0302話:2017年12月25日

おはようございます。今年も残り少なくなってきました。1つの一年の区切りということで、色々な行事もあります。

◇慢心の中身

やっぱり白川でいつも言っている慢心しないということがありますけれども、ある面では、慢心できるからやっていられるというかね。慢心できなければけちょんけちょんというのか、あらゆるところから殴られたり、蹴られたりとか、自然からとかね、寒いとか暑いとかね。ですから、慢心出来ない状態であれば、一番良いかもしれないと思うのですけれども。

さて、一年間の中では区切りとして考えると慢心してきたことが、除夜の鐘ではないですけれども、それも全て煩悩であった、ごめんなさいと。108つとか、色々とあるのですけれども。そのように数えるのが仏教はうまいのですけれども。慢心も煩悩だということが分かるというかね。毎日、煩悩が一つひとつ解決していって、108日かかるということになりますけれども。

慢心ということの中身ということですよね。自分が良いと思ってその瞬間瞬間でやっているわけですけれども、慢心と言われるとやりようがないということもあります。すぐに足りないことに気づくというのが人の性の部分でもあると思うのですけれども。ですから、ずっと慢心し続けていられるということができれば、それはそれで大したものだというかね。ちょっとおかしなことを言っていますね(笑)。

端的に言えば、神様にずっと守られるというのか、ある面では、神様と共にいられますということであれば、慢心しないわけはないですからね。そういう意味では、仏教だけではなくても、今は毎日あげていますが、大祓は一年に2回しかあげませんでした。そういう2回くらいで済んだのかもしれません。それで慢心を祓っていくということをやっていたのですけれども。

◇信仰でも科学でも慢心に落ちる

なんと言っても追い込まれて慢心するということで言えば、一番宗教というものを信仰すれば、荒唐無稽なことでも信仰することができるし、そして、それをずっと持ち続けるということも可能なんですね。それが宗教、信仰という体系があるわけですけれども。

それが神秘だということで問題が起こったというか、科学ということが魔法から科学ということになってくるわけですね。そういうものの科学の極地がシンギュラリティーというかね、2045年に人工知能が今年何回言ったか分かりませんけれども、いよいよその時が来るというかね。そして、科学ということをすることも慢心になるんですね。科学というものは人間が作ったものですから、そういう慢心に近づいているというかね。

一方では宗教がガックリ来ているというかね。我々は科学はやるけれども、宗教はやらないということでやっています。しかし世間では神秘的なところを表明して、あと何十年かを過ごそうということでしている場合もあります。我々は、このおみちは一番古い、宗教のもっと前のものは原始信仰と言われていたんですね。シャーマニズムやアニミズムや、要するに草や木やそういうものに精霊が宿るという意味合いですね。そんなNHKの番組「精霊の守り人」というドラマが世界で流行っていますね。S君が推奨していますけれども。

要するに、精霊というような神秘の世界が原始信仰の世界にあったということですね。それの1つの系譜を引く古神道、白川をどういうふうに捉えるかは、ある面では、こういうものもまたカルトと捉える人もいるわけですね。自然科学や社会科学を学んだ人から言われます。昨日も言われましたけれどもね。神道カルトではないのかということを。その言い分は理解出来ないでもないなということで、それでは本を書きませんかということで、和器出版で本を書いて出したいということだそうですが。

要するに、慢心ということを考えると、信仰でも科学でも慢心に落ちるということを言っているのですけれども。信仰というものは一種の慢心ですね。それでずっといけるから一生大丈夫なんですよ。ただ、途中で不信すると、もう地獄の果てというか、無限地獄に陥るのですけれども。だから信仰でも大丈夫ですよ、今からでも遅くないです(笑)。そのやり方は教えます。すごく上手い方法を教えます。僕は信仰体系の研究者ですから、いくらでも教えられます。

◇ど真ん中の道

ヒンディーは剃刀の刃の道と言っているんですね。二項対立に入らない道を剃刀の刃の道と言っているんですね。それはちょっと間違うと、どっちかに落ちてしまうんですね。それは非常に大変なんですけれども、ど真ん中の道というものがあります。おみちというのは、中道の道だと思うんですね、仏教的に言っても、ヒンディー的に言っても。その剃刀の刃のところを渡っていくような道であると。

それでも、いわゆる科学は今、優勢の時代ですが、ただ科学はまだど真ん中に来ていません。結局、宗教という神秘と科学が、この200年くらいはどちらかというと、二項対立の両極を提示して真ん中をいく道を探しているんですね。非常に難しい道であると思います。ですから、我々が信仰にしようとすると、ある面では外に神を立てるということで、それはまさに榊ですね、木ですね。木を神と見立てるわけですね。ですから、榊は木偏に神と書きますね。

