0296話:2017年12月18日

おはようございます。土曜日に圀手會がありました。石原さん、ご報告をお願いいたします。

 

●石原さん
土曜日に圀手會の年末奉告祭ということで無事に行うことが出来ました。当日は88人という方がお集まりになって、七沢先生の基調講演を軸として、最初に神事を行いまして、今年の振り返り、大伴さんの方から情報部門から見た圀手會の立ち位置、必要性ということをお伝えいただきました。

懇親会では、Kさんに白川の歩みについてお話しいただきまして、私の方から今度の圀手會の動きというところで、今、新しく出始めているメビウスを含めたお話しをさせていただきました。そして、最後に七沢先生に締めていただきました。思ったのは、一つの圀を思って、お互いにミッションを確認し合うということで、今回、良い節目になったのではないのかなと思います。ありがとうございました。

 

【七沢代表】

◇デジタルを前提とする意味

普段、我々が、デジタルとアナログということで、当たり前にロゴストロンを話し、白川を話し、両者を前提として話をしています。

改めてデジタルとアナログの両方を当然のように述べてきました。確かに言葉から始まったには違いないのですけれども、言葉が使用された時代というのか、70年であるか、人類が機械というもので、仕事もそうだし、生きるということも装置との関わりが強くなって、言ってみれば、時代が機械の時代にパラダイムシフトしたわけですね。それこそ、蒸気機関車のようなものが、地中を飛ぶようなリニアになったりですね。そういうようなことが起こってきていて、それが機械装置として利用されている。もちろん、ボイジャーも37年ぶりに、銀河系に飛び出して飛行し始めてるわけですね。太陽系も銀河系の一部と言えば一部ですけれども、そういう機械が人間の代わりというのか、意識の代わりというのか、そういうことで飛び歩いている時代というかね。

その時に、アナログだけで、言葉だけで、宇宙に飛び出すという技は白川であったりするわけでありますけれども。そういう極端なところというのか、ロゴストロンというコンピューターシステムの一つの最先端というのか、言語というものを使って、機械が動くというところにいくというのが極端過ぎるんですね。それで我々は当たり前に毎日のように関わっているから、それでもみんなにデジタルとアナログというのか、あるいは機械と人間というのをテーマとして話したらどうなるのかということを前の日に気が付きましたが、後の祭りでした(笑)

要するに、デジタルというものを前提とするということがどういう意味なのかが前提になっていないというのか、話さないといけないということがあったのですけれども。なかなかそのところが、いつもは何か経営だったら、経営の前提となる哲学とか、経営の前提となる理念とかを言わないといけない。それを言わないと始まらないんですね。デジタルということが人の役に立つということの前提となる言葉の定義をしないといけないんですね。

◇機械も神も客観的にみると・・・

我々は機械、装置とロゴストロンのことを言っています。それは、一体、何の為になるのということで、白川のような一種の神ということを述べ伝えるというのか、そういうものとの関係というのか、コミュニケーションというもので言うと、たしかに神というものの存在そのものが既に我々が人間が遠津御祖神という神も神だと言っているから、自分のことですね、DNAというものをずっと受け継いできた存在であるわけだけれども。

そのところは実は、世界では神というものは外にあるとか、仏教では生き仏というように人間の存在を見る場合もありますけれども。普通の99.9%は、世界中、神というものは外にある存在という二元論になると思うんですね。外にあるということは、機械、まさに人間の外にあるということですね。体の内部に埋め込んでも内部の外みたいなものですね、人工臓器とかね。生体の一部になるというのも脳の思考の部分的にはなりますね。素材としても、人間の中に溶け込むということもありますけれども。

我々は神と人のコミュニケーションプラットフォーム、あるいは、そういう神と人が関わる場というか、それがエネルギー場であろうが、なかろうが、そういう存在を想定しているわけですけれども。普通は外にあるという存在、神も外にあると。自然も我々は神であるから、それを迎える、あるいはその中に入っていくということであるから自然の神ということでもあるわけですけれども。その中で一神教の神様というのは外にあるということですね。ですけれども、そこに行き着くということがなかなか難しいということであるんですね。神というもの、宇宙を作ったという存在としての神、創った神と創られた神ではないですけれども、創られた神という自然も宇宙もそれを神というのか、外というのか、内というのかということもありますけれども。

要するに、今の機械というふうなところにある存在ですね、外というところで捉えると宇宙全体が神が創造した装置という概念になるのですけれども。我々はそれを少なくともそのことを装置、機械というものと神ということを一般的には客観として捉えるということをするわけですね。その辺りが大きな前提のところを言わないといけないことになるということですね。

