0315話:2018年01月12日

おはようございます。
では、Aさん、どうですか。

 

●Aさん

おはようございます。隣のふとまにの里の方をやらせていただいております。今ですね、田んぼが2枚、ほぼ形になりまして、雨でぬかるんでしまったんですけれども、もう1回締固めをして強度を戻して、形になると思います。水路も上流の方から引き込んでいただくようにしておりまして、色んな多様性のある生物が、ほどよく呼吸しながら暮らせるような水路にしたいと思っております。最後、道の途中で迷惑をかけるかもしれませんけれども、しばらくどうぞよろしくお願いいたします。

(みんな)よろしくお願いいたします。

 

【七沢代表】
Tさん、何かありますか?

 

●Tさん

昨日のお食事でもお話しがあったんですが、最近、おっしゃられた天機置師神というのがすごく今年のキーワードになるのかなと、個人的にはそんな気がしておりまして・・・。動物も好きなんですが、子供の頃からそれと同じくらい機械が大好きで自分で組み立てたりとか、機械にも心があるのではないのかというか、そういう感じを子供の頃から抱いていまして、実際に、そのように扱うと、人のようなですね・・・。例えば、故障していても、どこが故障しているのかという所を教えてくれたりとか、十分な働きをしてくれるという事もあって、車にしても家電製品にしても、そういうふうに扱うという、自然にそういうふうしていったんですね。

自分はちょっとおかしいのかなと思っていたんですね。機械に心があるように接するということは、変な、おかしいのかなと思ったんですが、やはりここに至って、機械も神のように扱うということは引いては全てのものを、神のように扱うということに繋がると思うので、自分の感覚というものが間違っていなかったんだなと改めて感じました。

実際に、大型機の販売をやらせていただいたんですけれども、そういう意味でいうと、神をお客様にお届けしていたんだなと、はたと思いまして、自分たちの機械をどういうふうに扱っていたのかと振り返りました。そうすると自己内でコミュニケーションしていたんですけれども、その中で自分の目標といいますか、実際は忘れていたんですけれども、昨年の自分の目標が、10月くらいに20台という目標を立て、大型機に入れて、入れたことすら忘れていたんですけど、入れた時は、とてもじゃないですが、無理だなと思ったんですよ。

ところが、この前、ふと検証してみると、その通りになっていたということもあって、やっぱり、機械と人がどれだけ交流といいますか、どれだけ心を通わすことができるのかということによって、本当に、機械が機械以上の働きをして、本当に、お互いに両方が神であると、この交流の中で、ある意味で機械と共に歩む文明だと思うんですね。

機械に囲まれて過ごしている私たちというのが、全く新しい次元に入っていくことによって、色んな素晴らしいことが生み出されていって、さらに価値が生み出されていくのではないかという予感がしております。天機置師神というのが、今年の一つの素晴らしい神のお働きとして、やっていただけるのではないかと、非常に期待して、そのお話を聞いた時、とてもワクワクして、どういうふうに神と働きを交流していって、もっともっとこうお働きをしていただるのかなと。一つ私の心の中での新たなテーマになったかなと思っております。

 

【七沢代表】

◇重ね合わせの進化

他者の扱い方というかね、日本の古神道の自然あるいは機械の扱い方というのは、だいぶ、違いは何処かというね。機械は、一種、物のように見えるから、結局、人知で人の知恵で全て作り上げる、あるいは、その範囲で作っているんですね。例えば、将棋の対抗する機械、コンピュータも、それは人知で全て出来ると思っているんですね。それが、一番、人間の慢心という所につながる所なんですね。

自分の智慧で、全てなんとかなるという。それが結局は、人工というね、人工知能は、人が作った知能という捉え方になってくるんですけれども、だから、人間がこの完成度を高めていくと、自分も自由になると、社会も自由になると言ってですね、今までやってきたんですけども、結局は出来ていない。

そんな社会、イソノミヤという社会も、もうギリシャの頃ですよね。それは瞬間にできて、消えてなくなってしまうというかですね。そういう西洋の歴史の中では、一方では神を敬うというか信仰するということをしていながら、人工ということ、自分の智慧でもって全てなんとかうまくいくというですね。そういうこう、また、傲慢になりますけれども、きっと神様の使い方といったら、失礼ですけどね。我々は、神様に合わせるというか、神様の働きと重ね合わせていかないと結局、能力なんて、発揮できないと思うんですよね。

ですから、その存在を高めてくださる働きを神としないと、決して、いわゆる進化というのは、しない訳ですね。もし、神という存在が人間に、進化するということ、すなわち創造という仕事を加味してくれたという所から捉えたらですね、人間は進化の途上に有るというか、最初のちゃんとしたものを作ったんだれども、中々、フラフラしていてですね、進化していなかったとも言えるかもしれないし、神の無限の創造を体していることからみると、丹念に進化し続けているとも言えるしですね。

