0308話:2018年01月05日

◇「2018年欲望の資本主義」

おはようございます。正月のTV番組を、まとめて色々なものを観ていますけれども、その中の1つが「2018年欲望の資本主義」というもので、1時間50分くらいの番組だったんですけれども、BSが開通していなくて、翻訳テロップの所がよく見えなかったんですけれども(笑)。

何というか消えていたんで、半分くらいしか良く分からなかったんですけども、要するに、資本主義というのは、お金を増やすことが主になっているという主張で、このことを経済制度的、あるいは政治的に問うということで、このままいくと資本主義が崩壊するというのがシュンペーターという経済学者の学説で、始めに、マルクスが、資本主義といったわけです。それが崩壊するといったのはシュンペーターという学者という話で、まあ崩壊するということを経済学的に色々と議論している番組でした。

最終的には、欲望の問題になったんですけれども、制度的あるいは学説的に色々な議論をしているんですね、資本主義というものがどうなるかということをね、今、我々が生活の中で一番使っている考え、経済の営みの方法みたいなものであるわけですけれども、そういうものが、結局は言わんとしていることは、労働が大きな価値として使われていたというのが、マルクスの指摘なんですね。

労働時間をある意味では提供して、それでもって交換価値としての貨幣を得るという形から、さらに、あるいは食料とか水を得るというわけになるんですけれども、それが高度に発達すると今の時代に見られる様に、労働がロボットに変わるという時代がきて、知の労働もコンピュータに変わるということまで出てきてですね。その部分が50%という所まで来ていると、ですから段々、労働の時間が少なくなって、貨幣の交換ができなくなった上に、余剰時間でやることを考えなくてはいけないと、それで新たな価値は何かというと、一方では芸術という所であると思いますけれども、経済ではそれだけではないのではないかということを言っているわけですね。

◇人類は新しい価値をどこに求めるのか

ここは階層論が無いからですね、中々議論が噛み合わない所がありましたけれども、経済学者が議論をするからなんですね。経済学的には、経済を中心でもって議論するからですね、結局は、欲望の問題に辿り着いたんですね、最終的に、欲望がお金を増やすということだけが、先鋭化してですね。それが、1%の人が、殆ど8割の人の収入と同じくらいになってしまうことが、起きているんですね。だから、資本主義の一番の問題点は、労働の所から欲望という所の問題になってですね、欲望が人間の証明みたいな所でもあるからですね、解決はしないのではないかという捉え方もあって・・・ということは経済に、欲望を取り入れた時、どう処理するかということが、大きなテーマになるんですね。

要するにそれは、殆ど欲望というものが無限というか限りなく、広がっていくということで起こると、結局、解決がつかないというかですね、そういうことを言っているにすぎないということなんですね。現代の問題に回答がないというのはですね、それはですね、我々がいつも言うのは、欲望は限らないとある意味実現しないと、無限欲望は無限地獄に陥る。そういうことになる訳ですね。ですから、欲望を限るということで、自分で折り合いを付けないといけない、欲望に折り合いをつけていくということは、トレーニングとしてやらないといけませんということは言っているんですけれども、一方でですね、新しい価値をどこに人類が求めているのかということが出てこないと解決しないですね、次の問題ですね。

◇支配に心地よさを見いだす限り・・・

芸術的な価値というものに、誰もが行けるんではないということでですね。ですから、その価値を、全ての人の価値として認めるというわけにはいかないということがあるわけですね、経済学者はどちらかと言うと欲望の問題で哲学的にも解決をしようとして、制度的な問題として考えるというようなことをしているわけですけれども、そういう芸術というような所や情緒ですね。情緒にどう対応するかということを、芸術だけでは無理だということを、考えているんですね。ですから、それでは足しにならないと、解決の方法にはならないということをいっているわけですけれども。

だったら、そのことをどうしたら、技術的なデジタルな所で、解決が得られるかというか獲得できるかということを、次の段階では考えなければいけないということなんですけれども、そういう情緒でもですね、欲望の情動と言いますか、芸術の情動と、それは一面で宗教がそういうボランティアみたいな情緒を使って人を助けるということで、そういう情緒を作ろうとしてやってきましたけれども、十分にうまく行かなかったとういう歴史がありました。

今はなんというか一種の人生ゲームのような所の感覚といいますかね、まあ、それが楽しいと言いますかね、今の社会と言いますか、コミケなんかもそういう所がありますけれども、ゲームの感覚というものが楽しいという立場というか、二項対立というか、二元でこれを倒したり上に立つということで、それが楽しいということになるということですね。

まあ、支配ということが、大きなテーマになっているんですね、自己自身が他者を支配するという所に、心地よい根拠というものを置いている限りですね、そういう所が出て来る、対立構造が出て来るというかですね、色々とテーマは出てくるんで、見えてきたんですけれどもね。

◇価値の階層

例えば、要するにベーシック・インカムなんかですね、みんなを平等にしておいて、それでもってという話しか、考えられないというか、一応、平等という建前にしてですね、ゲームをやるという所で始めるしか無いという所が、今の経済の制度的には出てしまうということになるんですね。