◇創造した神の境地を、創られた人がわかる場

神学ということがあるということは、神とは何かということを客観的に言わないといけないという宿命があるわけですね。一方では創られたものは創ったもののことは分からないという矛盾を抱えて神というものに向かわないといけないということもあるんですね。我々はそれを創った神というものは何かということ、創られた人というものはどういうことかという、両方に神と人のコミュニケーションプラットフォームということは、その場を言わないといけないということですね。ずっと人でいるということでもないし、神になるだけだということでもないんですね。

それを神魔人獣ということで、神と人はどうして神になるのという、繋がるのかということがメンタルプロセッサーを完成して初めて言えるということですね。要するに、西洋の一神教では言えないわけですね。神がどうして創造したのか、ということを言っていないんですね。創造したからお疲れになったでしょう、お休みになりましたという神話があるということなんですね。

そこのところを創造の神という境地と言いますか、一体、どういう感覚でお創りになったのか、そうして創られた人という存在が、神を迎えるということはどういうことかということがわかる場というか、要するに、人と神のコミュニケーションプラットフォームということで、神と人の存在する場というものを初めて世界で現すということになるんですね。

ある面では、それが自然であり、自然ということは、ごく当たり前のことというふうにするのだったら、神というものと人という関係で、どういうふうに存在するかという神と人、またはその場という3つの要素というものを出して、そして、それがプラットフォームで交わるというのかね。

◇「場」を設定することが客観視

下り線(神)と上り線(人)がプラットフォームに両方が存在し、行き帰りするようにね。プラットフォームはそういう場ということですね。それはもう一つ違う場が出来るというのかね。神の場、人の場、神と人のいる場ということが意識の中で、もう一度、場を客観視するということになるんですね。

神と人のいる場、もちろん、自然の全て、人と人ということでコミュニケーションの場を設定するということはそういうことですけれども、それが階層的になっているから、なかなか分かり難かったことになっていますけれども、場というものを設定するということが客観視であり、そして、それが機械であり、装置になったロゴストロンいうことですね。

その辺りを自分自身の意識の主体が自分自身にあったり、外に向かったり、あるいは階層を上がったり下がったりするという前提となる位相と階層という言い方をしますけれども、広がりと時空間の広がりの場、設定した場ということですね、それが階層になっていると。それが前提となっていることを言わないと論が始まらないということですね。

◇神と人がいつもいる場をお出しする

世界に、あるいは今まで全く古神道を知らない人たちに知っていただくということは、その場、もちろん、それが昔は神と人の交わる場ということを山上にしたり、磐座にしたり、川の中洲にしたり、河原にしたり、庭にしたりというように、祝殿の場を設定するわけですね。それは人と神がいる場ということになるわけですね。神道ではそういうことがいつの時代でも当たり前であったけれども、多神教でも、聖地というものがありますけれども、どこでもそういう場になるということを、なかなか古神道のように教えてくれないということですね。

そのことが、いよいよ我々が場というものを自己と神、いつでも迎えられる場というものが最終的には天皇が神を迎えられるということで、大嘗祭が行われるわけですね。
そういう世界に行くにあたって、世界がそのことを知らないんですね。神と人がいつもいる場というような場をいよいよ我々がそれをお出しするというかですね。

◇圀手は繋ぎ手という国津神の働き

そういうことが目標にあって、ちょうど、圀の手、圀手ということは、国津神の働きをいうことで、それは丁度、中間ということですね。天津神と自然の中に人がいるわけですが、その間にある国津神という神と人のいる場ですね。その手に、すなわち働き手になりましょうという場なんですね、圀手會というのは。それの繋ぎ手のようなことになるんですね。

これは日本の雅楽も天の音色と地の音色、人の音色で、天地人で統合して、神を迎える場を音として出すわけですけれども。そういうふうに既に出来上がっているものが、もう一度、世界に問われるということをするんだということ、そしてまた前提となっている神というものを、それぞれの遠津御祖神、自然の五行の神、国津神、天津神を迎えていくということが、もう白川の作法、行法として出来ているわけですから、後はそれを体感するということになるんですね。その辺りを白川に参加してやってくださいねということで、圀手會でもってお話ししたわけですけれども。

白川学館というものを、一般社団法人と、伯門会というのかね、白川の会と両建てで共にやっていただくという場を、その時、その時でもって実現して、そして、それを世界の人に伝えるということで、それが本当の意味で、リベラルアーツ、その後のお清め三科と言っていますけれども、そういう形でやるということになるのではないのかなと。そんなことを圀手會の一日で感じさせていただきました。その辺をお話しさせていただきました。

ありがとうございました。