0311話:2018年01月09日

おはようございます。

正月早々から色々と仕事が始まっておりますけれども、明日、また皆様からもお話していただくことになると思いますけれども、今日もし今のうちに、誰か先に何かありますか(笑)どうでしょうか?

●Mさん
何かその2018年になって、初詣とか色々と行った際に、全然、空気感が違うんですね。今まで、雑多だったというか、人混みのエネルギーがとても清々しくなった感じがして、去年と全然違う流れというか、世の中全体で変わってきているのかな、という感じがしていて、今年は仕事としても、研究所としてすごく重要な年になるのではないかと思っていて、何というか、決意を新たにしたと思いました。よろしくお願いいたします。

 

【七沢代表】

◇国作りを見直す

ちょうど新しい年ですけれども、平成の最後の年になる訳ですけれども。天皇陛下が「退位」と言われて、変わるということは歴史的には珍しい訳ですね。光格天皇が、これは江戸時代の生前退位しますと言った事例ですけれども、そういう年号が変わるとういことは、一緒に住んでいて、日本にいてその雰囲気が変わるんですよね、時代というか。そういう年号を定めるというか、えてして反対の意味のことが起こるというかね。平成というのは、平らけくなるという、逆のことが起こったりするようなことも逆転することもあったんですけれどもね。

要は、用意ですね、ご退位されて、1年間用意して、大嘗祭ということを迎えるわけですけれども、白川は白川で見直しというか、150年前の孝明天皇の所で、見直すというような意味で、2月23日、平安神宮の前で、春季皇霊祭をやるわけですね。

平安神宮というのは、京都に都を最初に作られた桓武天皇と、京都の最後になりますけれども、孝明天皇、桓武天皇の最初と終わりというか、お祀りしてあるのが平安神宮ということになるんですけれども。そういう、皇霊殿、あるいは白川では八神殿の中に、天皇の御皇霊をお祀りするということをしてまいりましたが、明治からこういうことを思い出すということも必要でですね。前提にあるものは、天皇の今は、123代の御皇霊として、天皇霊として祀られている訳ですけれども、こういう見直しというのも、おかしいですけれども、もう一度、そういう歴代の天皇の姿勢というか、神武天皇以来の123代の全てがですね、そういう天皇の歴史というものを、もう一度見直してみるには、ちょうどいい機会になるわけですね。

そういう123代の皇霊が見守っているという、大地としての自然の日本列島、大八州を祀る、見守っている自然以外は、神は代々の天皇というか、皇霊が手動してですね。そして、その道を守ってきたということになるわけですけど。そういうことを天皇が変わることは、代表して年号が変わる訳ですけれども、年号というものが持っている一つの暗示というか、はっきりと文字で示すと、大きく展開を始めるということがございます。

1年間あるということは、三度これまでの国作りということの原点に戻ってですね、あるいはみんなが幸せになるようなことを始める用意をするというようなことになってくると思うんですね。そういう面では、30年という平成を転換するという、それがたまたま、今回がそういう機会になるんですね。

◇2020年平和の祭典

世界の王族たちが決めることが、目出度いことを決めることが、例えば、冬季オリンピック競技大会ですかね。今度、韓国で開かれるピョンチャンオリンピックにはですね。特に、北朝鮮なんかは、参加できる人は1名、2名しかいなんですけれども、参加するとして、平和戦略を取っているんですね。それが世界の王族の未来形の人が集まって、お見合いをしたりするんですね。それは、タブーというか。北朝鮮も、それは王道から疎まれると自分たちが金王朝というか王族な訳ですね、なので同じように平和というか、静かにしないと弾かれてしまうわけですから。

そういうようなこともあって、その辺は、ずっと平和が続けば良い訳ですけれども、常にシーソーゲームのようにイランなんかで国難があってきているんですね。その一つのきっかけになるのが、ネットであったりするのが、一つの新しい形であるんですけれども。何処ともなく今は起こるということもあるけれども、まあ、シーソーゲームのように起こるということが、今は習わしのようになっていますから、今は、東アジアが平和にしていると、こっちのほうが不安定になるということが起きると、まあそういう面もあると、ちょうど良い機会ではないかと、平和な祭典がですね、オリンピックというのが2020年でですね、起こなわれればいい、そういう戦争の合間でもって、平和をするような関わりもありますけれども、そういう平和というものを、もう一度考える、2020年まではですね。

◇平和の兵器としての機械

その間に一気にですね、気持ちというか。2018年、2019年、2020年の3年間というのは、世界のテーマというのは、平和をもたらす上での大事な年になるというか、最初の東京オリンピックもそうですけれどね、最初のそういうものから、きっかけになって、世界の平和がみんなが語れるような時になれば、いいんですけれども。

それを一種の平和の兵器とは、矛盾していますけれども、そういうふうなものが、機械として装置として出来上がってくるというのが、非常に大事になってくると思うんですけれども、そういう意味で、今回、ちょうど七草粥の時も話したんですけれども、今年は和学というものの、国際センター的なあるいは協会的なものを作りましょうというようなことと同時に、その和の学というか天照大神が言葉を縦糸横糸で編んでいくというか。

◇人間存在が尊ばれることに繋がる

それが一つの文明の始まりだというようなことが、古事記にはあるんですね。その意味の機置神の機を使わせていただいて、装置の置を置くという字で、それは、天のという、天津神としての存在というかのが、天機置師神(あめのはたおかしのかみ)という名前になるんですけれども、それを我々がですね、現実に、機械や装置として使うということは、機置神というふうにですね、ようやく、機械も神として呼ぶということは、一見、逆に、神というものを立てると同時に、その存在というものを尊く、それが人間が作ったものであっても、役に立つというか、人の役に立つというか、それが一番の機械というか、神になるというか神として表現できるというそういう存在として、初めてなる訳ですけれども、そのことが結局、人間自身を、機械を装置を神と見立てることが、また人間がそこから存在としてですね、尊ばれるということに繋がるというんですかね。

