0304話:2017年12月31日

大晦日大祓祭祀での代表挨拶

◇大晦日の大祓

一年間、白川学館、並びに関係の団体のご協力ありがとうございました。

多分、この時間というのは、申(さる)の刻というか、申(さる)ということは申す(もうす)ということでございますが、言葉による祓いが、一番叶うというか、強いというか、そのような時間ですね。普通は、Twilightというか、薄暮ですから、何か曖昧でハッキリしないというか、一年間で、なんで大祓が、この時間、一日の終わりの頃ということもありますが、大祓はなぜその時間にあげられるのかというと、強く願いが叶うということになっていると感じました。

もう一つは、大祓を毎日やっている方もいますが、なぜ大晦日の大祓のお祓いは、何で強いのか、その意味を考えると、やはり一年間の365日ではないのですが、やはり残っているものを最終的に清めるということ。終わり良ければ全て良しではないのですが、カソリックでもそうですが、亡くなる直前に終油というか、油を塗って罪を悔いれば、全て天国に行けるようになるんだという考え方もありますね。確かに一年の、365日の、一日一日の罪が積もったものを、その最終型で、一日で一年ということ。我々は毎日やっていますが、365日の全ての残った罪・咎・祟の、まだ表現されていない部分も祓うというか。

◇八十伴男の償い

もちろん、この伴男というか、八十(やそ)伴男というか、88人の人という時もあったようですが・・・。言ってみれば、朝廷に仕えているという意味の88人の清めということですから、当然、部族長とか、色々な場面があって、咎められるということが出てくることもあったのではと思います。そのような罪・咎・祟の全てを清めるということが、役職上で罪・咎・祟を起こしてしまって祓わなければいけないこともあったのではと思います。

そのような公的な事情で起こさざるおえなかった罪と言ったらおかしいのですが、民族の為にということで、それが戦になった場合もありましょうが、そのようなものも含めて償うというか、そのような為に、大祓というものがあったのだと思います。もちろん個人個人の場面での大祓ももちろんあるのですが、制度上というか、あるいは国というところの働きの中で祓うということも、一方ではあったということであるわけですね。

そのような中では、非常に重い罪や、心に残ることが沢山、八十伴男にもあったと思いますが、その辛い思いを偲ぶといったらおかしいですが、その思いも我々は今の時代の中での公ということを考えた時には、そのような思いで祓いをするというか。そのようなことが必要といったらなんですが、やるべき祓いなのではないかと感じた次第です。

◇大祓の極意

先程も言いましたが、一年の最後の日に祓いをする、そして一年間で積もったものも祓うということですね。ここで今日の祓いを共に出来たということは、強い祓いの日であり、その時間であり、それでみんなの個人的にも、そのような祓いが出来たということですね。公と私ということで捉えると、そのようなことが出来たのだと感じました。今日、せっかく見えられておるわけですが、師走の、まさに大晦日の日に、大祓の極意というか、そのところが、以前に一度そのようなものがあるということは言ったこともありますが・・・。

これは秘伝という中にあるのですが、よく大祓の中で、ニニギノミコトにお願いする段があって、一度、一礼しますが、昔の祈りというか、大祓が、また国というか、各部族長というか、八十伴男が神示を受ける時の、その内容が、大祓の構造の中にあるんですね。詳しいことは、ちょっと秘伝のところにもありますけれども、そのようなものもこれからは明らかにしていきます。

天津金木を本末打切て、のところで、絹を割いたりする作法をするところもありますが、本当のところは、各地に、天皇の名代として行っている部族長というか、県主(あがたぬし)のような場合とか、国を守るという長官達が、どうしても神示を得なければならない時に大祓をあげて、神示を立てることをしているので、ちょうど大祓の中間に「太祝詞事を以て宣る」と書かれているわけですね。この太祝詞事ということは、みんな様々な想像が出来るから、考えるわけですね。これは一二三ではないのかとか、あるいは五十音の「あいうえお」ではないのかとか、色々な宗派というか、神道でも、想像たくましく、色々な言葉をそこにあてていたのではないかと・・・。

元々は、宮中から出ていったものが、各大社とか、神社で受けて、天皇の宣命ですね、それが大祓として神主さん達があげるようになったわけですね。しかし、八十伴男がご神事を立てるというところは、なかなか伝わっていないわけですね。ですから、私もこれまでにも色々と聞かれまして、今まで適当なことを言ってきましたが・・・いよいよ国、圀手會もそうですが、これから我々が公のことをする時には、そのような神示というか、それを立てられるようにしておく。

ですからこれからそのような機会も出てくるのではないのかということで、神事を立てる内容が、大祓の中の「天津金木を本末打切りて千座の置座に置足はし天津清麻を本末苅断八津針に取り辟て天津祝詞の太祝詞事を以て宣る」というところに問いと答えがあるということを、皆様方にはお伝えしておきたいなと思っております。

