0300話:2017年12月22日

おはようございます。何か質問はありますか?

 

●Mさん
今、農園の点検をしようと思って、色々と回ったり、色々とお声をいただいています。

そういう時に、農の本質というか、どういうところで見極めたら良いのかということを思いました。賢治先生の色々なお話しを伺っていますと、本当に本質の色々な分野での根本をおっしゃっているような気がしまして、そういうところで本質をどういうところで見極めるというのか、ポイントだったりとか、目の養い方を知りたいと思いました。

 

【七沢代表】

◇土に向かってお祓いをあげる

たぶんMさんの場合は一番、本質というのは、水と土ですよね。

五行の神というのか、土の神の本質をまず迎える、あるいは一つになるという行が白川にはあるんですね。白川の行は畳の上の水練のようなもので、畳の上にすべてがあるというような修行の仕方ですね。あまり外でできない。明治以降、外でも実験的にやっていますけれども、木は木と一つになるための外でやる行もあれば、水もそうですね。水を川で掬って(すくって)、水にお祓いをあげる行とかね。お祓いを五行にもあげる修行があってですね、土にあげるというのかね。

たぶん農地を創っていますけれども、その農地に向かって、お祓いをあげてみると、見えてくるというかですね。僕らも最初の頃は、色々な湖に行ってお祓いをあげたり、川へ行ったり、山へ行ったりして体験しました。やはり土が一番分かりやすいというかね。土に向かってお祓いをあげるということをやると、もちろん、修行の中でもそういう修行が起こるのですけれども、埴安姫神(はにやすひめのかみ)というのか、土の神になると同時に、一番肥料となる便の神というのか、鶏糞も牛糞も、江戸時代から昭和の敗戦になるまでは人糞が一番価値があったわけですけれども。そういう人糞もそうですけれども、そういう便が土に還って一番の栄養素になっています。今は最小単位にして、窒素、リン酸、カリというようなミネラルになっているわけですけれども。

そういうものの全体が土というかね。水と土が混じったものが泥ということですね。泥というのは、泥魂(ぬるみたま)で、それは五魂の精魂なのですけれども、土と水が合わさったもので、それが見えるというのか、統合された姿としたんですね。その泥魂を精魂(くわしみたま)ということになっているのですけれども。そういうその土と水というものが、すべての栄養素の吸収しやすいようにあるんですね。それを昔からそれが土の中に埋まっているものを化石水と言って、何百万年、何十万年、何万年前の土と水が混じった一番の栄養のものが化石水というんですね。そこから取るサプリメントもあるんですね。それが全ての生物の栄養になっていくというかですね。そして、それがこの身になるんですね。

そういうものの体感をするのが、白川の行でもあるんですね。何か神祇官で、雲の上のような天津神のことばかりやっているわけではないんですね。あくまでも五行というものの木火土金水をベースにした神を迎えて、その働きをみんなの役に立つようにする。また自分自身が五行と一体となることをするということですね。

◇土の中に入る

ですから、農業というのは、そういうものを最初に感じられる技というかね。もちろん、それは狩猟、採集、農耕というように食料の獲得仕方というのは、時代ごとに移っているわけですね。何万年の間ではですね。その中で特に農耕というところは、発達段階ですね。縄文期では狩猟があり、もちろん、採集、巨木があったんでしょうね、三内丸山遺跡でも、そこで栗とかを採集ということでね。そして、今度は栗の木を植えるような、そういうある面では栽培の始まりが起こるんですね。

そういう発想が稲のような植物になる流れがあって、今の農耕にあったような祭祀も行われるようになるわけですね。それが御田植祭とか収穫祭、明日は餅つき祭というかね。もち米というのは、ある面では、一番発達したお米ですよね。美味しくあるいは単なる乾燥したあるいは焼いたりして、それは兵糧にも使えるようになりましたが。

その一番発達した餅を農耕になっていった最終的な姿としての「もち」を神に祀るということをして、神の働きを知ろうということですね。その一番の元になるのが土で土と自分が一体となる、あるいは土を迎えるという技が鎮魂の中にあるわけですね。鎮魂と五行と一体となるということと、食料の問題、水の問題、みんなそこにまずは地球というものがあるわけですね。

それを土というものの中に自分が入っていくようなね。だから大概、どんな土でも舐めれば名人はみんな分かってしまうというかね。それをどうすれば良いかが分かるというかね。土の中に入る、そういう感覚が出てくると全然違う農業になるんですね。その辺りを目指すことは修行の中にもあるから、それをやるというかね。

◇分けてみて、迎えたり、食べたり、入ったりする

祝殿修行は、どなたにもみんな必要なんだけれども、そういう体感をするということですかね、五行あるいは神というものを手で掴む、あるいは神を食べる、人間も毛穴まで神なわけですから、毛穴まで綺麗にならないと清まらないわけです。ですから、神が清まらないと人も清まらない。人も清まらないと神も清まらないということを、ずっと白川では口伝されてきたということですね。

まさに一体のものなのだけれども、一体なのだけれども、分けてみて、迎えたり、食べたり、入ったりするというですね、そういうことが神道というかですね、神の道というかですね。神の道を行く時、役立ってくださる神がいるんですね。神の道、神道ですね、神道を守る、あるいは導く神までいるわけですね。非常に都合よくできています。剣がその象徴になっています。これは道主貴(みちぬしのむち)という宗像大社に祀られている神様です。ここに、ただ置いてあるだけで、そのまま表れているんですね。

◇神も同じく全てに現れている

全て現れているものを科学と言っているんです。それを神は見えないと言っているから、宗教となるんですね。そうではなくて、毛穴まで神ということなので、こうやって見ていれば神なんですね。その神が色々と現れているんですね。そういう怒鳴りたくなるくらい科学とか宗教とかずっと言わないといけない。でもそのことによって、いかにも神というものを否定するための道具に科学をしたということは許さないというかね。

話しが違う方向へ行ってしまいますけれども。見えるものも全ては神なんですね。Mさんも神、Sさんも神、Iさんも神、みんな神、それで私も神ということで神と神がコミュニケーションするということだということがプラットフォームなんだと。もちろん、それが人と人でもあるわけですけれども。

そのように階層性になっているということを理解しながらいくと自然もみんな神なんだと。自然も同じ神なので、環境も大切にするということに繋がるわけですね。だから、土と一体となる、水と一体となる、五行と一体となって、地球を大切にするという環境学であり、自分を大切にする健康学にもなるということが、来年のセミナーにもなりますけれどもね。とりあえず、白川のご修行というのは、そういうものですね。そういうご修行をしながら、その土にまた触れると、より分かりやすくなるということが本質を掴む一番良い方法ではないのかと思いました。

ありがとうございました。