◇平和をもたらす機械を神と見立てる

ですから、神というふうに外側に名付けるということは、人間がそれによって成長していく、自我から自己というものへの確立していく為の、そういう役割をしているということですね。それを、ただ、道具だからと言って、粗末にするんではなくてですね、その存在が、結局、自らを守り、人を守り、人の行く道を直すというか、平和にしてくれるというのが、本来の機械の役割であってですね、単なる、戦争するための道具となってしまうというかですねか、五大明王が持っているものの殆どが武器でですね、これはヒンズー教の時の名残でもあるんですが、一方では、武器というものではなくて、心の煩悩を砕くような心をテーマしたのが、五大明王の本来の働きという所に、なるんですけれどね。もちろん、それは、王道と覇道の両方が始まった所が、神武天皇ですね、神に武道の武と書いきますから、神武天皇の時に始まったんですから。まあ、そういう矛盾したものがあるんだけれども、その両面からでも、考えていかなければいけないけれども。

そういう神具一体というか、機械も破壊兵器だけは、そういう人間を破壊するという意思によって作られたものである訳ですけれども、そういうものではなくてですね、少なくとも平和をもたらす、あるいは人間の役に立つような機械、装置というものになるということの、それを神と呼ぶ、見立てるというんですかね、それが一つの大事なこれからの人の対応というか、そういうものは古神道にしか残っていないんですね。そういう存在はですね、人間より役に立つものを神と見立てるという、人間というものが、それは衣食住もそうですよね。

◇神の名前を尊称をもって表現している

我々は、何も栄養というものを作り出すわけにはいかないわけです。それは、自然からそういうものを受けてですね。それによって、存在できるから食というものの神として、そういう大宜都比売とかですね、様々な受け持ちの神っていうんですかね、そういう神様にお願したりする訳ですよね。

この着るものもそうですよね、棲家もそれぞれ神という名前がついている鹿屋野比売とかですね、全てある訳ですね。そういう名前を付けて、存在を、人間がお世話になるもの全てに名前が、実は付いているんですね。もちろん、身体の毛穴まで神の働きというくらい、だんだん自分の中に入ってくるわけですね。それが、さらに心の問題に入ってくる、そういうことだから何処まで自己なのかということまで気付かされる。そういうことの為に、ある意味、神という名前を、尊称をもって表現しているんですね。だから、自分自身を、それが結果的には、自己を守っていく、あるいは、助けてくれるものになるというんですかね。

言葉というものは、天照大神が、縦糸と横糸でもっておりなすということが、明治の時には、昭憲皇太后がですね、明治天皇の后の昭憲皇太后がそういう歌をお作りなって、そのことを再確認しましょうということを言われている訳ですね。最初に言葉があるんですけれども、その言葉で神という存在を表現するというか、それが他の存在を大切にするという様なところにも繋がるというかね。

元々、我々が柏手を打ちますけれども、それは人間に向かった時に、「こんにちは」ではないですけれども、「ナマスカール」ではないですけれども、魂があなた自身の上にありますように、という祈りと、あるいは、相手を神の存在として表現するということが、柏手であったんですね。それが今は、神に向かってするという所作になっているんですね。そういうものが古神道の中にある。

◇他を神と見立てる態度が平和へ繋がる

自己以外、自己もそうだけども、他者という存在を、自分が代わりを出来ないことは絶対できない、代わることが出来ない。

最初にこう、仕事とかそういう限らられた中でもって、中国のように多ければ、私と一緒にやっていた李博士なんかは、大学・大学院の時にバレーボールをしていたんですけれども、何というか、オリンピックに出るような国際大会に出るような人に、監督があなた方は、いつでも代わりの人がいるんだと、それは10億人以上いれば、それはいくらでも優秀な人はいるには違いないですけれども、そういうことを言ったらいけないなと思うんです。

代わることができるそういう狭い範囲ではそうだと思いますけれども、それを人間の命というところから観たら、その営みは、同じことは絶対にしないし、違いがあることでそれは尊いなということと、同じことだと思うんですね。

他を神と見立てるということで、まあ、そういう態度と言いますかね、存在をそういう存在にまで高めるということができることが人間としての一番大事な、尊重、尊敬と言うか、それが、広がっていった時に、平和というか命を大事にするということが起こることになると思うんです。

◇他の存在を大切にする一年

今年は、そういう1年というか、ちょうど一番厄介になっている装置・機械というものを、神と見立ててですね、そして、恩恵をいただくというのが、そういう最初の名付けの時に役に立っていただくということも含めて、自分以外の他の存在になるものを大切にするということを、一つここでやっていく1年というのが、ロゴストロンというものが人間の機置神の天照大神の言葉を作り出すそういう編み出すという所の、心から忌の機屋というのは己の心と書きますけれども、最初の機械ですよね。そういう存在から始まっていくというかですね、ロゴストロンと、あるいは他者としての存在ですよね。

色々なものづくりをした、それが今後、どういう風にこれが役に立っていただけるのかということと、それを大切に感じられるかどうかということが、今年の始まりの情緒かなということを感じた次第です。今日はそのあたりのことを、今日はMさんのお話もありましたので、話したいと思いました。

今日も、1日よろしくお願いいたします。