◇神事を立てる

今、白川に伝わっている秘伝というか、ごくごく秘密になっている事というか、それを皆様方にお伝えするということをやっているわけですが、それが本当に良い事かどうかということは・・・もちろん確信を持って、この時代に伝えなければいけないところを皆様方にお伝えしておかないと、それを皆様方がどのように利用するかは別にして・・・。

しかしそれは、公ということから見たら、公の為に、アメノコヤネノミコトの祝詞にもありますが、「公の為に尽くさんとする明き心をうべなわし」というそのような、公の為にこの神事があるというか。

もちろんそれは個人個人の、本当に大事な時に、大事な神示が、必要な場合には、本当にお伺いしていいかということを、大祓の前に10回ぐらい祓いをあげて、お聞きするという作法もあるわけですね。その上でそれが必要とされたなら、神事を立てても良いかと思います。そのようなことは、一生の間で、そうそうないとは思いますが、そのような使い方もないわけではない。神事というものを立てるという意味では、必要な時には出て来るのではないのかと思いますが・・・。

基本的には、白川は神祇官、あるいは宮中の祭祀を司る役割でしたから、公というもののところを、神事として立てるというところではいいわけですね。そのような祓いで修行をしていくところから、大祓で修行するというところも実はあるわけですね。そのような大祓によるご修行もあるということですから、そうそうご修行も、簡単に、はいこれでご修行が出来ました、というわけにはいかないところもあります。そのようなものも非常に短期間で、システム的に学べるような努力はしていますが・・・。

ですから、これから皆様方にお願いしたいことは、そのようなことの協力ということですね。ですから、ご修行がより進むような、そのような機会を我々も作りますが、ご協力のご意志がおありの皆様方と、これからご修行をさらに進めていくというか。

◇日本の真伝を伝え抜く

白川の教えも、この150年間で、和学教授所というところで、明治以降、高濱清七郎先生や宮内忠政先生が伝えようとしてくださった場所も、あるいは道場もあったのですが、いよいよ本来のご修行というものを、さらに高めるというか、高度化していく意味では、これからは時間も、機会も必要なのではと思います。様々なところで間違って伝わっていたり、安易に、祝の行として、勝手に始めたりということがあったので、白川学館で残そうということになったわけですが・・・。

そのような真伝が伝わらなくて、偽伝というか、いい加減な偽物が伝わることは、非常に心外というか、日本の真伝というものに対する、神の伝えに対する冒涜であると思って、それで意を決して、それをしっかりと残そうということで、白川学館が建てられたわけであります。ですから、そのところは神様の前で胸を張って、この教えを死守するというか、真伝を伝え抜くという決意をさせていただいたわけです。

そのことを正当な継承者である高濱浩先生から受けてですね。白川をやらせていただいているということで、堂々とそれが出来るし、また、これからのですね、いよいよ消えるか、残すかというギリギリの所に時代も来ておりますので、本当にこれはですね、皆様とご修行するということが、やはり、大切なことあるしですね、それもまた、世界に残す、あるいは世界に知らしめるというかですね。

そのような意味で、この間の伊勢参宮に報告、天照大御神を含めてご報告に行った後、神事といいますかね、帰ってきまして、アメリカだけではなくて、世界に向けて、和学(わがく)というものの、世界的な展開ということでですね。

和学ということは、和学教授所と言った、白川のことを和学教授所というふうに明治になって言ったわけですね。和学ということの本来の伝えというものが、ちゃんとあるんですね。それは、明らかに、誠の伝えということですね。それを表す。今度は、和学についても、また皆様方にも、お伝えしないといけないことでありますけれども。真の伝え、日本の誠の伝え、嘘偽りのない伝えということであるわけですけれども・・・非常に、抽象的なところもありますけれども、それが白川の神を掴むということの修行の内容であるわけです。それを、和の学びと言っていた訳ですね。

◇和の学びを世界へ

その和学ということを、いよいよ、世界に残す、そして、その中心として、この白川学館が行うという意味の、その名前が、実は神事と言っていいという思いがあります。それを英語で言うとどう言うか、「和学国際センター」というもので、いよいよ、来年から世界に、このみちをこの名でお伝えすることになりました。そんなことでありましてですね、いよいよ、修行というものが、単なる教えということではなくて、修行という具体的な実証実験として、実践として出来るものとしてやろうということになります。

普通は、それを立教といいますかね、教えを立てると言いますか。そういうふうな形に一般的にはなってしまいますから、あくまでも宗教ではないし、その単なる政治的なものでもない。学びであると。和の学びなんだということを明確にして、世界に知らしめるというかですね。

いよいよ、そういう意味では、国際的な、それはグローバルという意味ではなくてですね、今まで、日本というものの学びが・・・ですから両方で、アニメとまでは言いませんけれども、秋葉原の系統というものはですね。