木もだから、高濱清七郎先生は、「草も木も人もなおさら、真砂まで神の社と知る人ぞ神」というような意味深な歌を作っているのですけれども。要するに、我々が神という存在を外に存在しているのではないのかということで対応するというかですね。

◇中も外もあり

だけれども、そのことを一つひとつの外も神であるということの自覚は人なんですよということになっているから、一般的に見ると、外に向かってお祈りしたりしているのではないのかと。アラーの神様もカーバ神殿にいらっしゃるということになりますから、世界のどの方向から、どこにいても一日4回メッカの方向に方位計を持って祈るわけですね。その外にあるというような二元論ですね。

そういう世界と一方では、こういう中にあるというですね・・・。ですから、外から来る神がいれば、中から湧いてくる神もいてですね・・・。外も中もそういう二項対立ではない世界で掴むということの技というのがあるということなんですね。

ですから、白川では、それをご修行という方法をもってするんですね。こうやって目をつぶって、その働きを受けるという受け方、それも中から出てくるのか、外から出てくるのか、これはまだ分かりません。中も外もありというかね。ある時は中から、ある時は外からでも良いのですけれども。そういう神様が臨在するという自覚に至るということですね。そういう神秘であるという存在、尊いという遠くにある神ということではなくて、自分自身の中から、あるいは外から自分に感じさせてもらえるというね。

◇清まっていないといけない

その時に単純なんですね、白川というのは。その時には、清まっていないといけないのではないの、ということが神というものの一つの特徴としてあるんですね。

神も清まらなければ、人も清まらない。人も清まらなければ、神も清まらない。ということで、神の存在の根拠がどこにあるのかということですね。それでまずは自分自身の禊ということで、お風呂に入ったり、体を綺麗にするということが、世界で一番ですね。

僕も35年前にネパールに来てくれということを言われましたけれども、何回か行っている内に、要するに体を洗う場所がほとんどないんですね。豊かな家にしかシャワーはついていないんですね。一年に何回かしか、シャワーができなくて、それはちょっと厳しいかなということで行かなかったのですけれども(笑)行くといつも早く帰りたいと思っていました。

本当に洗うということが非常に大事な清めるということですね。それが今度は祓いによって、清めるということを我々は毎日しているんですね。それは自分自身の身を清めるということ、神が清まるということとイコールなんですね。そうなっているのが白川の教えなのですね。極端に言うと、そこに極まれりというかね。中には洗い過ぎて潔癖症になる人も多いのですけれども。汚い言葉も穢れだということがあります。そのくらい身を清め、言葉で清めるということが中心になって、初めて中の神も外の神も迎えるというかね。

そんなことが一年の中で煤払いなんかでは、仏様を一年に一回くらいで済みますけれども、我々は常に細胞が入れ替わっているから、あらゆる面で中からも外からも清めないといけないというかね。

◇混じり気のない清音

最初のところに戻ると、慢心ということから言うと、やっぱり身を清めるということを通じて、脳の中の1つのブレイン・ウォッシングではないけれども、これは洗脳という悪い意味ではなくて、毎回毎回考えるということの意識の元にある言語、言霊というのか、それを正確に五十音に戻していくというのか、綺麗に一つひとつを確認して洗うというのかね。それが言語の元を綺麗にするということでの「あいうえお」であったり、50音であるということの、それが伊勢の五十鈴川ということですね。

今度は急に27日、28日での話に飛びますれどもね。五十鈴川というのは、50音を綺麗に洗うというのか、あるいは一つひとつの音を確認するという意味ですね。混じり気のない清音にするということですね。そこまで戻るということが清めの極意かなと感じます。

もちろん、ただ50音が綺麗にマス目に入っていれば良いということだけではなくて、50音で作る意識、思考というものが間違いのないものであるように、そして、それが自己の優位性というのか、慢心というところに結ばないように一つひとつを元の蔵に50音を解体して還しておくというかね。それがお祓いというものの中の一二三であるし、祓詞だと思うんですね。そんなことが今日の感じたことであります。

きっといよいよ年も迫ってくると、自分自身を反省をするには良い時ではないのかなと思うんですね。その辺りが除夜の鐘ではないですけれども、大祓と一緒にそのところに毎日やっていることと同じように、31日の祓い、大祓をするのではなくて、原点に還るようなお清めを意識しながら祓いができると良いのではないのかなと感じました。よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。