そういう制度としての平等というあるいは、自由というものも、両方ですね、満足できるようなものにするというのが、イソノミヤということになる訳ですけれども、その所で新しく価値というか、人間の価値を何処に置くのか、貨幣価値なのか労働の価値なのか、自由とか平等という一種の政治的な価値なのか、あるいは宗教のような道徳的価値なのかという所、だから、価値の階層をしっかりと明確にしないとですね、その問題は解決しないというかですね。

要するに、人は、何に一番価値を置いているかによって、どういうふうに社会をあるいは人間関係を、制度とするかということが分からないといけないことになるわけですね。その時にまあいわゆる少数派というかね、芸術的価値ということはですね、少数派というか、それでも貨幣価値に変える時に、レンブラントとかミケランジェロとか、若い時の作でも何十億、何百億となりますよね、あるいはピカソの絵が何十億という、これくらいの絵がそういう貨幣価値を持っているということに、それは商売上というかビジネス的な意味のものに転化して、そういう価値の争いをするというような所もあるから、それが本当に価値があるか分からないけれども。

少なくとも自由と言っている、平等と言っている、イソノミヤ社会というものはですね、どれだけ心からそれを求めていくことが、あるいは、それを実現していくことが価値があるかという所に、我々が想いを致さないと、あるいはそういう所に価値の根拠を思わないと、やはり、やることがチグハグと言いますかね、資本主義の欲望という意味の、欲望の価値化というものの、ある種のみんな階層がないから、倫理的な価値も道徳的価値も、色々と出てくると思いますけれども、要は、その中でですね、価値の所在をですね、みんなまだ分からないというかですね。

◇神の価値

例えば、神の価値というのは、どういう価値なのかというと、ここで神が出てくるんですけれども、神の価値というものが分からないと、たぶん、ずっとみんな欲望の途中経過なんですね、大欲ではない。

では、神とは一体どういう価値なのかというと、一神教の神様は、遠くにいるから中々現実の価値に落とし込まれてこないというか、創造神はこの世界を構成している一番で最大の価値、あるいは創造した元のあるいは持ち主の価値という意味ではあるんですけれども、遠くかけ離れている、ちょうど、昔、王様の顔も見たことないとか、天皇陛下なんか誰も見たことないから、取っ替えられたという説も出る訳ですね。そういう噂とかも、誰も見ていないから、替えても良いんじゃないのか、あるいは替えたんではないかという捉えからも出るんですけれども、神様も遠くにあったり、自分から離れているもんだから関係ないというふうになってしまう、一神教の場合は特にですね、支配者のいいように利用されてしまう。

◇神と人が共に、という境地

ところが、それが、古神道ではその神という存在が、多神で色々な働きがありますから、自分自身のDNAの由来、あるいは先祖という由来からの存在としての神、それから自然というものも神だと、それから社会の一つの制度というか働きも神だと、言葉も神だという、それが天津神、国津神あるいは自然神ですね、五行の神、五大の神というふうにですね、風も神ですね、その神の全様をこの身をもって掴むということを我々はやっているんですね。神ということの全様を掴むということが、すなわち自分以外のすべての他者というかですね、自分以外のすべてが自己以上の価値になるというかですね。

その上で自己とすべての外側の存在というのが、イコールになっていく、それは神と人が共にという境地まで来るというかですね、それが最大の価値に繋がってくるということをシステム的にあるいは、ある面では機械的にできる、掴もうというかですね、そういう所では労働という資本主義の一番最初の価値にした所をロボットがするということになってきてですね、思考までロボットがしてくれるという所まで来たんですけれども、それを神と見立てて、そして、その働きを役立てるかどうかという、その機械を、神の価値まで高められるかという所が、たぶん、これからの人類の大事な部分というかですね、そういう所になってくる。

それは人工知能;人工生命が人と同じ、その生命存在までいくには、まだまだ時間がかかりますから、そんなに簡単なものではないからですね、時間が2045年で終わりになるっていう妄想は、全くのデマであってですね。そんなものははるか時間がかかる話というか、人間と同じような存在を作るなんていうことは、とてもとても無理な話な訳でありますから、十分に大丈夫なんですね、それはあくまでも、外にある機械や装置というものが、どこまで大切に人が扱えるかという、その大切さを思う心が結局、人間の存在を危うくしないということになるというかですね。

◇経済原則が神の所までいく

まあ、そんな所が、資本主義の大事なところで変わる所で、その部分をどうするか。また、今度、時間というものが余ってきますからね、その時に、こういう芸術だけではなくて、道徳だけではなくて、そういう人が資本主義でもない、神という具体的な他者というか、どこまで自分に迎えるということが、一番心地よいか、面白いかというかですね、それが社会的に制度的な価値として観ると、それが公という価値の実現になるというかですね、神の価値が、公の価値につながっていくということになる。

だから、我々が、神の価値を感じて、それが心地よいということ、それが一番価値があるという所まで、社会が成熟していくということが、資本主義を超えていくということにつながっていくということですね。経済原則が神の所までいくと、そこで初めて、五行という環境にも辿り着くし、人間というものの価値も、神の価値と同じ所まで結びつく時が来るというかですね、そういうことになるんではないかと、そんなことをこの番組を見ていて感じたんです。まだ見ていない番組もあるんで観てみて、また感想があれば、皆さんにお伝えしたいと思います。

今年一年よろしくお願いいたします。