0316話:2018年01月15日

おはようございます。
平成三十年の後七日御修行法ということで、今年は、これで見納めですけれども、また、来年になりますけれども、何か感じたことありますか。

 

●Mさん
密教の色んな行とか印とか、色々とあるとは思いますが、白川とは別のものかもしれませんが、それを取り入れる何か密教で参考になるものはありますでしょうか。白川と密教は別のものですが、そういった色々な修行法などを、我々が取り入れた方がいいものなど、そういったものはありますか。

 

【七沢代表】

◇密教と言っても、よっぽど顕教

白川と、この真言密教というのは、秘密の教えなんだけれども、実は、全部、一番明らかに現れているというか、白川のほうがよっぽど秘密の密教というか、何にも分からないものね(笑)。真言の方が、よほど顕教というか。白川は、ただ、お祓いをあげて、その前には、榊があるだけですからね。真言の宇宙の、あるいは五大明王の五行といいますか、あるいは五大といいますか、こんなにもはっきりくっきりと綺麗に出現しているというのはですね、逆に言えば、顕教といって良い訳ですね。

もちろん、印は隠しますけどね。懐の中で、印はこう組んで、身を修めるというか仏の働きを呼び出すマントラをあげるというか、そういうことは術者にしか判りませんで、隠れてますけれども。白川から見たら、全て明らかに顕教だと思うんですよね、密教と言ってもね。だから、逆にこう、こういう五大明王のお姿というかですね、これも一つの神道でいうと神々の働きを、仏の働き姿として全て現している、見参されている訳ですけれども、元々は仏様も、神様なんですね。仏様も神というか、あるいはそういうふうに日本では、取り入れたというか、日本の神様というものの、隣の神様というような形で、仏様を取り入れた訳ですね。ですから、働きとしては、それぞれが神様の働きだと思うんですけれども、その御修行方法というものが、だから、どういうふうにしたら、このマンダラの中心の大日如来の世界に行けるのかというかですね。

◇五大明王の姿から強さを学ぶ

今回、また石原さんが、後期密教ということでですね、そういう心の世界を密教がどういうふうにメンタルプロセッサですね。情緒マンダラとして使っていたのかというようなところを講義する訳ですけれども。白川から見た、何故、密教を学ぶのかというと、力強さということですね、心の。自然もまあ大雪になったりしますけども、ある面では猛威ですよね。猛威を奮っているというか、人類が氷河期になった時、幻の白い狼ではないですけれども、その獲物をいただいて、生きる糧にしていた、何てこともありますけれども。

要するに、そういう狼のような強さというかね、くじけない心の強さみたいなものを、この五大明王の姿から、自然の強さ、あるいは、それから、人間が生に向かうために感じる心の強さですかね。それを、このお姿を通して、学ぶというこをもある訳ですね。

もちろん、そういう裂帛の気迫に至る作法も、真言には沢山あるということですよね。ですから、そういうものを並べるんですけれども、情緒も見えるようにするというのも、一つの演劇にすると判りやすいですね。一つの顔の表情や身の振る舞いで、意志をはっきりと表すということをするわけですけれど。

ネット社会の中では、言葉の中でやったりですね、中々、狭くなると思うんですね。その表現する範囲がですね、だからといって、沢山の人に見えるような、だから、昔は芝居小屋なんかは、背丈の大きい人ではなくて、顔の大きい人が、顔の大きさで役者さんというのは選んでいた。あとは、歌舞伎でも化粧法の隈取りで強調させるでしょ、顔をね。だから、大きく見せたりオーバーアクションをするわけですけれども、そういう距離的なものもあるけれど、日本人の生活の中では、少ない労力で分かり合うということであるから、そんなにオーバーアクションでなくても、人の気持ちが分かるというか、そういう良さが有りますけれどもね。

◇痛い時は痛いとはっきりと表明する

こういう国際的な時代になりますと、言葉でもそうですけれども、中々はっきりと事柄と気持ちを充分に表現するというのは、得意でない所は有りますけれども。そういう点では密教も五大明王も、何というか、真理や弱いものあるいは良いものを守るという、その時の形相というのは、何というか、こういうまさに、悪魔と言ってもいいように怖い、ある面でですね、そういう形相をするわけですけれど。ですから、そういう明らかな表現するというのは、どうしても難しいというか、不得手な所があると思うんですよね。

そういう点では、各時代の中で耐え忍んであまり表現をしなかったというのも、別に鏡で、こんな怖い顔をしなさいということを言うわけではりませんけれども(笑)少なくとも、はっきりと情緒を表すという時もあるかなと。

要するに、いじめなんかもそういうことですね。必要なときに、自分のことを表現できないから、結局、いじめを認めることになるんですね。逆に、表情や嫌という言葉を出させないように、悪い奴らは、持っていくわけでしょ。「ほら、見てご覧、彼は別に怒っていないよ」ということを匂わせておいて、いじめるということになる訳でしょ。だから、明確に、痛い時は痛いということを、はっきりと表明するような、そういうことがですね、あって当たり前だということを普通にする。

◇自分の区切りをはっきりと自覚する

だから、その例えば、人生における節目節目でですね。表現するというのは別に、60歳になったら、還暦で赤いちゃんちゃんこなんてことで、御祝いするということも有りますけれどもね。私も、70歳の時に、みんなで古希の御祝いをしてもらいましたけれども。やっぱり、人生というのを、インドの修行過程でこういうものが出てきたんですけれども、人生のエポックというですか、自分の区切りをはっきりと自覚していないと、いけないのかなと。ですから、五というの、そういう数でもあるということですね。