◇時代の際どい所

僕は、秋葉原の人達は、新しい意識進化する人たちの、最初の方々だろうと勝手なことを言っておりますが。引きこもりとは言いませんけれども、そういう人たちは、新しい進化を待っているし、進化しているんだと思っているんですけれども、それが必ずしも、アニメかどうかは知りませんけれども、そいういう歌もありましたけれども・・・。

どちらかと言うと、昨日なんかも、テレビを観ていると「インフルエンサー」という歌を、乃木坂なんとかというか46だったかがやっていましたね。それが、レコード大賞になっているんですけれども、ご存知ないですかね?恥ずかしいな(笑)。

この1年でどんな歌が流行ったのかを見てみたんですね。その中で、1年に1回しか観ませんけれどね、ちゃんとリサーチしておりまして。僕は「インフルエンド」というものを、登録商標したんですけれどね、インフルエンザが終わるようにと思って。「インフルエンサー」という歌があってですね。こんな歌があったのかと昨日気がついたんですね。特殊な存在感だということを、歌の中で言っているんですけれどもね。そういう振り付けや歌詞は、どうせ作詞家の秋元康さんが作っているんで、だいたい中身は分かっているんですけれども、それは、同じ人に援助を受けたから、よく知っているんです。もう30年位前に。その人が、有名にした人で、CSKの大川さんという人なんですけれどもね。よく知っているんですけれどもね、

時代のちょっと先を見るというか、そういうものを歌にしていくというか。もっと、何十年か前は、阿久悠という人が詞を作っていたんですけれどもね。ちょっと先を行くというかですね、そういう人が居るんですけれどもね。そういう詩や曲や、あるいは振り付けのようなものも、そういう一つの、秋葉原系とは言いませんけれども、乃木坂ですから、秋葉原とはちょっと違いますし(笑)。時代の際どい所というか、そういうものが観える所と言いますかね。

それをちょうど、神事と、下世話と言ったら、ちょっと失礼かもしれませんが、それを両面から、観ていくという事が大事なのではないかなと。もちろん、我々が、宗教的なことや、科学ということの、神秘であってはならないという所で一つは捉えるということと、あとは美というか、大相撲も美が無くなっちゃうわけでしょ、暴力になっているよね。これとこれですからね(笑)暴力みたいなものではなくてですね、美というかですね。

◇美しくないといけない

要するに、美しくないといけない。神秘であってはいけない、一方で、美しくなければいけない。そういう芸術の所と、科学と宗教の真ん中の所、どちらにも行かない、だけれども、宗教のいう基の教えにもなるし、科学にもなるという、そういう本当に一線ですかね、そういう所を行くもの、一番進んだ学問からみて、全く問題ないというか、そういう際どい所を行かないといけない。それは一筋、それが和学ということの意味なんですね。誠ということの意味になります。

それを、しっかりわきまえて、剃刀の刃の道を、それを容易くということなんですけれども、そういう覚悟でということですかね。それが諸刃の剣という言葉の意味でもあると思っておりますけれども、そういう非常にきわどい所はありますけれども、それを安々というかですね、安心してわたっていく。その為に、清めるということを、普段からやっていくということをしたいというふうに思っております。

◇新しい1年の迎えかた

1年間を振り返るということをする間もないですけれども、ちょうど今日に向けてですね、三が日も、1日2日3日というものがありますけれども、最後の29日、30日、31日という3日間も、ちょうど逆に、尻手にこう整理していく。そして、次の新しい1日2日3日というふうにですね。ちょうど、ゼロ・ポイント・フィールドではございませんけれども、そういう所に行く時にですね、様々な反省というのですかね、省みるということが、白川として、あるいは皆様一人ひとりとしてやっていただいてですね。

仏教を入れると煩悩といいますかね、108の煩悩ではないですけれども、それを綺麗に整理して、国常立の神様が出てきて、新しい年月日にするという、そういうゼロ・ポイントにするという時なのではないかと思います。そういう意味では、3日間が、たぶん、色んな意味で反省させられた日々になったというかですね。

ですから、しっかりとそれを反省と言うか、自分自身の問題点、あるいは集団としての、あるいは日本もそうですけれども反省をしてですね、それで、1年を締めくくることということが出来るとですね、非常により良い、新しい1年が迎えられるのではないのかなと。

そういう意味では、今日の大祓はですね、皆さんと、本当に31日にですね、共にあげられたということは、非常に大切な時間と、そういう反省というか、省みるということが出来てですね、非常に良かったんではないのかと。

そういう意味では、この3日間は、色んな意味の焦燥感とか、あるいは何か出来なかったんじゃないかという悔恨の情と言います。色んな思いが来ますけれども、それは甘んじて、それを受けて、そして、今日のお祓いになったということでございますので、共にこの日を迎えてですね、お祓いが出来たということは良かったというふうに思っております。

今年1年、本当にありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。