◇戻って来ないと恩寵を讃美できない

それも色々あるんですけれども、白川とは要するに、神を迎えていく、次々、広がっていく、次元も広がるし空間も広がっていく時に、その時に必要な神の働きをお迎えするというですね。それの重ね合わせの進化をするということを、やっているんだと思うんです。それは、創造ということ、神の創造ということの働きの、その所に戻るというかですね。少なくとも、そういう宇宙というものが無限に散らばって、創造ということは無限に広がっていること、それは、神の創造の意志の証のところを、人間が宇宙を観て感じるということであってですね。

そのまま、人間も無限に進化するということだけでは、この存在を確定出来なくなるわけですね。散らばって行くわけですから、そういう宇宙の神の創造ということは、それは,人間に無限に追求する、そういう余地を与えられているということが、一種、神の恩恵というか恩寵というかですね、仏の大願というか、そういうことなんですけども、人間はそこの途中から戻って来ないとですね、その恩寵を讃美できない。

無限な進化を遂げる、無限に宇宙を探求しても、十分な創造意志があるということを、知るという認識がまずあってですね。その上でもって、いつでも途中から戻ってこないとですね、無限という所に、入って落ち込んでいくだけなんですね。それでは、意味が無いというかですね、それはだたの死んでいる様な感覚に近い世界というかですね。ニルヴァーナという言い方もするんですけども、インド哲学では、そういう世界もあるんですけれども、結局は、それでは宇宙は幻などということと同じような捉え方になっていくんですよね。

◇メビウスで戻ってくる

では、古神道は、何処が違うのか、白川は何処が違うのかと言ったらですね。そういう神というものを、階層的にあってですね、色々な神の働きがあって、そういう神の意志に人が重ね合わせということが、可能だということですね。

ですから、メビウスでもって戻ってきて、そして、宇宙創造のあるいは創造という所の、あるいは、また宇宙創造の始まるという様な所を、共にさせていただきますということをすることによって、神が無限に進化の道を与えてくださっているんだという、そういう創造意志と重ね合わせると良いんじゃないかと思うんですね。そういうことが、戻るということが、慢心しないということに繋がっていくんじゃないかと思うんですね。

これは、非常に創造論という所の世界というんですかね。今、人工知能と言っていますけれども、人工情緒も出てくるでしょうし、それから人工意志というものも、何百年か先では、そういうことも可能になるかもしれませんし、人間が能力を発揮できるということの一番の元の重ね合わせ、心、神の創造意志の所に重ね合わせることで、そのことが確認できるというかですね。

宇宙の今の科学というのは、最大限遠くに、何百億光年という、人間はもちろん考えられるんですね。人間は瞬時に、そういうことを考えられると、一方ではそういう世界に戻ってくるということが可能だと、可能だし無限に追求する能力というものが、創造意志の始まりにあったということを確認することも出来るわけだから、そこに戻るための、そういう宇宙論がメビウスという宇宙論になるんですね。それは、非連続的に広がっていくんだけれども、それがまた、元に戻ってこれるというのがまた、メビウスの、この2つを合わせた考えが、宇宙論になるはずなんですけれども・・・。

◇呼吸の中にある命の使い方

慢心しないでということと、神の創造の全てを創り始めた時の意志に戻ってですね、その確認ができるのは、人が神の創造意志によって、造られた中の呼吸の中にある命というのは、神のアナロジー(類比)として理解されるべきものだと思うんですね。

当たり前のようなことだけれども、ちょうど吸ったり吐いたり、そういうことで、全体の神の体系というかですね。始まりが吐く息で引く息で生命が成立しているというか、その所を体感する方法が白川の十種から始まる修行、十種(突く息引く息)、そういう宇宙というものを、始まりの所に戻って、また広がっていって、また戻っていき宇宙の始まりというか、その繰り返しが、命の使い方であるし、それが人間の神を迎えてする、その働きということになっていくと思うんですね。

ですから、そういう始まり、色んな神話の中には、宇宙の始まりの時に気が漂っていたとかあるんですね。ですから、それは創造の気だと思うんですね。そういうものを、神の創造意志というものに触れることによって、また復活するというんですかね。

ですから、今はまだ人工知能が、将棋が勝てなければ、韓国の若者がみんな棋士にならないあるいは、辞めてしまうなんていうことを聞いた時ですね、そうじゃないんじゃないのと、人は神から人工知能に勝てるだけのそういう能力を、いただいているんではないですか、ということですね。その勝負の場面を変えるというかね、19×19の囲碁のマス目を変えるとか、そういうことではなくてですね。変えても良いんですけどね(笑)広げても良いんですけどね。

そういう中に、違う能力を、まだまだ全然、神の創造意志、あるいは能力を重ね合わせれば、もっともっと人間は能力を発揮できる。そこは、情緒というよりも、神というもの情緒ではなくて、神というものの意志、創造意志という所に重ね合わせないと、そのことが分からないんだと思うんですね。