インドなんかでは、まず生まれて育てられて、学びを受けるわけですね、学生期というんですかね、それがあって。次に、仕事をするというか、カルマ・ヨーガ(仕事期)というんですけれども、それがあって。今度は、ボランティア(愛行期)があります。仕事で蓄えた、あるいは得たもので、今度は、人を助ける時がありますよ。それが終わったら、秘行というか、秘密の行の期間というかね、それが密教行に、当たる所があるわけですけれども、今度は、仏になるといいますかね、その為の修行があって。最後は、森住期と言いますがね、森に住む、まあ隠居する時期ですね。

そういうふうにこう、生まれ助けてもらって、学んで仕事をして、秘行をして、森に隠居するっというですかね。これもまあ、修行といったら、修行ですけれども、そういう4つの修行形態というですかね。

面倒見てもらうことが、修行になるかどうか知りませんけれども、区切ってあって、白川でいう鎮魂とかは、秘行に当たるんですね。でも、秘行というか、密教の秘密の行も、同じことになるんですね。区切りと言うか自分で、そこを明確に、人生の中で、それが今の世の中で役立つかは別にしても、少なくともそういう、今、その行の過程の中で自分が何処にいるのかということをですね、あるいは、したいのかということをですね。はっきり、自分の中で、人生の中で定義というかですね、人生設計しておくということが、大事かなと。

◇やりたいことを自分の中で明確に

そういうことを、このちょうど言われましたから、そういうことが皆さんも、そういう大切なことというかですね。本当に、やりたいということを、自分の中で明確に、一つの予定というですかね。人生の予定表と言うかですね。もちろん、予定は未定で、未定は決定ということでもあるんでしょうけれども、そういう行動計画を、持っているということが大事ですね。もちろん、やりたいことが、すぐに可能になるかどうかは分かりませんけれども、特にこの事をやりたいことを、探していくというかですね。それが一つの共同体というものの中で、実現するということで、今年は教育というようなことで、一種の学生期ですね、学ぶということのために提供するという意味でですね。

白川学館大学という、大学は、もう建てているようなもんですよね。だから、皆さんも、学ぶ機会があるというか、研究する機会もある訳ですね。そういうものをしたいということで、それが大切な、人生は勉強したいという人もいますけれどもね。

中々、今の時代なんかは、お医者さんで、生涯研修なんて言って、生涯医学を勉強しないといけなければ、追いつかないほど、沢山の情報があるし、大変なことにもなっているわけですけれども、そういう中でも、こういう事をしたいということを、ある意味では、自分の計画表に入れておくというか、自分の計画表の中に入れておかないといけないということもあると思うんですね。

◇社会という一つの共同体の中で・・・

ですから、それは、何歳になったからということの、そういう通過儀礼的なことだけではなくて、自分が本当にしたいことをするということを目標にして、いかないとですね。また、そのことをみんなで手助けするという、そういう共同体にならないと、今、そういうものを目指さないと。

我々は、ただ、その時に一緒に仕事をしているというだけでは、仕事の行、カルマ・ヨーガということだけになってしまう。日本人には多いですね・・・。そうやって、辞める時に例えば、「○○ビール万歳!」って、私の叔父さんなんて、そういうふうにですね。辞める時に言って、死ぬ時にも麦酒、麦の酒って、戒名までなった人がいて、そういう仕事の行でもって、一生を終えちゃう。まあ、それも行になる訳ですね。それが、ちょっと寂しいかなということもあってですね。

もちろん、ここでは、この中で仕事もしていますが、この中で秘行もしたいです、あるいは、終の棲家で早く暮らしたいという人もいるかもしれませんね。そういうまた、社会共同体を作るということを、やろうとしているわけですから、フトマニの里というのも、そういう終の棲家(ついのすみか)構想の中の一環でもある訳ですね。

そういうことの今から始めてもいいわけですけれども、全体の中で判断するということも必要ですね、個人としてこういう行をしたいということと、それから、みんなの中でこういうことをやるというか、やって良いかというか、折り合いをつけるということをしないといけません。

少なくとも、そういうことを前提にして、若い方からお年の方までいますから、そういうことの中で、それが社会という一つの共同体の中で教えるという、それは素晴らしいことだと思うんですね。その時気付きが、色々あるしですね。そこが、教育というものが、ただ若い人だけが、仕事をしているということで、その仕事の中身を教育するというような、社内教育というようなこともありますけれども、そういうことではなくて。人生というものを、色々な形でやっていくということの中で、自分を位置づけるというかですね。それは必要なことだと思うんですね。

ですから、それが、白川と密教の顕密、どちらが顕で密かという、非常に曖昧にしてしまったというか、その点でごめんなさいですけれども。

◇積極的に生きるという活かし方

要するに、はっきりと自分で表明、自分で持っているということが、大切な生きるということに対して、積極的というか、あるいはそれを生きるということが活きる、そういう活かし方というものがあるんだということを考えながら、これからの人生を歩むための一つの設計図にしていただくというかですね。そういうのがあると、非常に落ち着いてくるし、そんなに不安にならないというかね。

それが出来る出来ないという所で、また輪廻という問題も出てきますけれども、その問題も解決できるような形で、自分の人生というものを一度、定義をし直してみるというかね。そういうことは、若かろうが年を取っていようが関係なくやるということで、そのあたりもまた、今年の目標にして、一つの設計をコンピュータのように、あるいは使ってやるようなことと同じだと思うんですけれども、それをやったらいかがでしょうかと言えるかなと感じました。

今週もよろしくお願いいたします。