0323話:2018年01月24日

◇「神様って何なのかな」

おはようございます。

我々は、朝から神様の名前を呼んで、お祓いをするわけですけれども、「神様って何なのかな」というのが、ずっとテーマなんですね。なにせ見える神と見えない神というかですね・・・。向かい合っていれば、〇〇家遠津御祖神と、例えば、七沢家遠津御祖神を、こうやってですね、言ってみれば、生きたままというか、あるいは話しているわけですね。あるいは心、精神を指導している存在を、神と呼んでいるわけですから、当然、我々はそれを姿や言葉で認識できるわけですよね。自然も、五行というか五大であったりですね、風も空もあると、そういう存在を、空は青いから、あるいは曇っているから、ということもありますけれども・・・。空でもあると、水も見えても見えないようなものなのかもしれませんし、そういう存在も神として、あるいは機械装置まで神様だということが分かるわけですけれども。名付けて使わせていただくというようなことにもなるんですけれども。

◇現代人は実態がないと信じられない

古事記の最初、上巻にある天津神という神様って一体何なのか・・・。見えるか見えないか、一旦、見えたけど、また元に戻って消えちゃいましたというのが、最初の別天津神、5神ですよね。そういうふうに神をずっと遡っていくと、見えない存在というか、今の科学で見えるものというのは、電子顕微鏡というもので、一番小さなものを観る機械があるわけですけれども。ただ、これも虚像ですからね、本当に観ているわけではないんですよね。それらしきものを見ているということになるんですけれども。とりあえずは見えたとして、バーチャル・リアリティとして、バーチャルとしてあるということにして、理解しているわけですけれども。まだ、見えないものがあるんですね。

そういうお祭りというものもあるんですけれども。顕祭という顕れる、斉藤さんがやっているように、神主が見えてやっている姿と、見えないでやる、そういう祭りを幽祭といいます。幽祭と顕祭というものがあってですね。見えない神を祀るというかですね。見える様に祀る時もあれば、秘密として祀るというですね、あるいは、迎えるという技もあるわけですけれどもね。

そういう、要するに、現代人では、実態がないと、なかなか信じないというか。聖書にもありますけれどもね、イエスが、亡くなって再臨してきて、現れたと言った時、トマスという人が、「信じない」と言うんですね。すると、自分が刺された胸の所を触って確認しないと信じないと言うんですね。

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ヨハネ福音書20章25節
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
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それを、実証主義というんですね。後々の哲学では、実証しないと信じないと、そういう考え方もあるわけですね。我々は、今の時代、ほとんど実証主義というか、確かめないとそれを認めるわけにはいかないところもあるわけですね。ですから、実証主義がどんどん広がっていることは、宇宙ということの138億年なんていうですね、見えるんだっていうような、あるいは理論的に存在しているんだということを、確定された理論のように言っていますよね。それを本当に見たかどうか、あるいは、ヒッグス粒子が生まれてくる、最初の17くらいの粒子が生まれてくる前は、どうなのかというと・・・。

◇我々は細かく精緻に学ぶ方を選ぶ

そういう事で限りなく、学ぶというか、学ぶことが出来るように人間には、恩恵がもたらされているのかもしれませんけれども、無限に学ぶということが出来るということが、逆に言うと、無限の地獄に落ちるという可能性もあるというかですね。

それを解決する方法は、一つは創造ということを考える、宇宙の創造ということと、それを自覚するということが、どうしても必要になるというかですね。そういう考えがないと、途中から永遠に一種の哲学ですからね、不可知論になったり、分からないということになったり、あるいは、ずっと追求しないといけないということが、セットになっているんですね。ですから、非常に難しいですけれども、我々が、お祓いの言葉も、ちょうど、急に古めかしく、禅の公案なんて言ってもわかりづらいかもしれませんけれども。言葉を解く意味とか、「なるほど、そうなのか」と解く時に、一つの公案というものを出して、それを解こうというようなことが、「こういうふうに解けましたけど、どうでしょうか」ということで、参禅するわけですね。坊さんの所に聞きに行ったり、お話に行ったりするということは、禅の一つの修行でありますけれどもね。

我々も一つの公案のように、そのままのものとして受け止めなくていけない所もあるんですけれども。自分で納得いくように、この祓詞というものをですね、理解するには自己で証明することが、この期に及んでというか、この時代に、そういうことが必要ですね。それが信仰という様な形で、やらないということだから、もっと難しくなるんですね。信仰ということは神様がいるということを、そのまま無条件で信ずるということをしなければならないということですね。細かく精緻に学ばないといけないことになるわけですね。我々は、細かく精緻に、学ぶということの方を選んでいるわけですね、信仰ということを選んでいるわけではないと。そういう意味で、宗教ではないんだけれども。

◇自我から段々と成長し自己を確立していく

その方法というか、分解して理解しておかないといけないというかですね、信仰というのは、宗教というものは、見えない存在を、信仰という方法を通じて、ある存在として認めるようなことなんですけれども。そういう存在を、どういうことなのか、faithということなんですかね・・・。「信」ということを英語で言うと、faith、つまり信仰ということをいうんですけれども、それは、「真」「誠」とか、そういう言葉でも日本語に置き換えられるわけですけれども。

だから、その信仰ということの本来の有り様というのは、真というか、素直に、自分自身を、純粋に、その自分を信ずるというか、その反対が、神様というものの外側に信じるということと、その自分が信じている自己ということを、これこそ自分の想いであると、真であると、そういうところがあって始めて、信仰というものが成立するんですね。ただ、いたずらに神を信ずるということではないと。

