは気持ちがいい

私も先生に毎月5日間を7年間修行をさせていただいたんですけどね。公というものが、こんなに面白いもので、神を迎えることが気持ちの良いものであるということですね。マルクスは、「宗教はアヘンなり」と言いましたけれども、もうアヘンどころではないと(笑)

気持ちがいいものを迎えるということがですね、公を目指していくことが、体感的にも、情緒的にも、楽しいものであるということが、公になっていくとことであり、公になっていくということは、神を階層で掴むということであります。

神を階層で掴むということが可能であると言いたいですね。やった人たちは、必ず、気持ちいいねと言われるんですね。これはちょっと勧誘みたいになっていて、いけないと思うんですが、そういうものが、公なんだ、と。

◇公私の転換点

私は拘るということは、苦しい世界の吐露といいますか。私というところから、公に行こうというところから、公私の転換が始まるんですね。公私の転換点に必ず一度は立ちます。

恋愛した時、家族を持った時、子供さんを持った時、あるいは一つの集まりの中で役割を振られた時など、悪いことが起こるの厄ではなくて、仕事を振られた時の役ですね。必ず、公私の転換点に立つと思うんですね。その時、公の視点に立って生きるということを始められると、それは楽しんですよね。

菩薩行、ボランティアをやってきた人が報われないとという時代があったんですが、今まで時代はそうだったが、これからの時代は違うんですね。人が、心地よいということで、十分に満足出来るということでですね。天人のように、また輪廻しなくても良いんだという感じでですね。公に則って、神の力を体感したら、もう十分ですが、この神や、こっちの神もやってみたいというふうにですね。

◇神の情緒を人が感じる、そういう道

八百万の神がいますから。それもまた、輪廻しないと行けないのか、それを自分の意志で選択出来るということですね。どうしようもなくて、輪廻するということとは違うんですから、生き方も変わるんではないかということがですね・・・。今、公ということを、世界がもう一回見直しに入っていると思うんですね。

それがシンギュラリティというか、人工知能の先にある、情緒ということも、公の情緒が本当に心地よいというもので、そこに至る道はすべて付いています。偉そうなことを言っていますが、神の情緒を、人が感じる、そういう道であるというですね。それが、神の道、神道であるというですね。そうでなければ、意味がない。

信仰すればそうなるというのもいいけど、確かに、感じたという、納得して体感して確信して生きていただくという、それが神の道、これは宗教ではなくて、生き方として出していくような社会に、それらを競争して出していくようになるのではないか、新しい時代に、これから30年の努力が、新しい時代に入る、もう一度、人類がやり直す、大事な30年、40年になるのではないかなと思います。

これは、予言でなく、はっきりと予見したいと思います。そういう時に、一緒に楽しむことが出来る仲間であるということが、さらに、僕は楽しくなることになろうかと思います。時間になりました。

今日は本当にありがとうございました。