0301話:2017年12月23日

冬至餅つき祭での代表挨拶(子供向けお祓い会)

◇公とはみんなでもって祈ること

今日一番感じましたことは、日本あるいは、広く言えば人類ということになるのですけれども、特に日本の祈りの体制というのかね、長いこと神道で祭祀としてやる、今日も祝詞がありましたけれども。

祝詞は顕ですね、声で出しますけれども。我々がその間に2,3回、祈りの他に聞こえない祈りがあります。それは各人あると思います。

それは国家としての祈り、祭主としての祈りというものの集合みたいなもので、幸倍(さきはい)というのか、幸せというものを構成していくのではないのかということを今日は感じられました。ですから共に公というものは、本来、みんなでもって祈るということがあるのではないのかなと。我々、たくさんの皆さんと祝詞と祈りを一緒にできるということは、やっぱりエネルギー場であるから、すごい力というかね。

きっと、ですから戦争というものがあって、日本も巻き込まれたりしたり、長い年月の中でありますけれども、そういう中でも繁栄してこれたというのかね。もちろん、それは代々、みんなでもって、その祈りの気持ちを育てたということがあると思います。そういう祈りというものが、やはり民族の繁栄のもと、あるいは家族の繁栄ができるという大事な、これは所作でもあるし、作法でもある。

言ってみれば、それを国の体制としてやってきたのが、白川の神祇官です。祈る対象と言ったらおかしいですけれども、自分自身の決意を他者とかね、他者の中で働きというものが神の働きで、神様に繋げていただく神様もいるわけですね。

先祖の神から国津神を迎え、そして、天津神を迎え、その上でお願いするというかね。そこに神々の働きがあるんですね。その働きの神に繋がっていると思うのですけれども。

もちろん、民族にも国にも様々な祈り方がありますね。イスラム教みたいに一日に4回もメッカに向かってお祈りしますよね。そういう民族や国によって違いますけれども。我々は戦後、そういう非常に少なくなったと言っても正月は寺社に初詣に行って、お参りするということを続けているわけですけれども。その祈りというものの体制を白川では国家としてやってきたということが、非常に大切なことで、それが国と国民の繁栄をもたらしたということになるのですけれども。要するに、繁栄ということの非常に大事なところは祈りかなと。

◇事ある事に宣言して祭る

国の祈りの内容を神からいただ くというのが宣命ですね。それを天皇からいただいたものを、さらに神社の神官が祝詞をする。その端的なものが祈りということになるのですけれども。それを我々がまた繰り返してやるということが、大祓という祈りになっている、祓いの詞です。

1つのまとまったというのかね、端的な言葉を宣言するというような、毎日、あるいは事あるごとに宣言して、それを祭りや祭祀で行うということが一番効果的と言ったら失礼ですけれども、一番それが生きるということの中で大切な方法だと今日はすごく感じました。

◇共に餅を楽しむひととき

師走で年の瀬が差し迫っている時に、本当に参拝していただいて、そのことだけでも非常に大変ありがたいことですし、価値のあることだと僕は思っています。しかも、共に餅をつくということができるということが本当にありがたいことであるというふうに感じています。美味しくお餅をいただいたというのが、共に食べるというかですね、これは我々も昼間はなるべく、できれば夜もということで、共にいただくというか、その時にできれば、充分に食べられなくて飢えや渇きで亡くなった人たちを慰めるということを毎食しながら生きるということ。そういう苦しみを味わった先祖の中にいるわけでありますけれども。そういう飢えや渇きをしないように、その一番の成果の食料がもち米という、ある面では最高峰の穀物だと思います。それが色々な形で今はお米をミクロン単位で粉砕して、パンもできるようになりましたけれども。

やはり餅という形で楽しんで使える形になったものは、非常に進化というのかね、穀類の中での進化ではないのかと思います。穀類の中では花のような存在というのかね。お米なんかでも、干したり、炒ったりしかできないものが、それがお菓子にもなるということで、そういうものとしての成果ですね。餅のお米ができて、それを共に飢えるということではなくて、餅を楽しむということ、そして、みんなでもってそのひと時を味わえるということが非常に成果ですね。