ですから、自分自身に対する精神と言いますかね、そういうものが、神というものに対して生じることが、自我から段々と成長して自己主体という人間の精神が確立してくるというか、段々と出来上がっていく時の順番みたいなものがあってですね・・・。そして、それが、また神という存在を迎えていくということの体系なんですね、白川はですね。

ですから、そういう自己というものの精神というものが、神を迎えるという形になるんですね。自我という子供のような想いでもって生きるということの、それが純粋に生きるということを出発点にしなければ、全てはもちろん出てきませんけれどもね。

◇共に生きるという博愛の精神へ・・・

そういう中で、自我が、段々と成長して、自己として確立していく。そして、それがさらに、精神というんですかね、公というところでみんなと共に生きるという社会というものを、作るということを目指していく。そういう精神というものが、愛情に基いた博愛というところに繋がるわけですね。そういう精神があって、初めて神を迎えることができる。

神というものは、そういう太陽ということもそうですけれどね、誰にでも平等に、陽の光を与えてくださるというかですね。もちろん、囚われていて、牢獄の中に光が差し込むなんて言うこともありますけれども、それが元になって人生を転換したという物語は沢山ありますけれどもね。一筋の希望になったというね。太陽というのは全ての人に、平等に温かい光で照らしてくれます。そういう存在を神と呼ぶ、呼んでもいるわけですね。

日本の中心的な神様の天照大神は、一つの役割として、はっきりとあるわけですけれども、それは、やはり、そういう精神の上に、繋がるというんですかね。それを天津神という形で言うと、そういう働きが、太陽系の中に、全て存在しているということもマクロで言えば分かるわけですけれども。

◇祓詞は内外の自己を知る公案のようなもの

そういう神というものを、いたずらに信仰という次元にもってくるわけではないんだけれども、この公案のような祓詞を、自己を知る、あるいは外にある存在を知る、それが両方、中からも外からも、理解出来るかかわりのところに、神という存在が繋っているということですね。ですから、一方的な信仰ということではなくて、外にあるものを信じるという態勢だけではなくて、自己の中に、そういう存在を迎える、それは、外からも中からも迎えられるというふうな、そういう世界が存在しているんだということでですね。

今日の感じたことというのはですね、このお祓いの言葉を、その通り受け止めると、「とほかみえみため」は、「とほかみ」ですから、遠津御祖神であったり、あるいは、「とほ(十)」というすべての神の呼び名、抽象的な呼び名かもしれませんが・・・。

天津神・国津神といえば、すべての神であるわけですけれども、そういうものと似たような、「とほかみ」と言った時に、そういう神の全ての存在に対して、「えみため」ですね、「どうぞ、微笑んでください」、ということもありますけれども。

ある面で、「とほかみえみため」ということを色々、江戸時代から伝わった、そういう教団が沢山ありますけれども。その中には、「とほかみえみため」だけ言う「吐菩加美(とほかみ)講」もあります。とにかく何度でも言ってみるという、南妙法蓮華経、南無阿弥陀仏と同じようにですね。

そういう時代ですから、無知識層に広めるためには、そういうふうな「とほかみえみため」だけ言うというのを流行らせたこともあるんですね。禊教なんかもそういうところがありますけれどもね。

◇「とほかみえみため」この8文字で・・・

そういうものを見ていると、それの「とほかみ」を、ただ短いからということではなくて、これを最初に、我々が、神を迎える時の最初の言葉っていうか、そういうこともあるのではないのかなと。ですから、高濱浩先生が、よくおっしゃっていた「とほかみ」の「と」でもって、もう神を迎えているんだ、「と」の神といったら、言霊でもありますけれども、その「と」で迎えるというかですね。

もちろん、その「と」「ほ」「か」「み」「え」「み」「た」「め」ですから、その8文字でですね、そういう迎え方もあるというかですね。飛躍させると「全ての神を迎えます」というようなことにもなるんですね。ですから、そういう神を迎えれば、その働きでですね、もちろん、自然の働きのですね、神の恩恵というか、自然に生きるということができるわけですけれども。神様の名前を呼ばなくてもですね、生きられますけれどもね、「困った時の神頼み」なんて言いますけれども、そうでなくても、我々が、「とほかみえみため」と言った時に、最初に神を呼んでいるのと同じことなんです。

◇恩恵の時

もちろん、そのままの段階でも、その働きの中に生きているわけだけれども、なお、そういう全ての神々を迎えるという、そういう精神といいますかね、そのところが非常に見えないけれども、迎えるというか、せめぎ合いですよね、どんどん見えないと思われていたものが見えてきて、そして、その働きが宇宙の中にある。これは、ミクロでもマクロでも、どんどん広がっているということが、恩恵の時なんですね。そうではあるけれども、それをそういう存在、宇宙創造の時の、たぶん存在ということを、一つの仮説としてでもいいからあげて、それに対して、おこがましいですけれども、そういう「とほかみ」あるいは祓いということを、長く伝えてくださって・・・。

それを、たぶん、実証実験というんですかね。白川なんか、殆ど実験なんですよね。あらゆる、方法論というものが、世界中にあるんですけれども、そういうものを実験して、取り入れていく、易経もそうですけれどもね。そういうものを、我々がこれから、まさに実験しながらですね。さらに、進めていきます。実験の内容ということが最初から問おうとしている、神というものを迎えるということを実証していく、たぶん、そういうことを、過去の人達がやっていきているんですね。

その結果、これが残っているわけですから、それを更に、実験して実証していくというかですね。それが、心地よいものだと感じていくことが、可能なんだということをですね。それが、どんどん早まっているというか、そういうことが分かるような時期に来ているんだということが、大事なところだと思った次第であります。

どうもありがとうございました。