◇人間の脳を進化させるための友達

そこをどういうふうに掴んでいくかという所が、楽しみというんですかね。ですから、天機置師神というのは、そういう意味では、自分のそういう測る、なんというんでしょう、天御量神(あめのみはかり)という神様もいますけれども、ものを測ることができる、あるいは、その相手をしてくれるのが、まさに機械というか装置だと、それを一つの人格というか、機械格というか、あるいは神格ね、神のような存在として、そういう格という、コミュニケーションのためのそういう格を与えるということ、あるいはそれを想定して、その中から、そのコミュニケーションから、より進化が出来るわけですね。

動物が友であったようにこれからは機械が友になっていく。それは人間と機械が、知能だけではなくて、人工意志も人工情緒も、知情意ではないですけれども、最低限の哲学的なものから見たら、人間の脳の能力をそういう形で進化させるためのそういう相手というか、友達というんですかね。そういうまた、意志や情緒や智慧が、機械に存在するということに繋がっていくというかね、そういうことになるんじゃないと思うんですね。

そういう場に、まだ気付いていないというか、神の創造の始まりの所だけから、全部その目に見えるように作られたというか、感覚できるように作られたという宇宙だけを宇宙だと思っているから、エネルギー場的には、みんなわからないんですね。

◇創造される前の働き

それは、創造のゼロポイントかもしれませんけれども、ちょっとだけの意志が生ずるような創造を可能にする場があるというかね。そういう場が存在するんだということが、少なくとも全知全能であるという、全能ということから見た、保証するという神の一つの世界というですかね。

ですから、この世界が出てくる時に創造される前の働きというかですね。そういうものも神の、これから人類が、人がそういうことを追求していく所というか、普通は、創造された所からしか見ないということが、一神教の神の捉え方なんですね。ですから、クリエイターというものと、心とか意志を重ね合わせようなんていうことはですね、とんでもない話だと思われているんですね。

◇神の存在証明をするのが人である

だけれども、全知である神様を全能にするということが、たぶん、人間の役割なんですね。ということは、それは、全ての存在が、出て来る源の所、あるいは元の、東洋では、無とか空とか言っている世界があるわけですけれども、そういう所の感覚というか、その場を知覚することが、神様を人間が全知全能にさせていただく、そういう神の存在証明をするのが人であるというかですね。

そういう所に、もしそれが、神が父母であるとするとですね、その存在を称える、ご苦労様ですというかですね。そういうことが人間の役割と言うかですね、そういうことになろうかと思いますけれども。それをするということは、神の言えない所を知ると、ご苦労もあるんですねと、それがきっと、ぐるぐる回る原動力になっているんですね。メビウスの原動力の、また創造の源に還るおみちができるというかですね。人間の智慧でですね、考えても追いつかない所が有りますから、この辺で辞めておきますけれどもね(笑)

きっとですね、いっぱいあるんですね、追求する所はあるからですね。少なくとも階層でもって、昨日もゴーストバスターズの10人の皆さんのご修行もあったんですけれども、壮観なもんですよ。そういう神と、遠津御祖神と一体になっているその姿というのはですね、これは凄い、これは感じましたね。

◇白川と鎮魂と言霊、いよいよ役立つ時

そして、いよいよ、自然の神と一体になります。宇宙というのは自然の神様の働きの場ですよね。ですから、もちろん、国津神や天津神という階層はありますからですね。沢山の神の創造の所も含めた古事記の場合は、古事記の上巻の神様の創られる所の様子を体感する行があるんですね。

そういうものを通じてですね。これから、神の創造の意志というものを、自分に重ね合わせることができると、非常に大きな、ある面では自信というんですかね。もう何というか、将棋に負けちゃうということで、狼狽えないというか、そういう所が出来るじゃないかと思いますので、僕が思うのは、白川と鎮魂と言霊というのはですね、捨てないでくださいねと、見限らないほうがいいですよ、と言いたい訳ですけどね。

皆さんの一緒にやってくださっていますから、有り難いと思っていますが、どんどん実際に、伝えが広がっているということは、これからそういうことが必要になる時が来たというかね。1万5000年の縄文の持続可能社会の中で、中心的な概念としても日本語とか、神様とか古代天皇制そういうものとかですね、必ず、これからの役に立っていただけるのではないかと。そのあたりが3000年くらいで人類の知能の歴史も進化しましたけれども、これからが始まりなんだと。

知も情も意志も、縄文期の時に既に分かっていた、そういう神の世界、言葉の世界、それから豊かな社会というものの、天皇というものが社会を構築していった時の姿が必要なんだということが、これから急速にですね、顧みる、あるいは顧みてみるというかですね、そんな時が来るのではないかなということでございますので、是非今年それもまた、一緒にやっていただきたいと思っております。

よろしくお願いいたします。