みんなが更に喜び合えるというかね。毎食食べるということも非常に有り難いのですけれども、祭りとして、餅にして、味わえるということは、非常にそういう進化した存在ではないのかなと感じています。今日は、それを餅をつくところから、食べることまで共にしていただくことになります。

◇山水蒙という教育の卦

昨日は冬至でありますが、今日は日が長くなる最初の日ということでやらせていただきました。昨日、来年のワープの新しい講師として、武道家の甲野君の奥様で、これは私が結婚式の祭祀をして、30年も前ですけれども、甲府から榊を1本持っていってですね。今、甲野君のご子息が武の術理を教えていますけれども。彼の家は、明治の最初の武道の集団、大日本武徳会を作った方の家ですけれども。

奥様が昨日、易経というか、それを研究していて、来年の2月に研究の成果をお話しいただくのですけれども。

たまたま昨日が冬至でしたけれども。冬至の日に来年を占うというかね。我々は正月の1日に占う易をやりますけれども。今度は早めに白川を卦を立てていただいたら、山水蒙(さんすいもう)という、教育という卦でした。もちろん、6通りあるのですけれども、その中で二卦が出ました。そのままだなと思いました。そして、協力者が出て、それが進むということで。

まさに白川学館大学の今年は出版部ができて、図書館も7万冊揃えて、学部をロイヤル・アカデミーではないですけれども、芸術や音楽や工学、情報など色々と候補が出ていますけれども。いよいよそういう意味では新しい教育事業に進出ということになりますけれども。

今日は子供お祓い会を兼ねていますから、子どもたちのために大学を早く作ってくれと、まだ5,6歳の子どもを持つ親御さんに言われました。能力開発出来る研究をどんどんしていこうとしています。

◇数の言語

我々は易なんかでも、時の卦というのはシステム化して、コンピューターで瞬時に出るように作ってあります。西洋占星術も、一生懸命作っていただいています。そういうこともありますけれども、その時の卦があるということですね。

今、運命というものとか、業とか、カルマとか、輪廻ということを超えていくということをどうしたらできるかということを今、課題であり、システムや教育方法を作っています。

命運方相の占いの最高峰が易でありますから、それがどういうふうになっているかということも昨日も色々と議論させていただいたのですけれども。たぶん解釈はいっぱいあるんですね、易の卦というのは。直感で1つの簡単な6本の棒のようなもので見ていたということは、そういう言語ですね、棒のような数の言語であると思うですね。それが易であり、人類にもたらされた占いの言葉というとおかしいですけれども、そういうものになるのではないのかと。

一番、その瞬間にしか、用をなさないということがあるんですね。社会の色々な出来事に合わせる、個人に合わせるということもありますが、基本的には瞬間瞬間に神の働きがある。時という神の働きがあるということくらいしか、要するに、中今という時間を超えて捉える捉え方があるとすると、瞬間の時に全ての神の働きが起こる。それが1つの6本の棒で陰陽の二を表したものであり、それが最初の占いでもあります。布斗麻邇というようにも言いますけれども。そういうことではないのかなということを昨日、はっきりと分からせていただきました。

易の一番の黒岩先生という方、景嘉(けいか)先生という方が中国を通じて、最高峰の易の先生でありますけれども、その黒岩先生のお弟子さんが甲野君の奥様ということになります。それをまた聞かしていただいて、どうも易というものも6の数の言葉、それがまた自然との兼ね合いで、8つの自然の姿をとって、働きを増やしていくんですね。6×8=48ですね。3があって、6があって、それがまた、6×8=48となって、さらに8×8=64と。それもまた占いの言葉というのか、その瞬間を言葉に表した時に、詳細な易になったのではないのかなと思います。

今度また、甲野君の奥様の勉強会を作ろうと思っています。息子さんの方が先にやっていますけれども、そんなこともやっていこうと思っています。易経というものも一番古い中国の学問として、それも学んでいこうということも考えていますので、またご参加いただければと思います。

この年末の差し迫った時に、たくさんの皆様にお越しいただいて、ありがとうございました。