0324話:2018年01月25日

おはようございます。

ここのところ、難しいことを言っていると、家の者からよく分からないと言われてしまいました。今日はもっと分からないことを言おうかなと(笑)。やっぱり、古めかしい哲学ということも、R君に勉強してもらっているから、一助になれば良いかなと話しをします。

◇自由という名の足かせ

最近は、カントの頃、体系化された知情意というか、そういう人間の哲学の中にあるのですけれども、情緒プロセッサーということで、昨日、智樹君が話して、情緒というのは、感情とは全然別のものだということでした。たぶん意志と情を繋ぐ、ちょうど結ぶくらいのものが情緒かなと、それが二人の結論ですけれども。

なかなか意志というものの実体というものが、掴めないということが哲学ではあります。それは何故かというと、相当キリスト教の影響が強いと思うんですね。神から自由になりたい、最終的には哲学的には自由からの逃走ということを、エーリッヒ・フロムという人が言いました。自由というところがたぶん足かせになっているんですね。神の創造から自由はないというような、そういう縛るための人間が、何でも自由にしてはいけないということで、縛るために倫理というものを作ったわけですね。

それによって、今度は道徳ですね、みんな罪深いものだということにして、そして、今度は道徳的に人が生きるということの足かせをしたと思うんですね。それを神の名によってしたということで、一つの何千年かの暗黒というものが訪れるということになったり、哲学もなかなか進化しなかったわけですね。

◇知情意の研究

そういうことでギリシャで終わってしまうんですね、イソノミアというのはね、自由と平等というのはですね・・・。瞬間にできて終わってしまったんですね。ヘブライイズムがヘレニズムに優越したんですね。ギリシャ思想というものを、ある面ではユダヤ教・キリスト教の考え方がギリシャを覆ってしまったと。だから、それはギリシャの場合は、どちらかと言うと多神教ということですが、それがキリスト教で覆ってしまうということになったんですね。歴史的経過のことを話せば、長くなりますので短くして言うと、そういうことになります。

そういう中で、この時代で何が変化しているかというと、宗教ということと、科学ということが大きく対立するとすれば、それが必ずしもヘブライイズム、ヘレニズムということではなくて、宗教の中では、一神教と多神教、科学でも、魔法(スピリチュアリズム)と一つの科学というような対立が絶えずあるわけですね。そういう中で、それを調和するために、哲学というものを考えて、結局、神学から出て、哲学というものが始まるわけですね。そういう哲学が目指しているものが、先程の知情意というようなものの研究なんですね。意志というものが、どの意志にあたるかということも研究ですね。

我々はこれを人間の脳の中で、一つの機能として海馬とか、脳下垂体とか、松果体とか、大脳新皮質とか色々とありますけれども、人類の進化の中で、そういう機能を獲得したと思うんですけれども。あるいは、それも創造の中にあるというかですね。その間には、統合された捉え方でないといけないというかね。ある時には、それが輪廻であったり、ある時には、なかなかたどり着けないそういう情緒であったりというですね。

◇宗教的と科学的、両方を合わせる哲学

その中で特に、我々は結合エネルギーという意味での、神と人の情報を繋ぐ一つの、今言っていることは強引なんですけれども、その結合するものというもので霊というものを使っているんですね。それはたぶんギリシャもエジプトもそういうことの研究が中心にあったんですね。

そういうものが今、我々の中で、両方の真ん中にあたるようなものを目指さないといけないのですけれども。それはやはり宗教的なものと、科学的なものの両方を合わせるような哲学というか、それは思考の仕方、考え方、生活の仕方に至るのですけれども。

その情報を提供していかないといけませんが、何を提供するかということが問題となるんですね。宗教ということが何をもたらすかということは、結局、神の創造ということを出さないと解決しないんですね。当然、神とは何か、創造とは何かということは、分からないといけない。一方では、創造の始まりは何かということを追求しないといけない。それの終わりは何かということとの両方を見つけていき、両方を一つのたたき台にあげなければならないんですね。

◇繋ぐ精神、統合する学問

その中で20世紀になって階層ということが分かってきて、上り詰めるということの中に、また一つの神という存在ということと、一番のベースになる人間(身体)に関わるのものというですね、物理と言いますが・・・。本来は窮理学になるはずだったんですね。窮理学という部分はできないから、物の理ということを考えたのが物理ですね。白川では精神というものの理学というものを、明治の時に宮内忠政先生が精神理学と言いました。

だから、そのちょうど、神と物の両方を繋ぐ精神というか、理学(数学と科学の統合した学)というか、それが六種鎮魂の世界でもあるのですけれども。五魂というものを統合するのが精神であり、精魂と言っているわけですね。ですから、その間にあるものということを、階層性の中で掴むときに、必ずそれを一つひとつの体と情を結ぶもの、情と精神を結ぶもの、神と精神を結ぶものという、接着剤にあたるもので、それぞれ学問もでき、思想もでき、哲学もでき、そして、人間の生きる縁(よすが)にするということになっているということなんですね。

◇人間の意志の出処はどこか

ですから、そのあたりの今、我々がなぜ、意志ということに行くかというと、情緒プロセッサーというものが一つのその先にあるものは、意志のプロセッサーなんですね。意志のプロセッサーということは、それは分からないんですね、意志というものが人間のどういう欲求から出ているものか、いくら探しても分からないということなんですね。

言い換えると、まだ追求の余地があるということなんですね。そこがたぶん創造意志というか、宇宙創造の意志というものに、もしその源が神だとすれば、神が初めにお持ちになったお宇宙創造意志というものに人が重ね合わせないと、人間の意志の出処が分からないということにたぶんなると思います。

これからはそういう自分がどういう意志でもって生きるかということで、その実体が見えないと、それをいくら心理、精神で考え分析しても分からない世界があるんですね。

◇生きることから逃げるという自由も

それはやっぱり、自由という意志なんですね。皆さん、自由に生きているとも言えるわけですね。その一番、自由からあるいは生きるということから逃げるという自殺も、ある面では、自由からの逃走かもしれません。そこまで自由にさせられている、普通は動物には種の全体の危機がない限り、動物は集団自殺しません。人間だけがします。そういう自由さえも、ある面では持っているので、それを防ぐために、宗教が言わなければならなかった。ですから、それは良かったことでもあるし、悪かったこともあるのですけれども。そういうことも含めて自由というものを見ていかないといけないというかね。その原因が創造の意志にあるんだということを考えるということが大事なことだと思います。

◇先天性の創造意志

自然にそうなっているということが、たぶん意志の出処であるというかね。それは先天性というかね、後天的にもたらされたものではないというかね。すでに自分自身の中で自由ということに対する希求というか、あるいはそう生きるということを最初から決めてある先天性のようなものが人間の中にあると言っても良いと思うんですね。私は色々、結論的な見解をあまり述べることをしません。それは、皆さん一人ひとりが自由ですという宣言をお願いするというか、あるいはそれが当たり前なこととして、自由というものを認める中で、自分では決定的なことは言いませんけれども、自由ということの意志のところは、たぶんそういうことが前提にあるから、当たり前にそうなると見ても良いのではないのかなと。

後天的に学んでいるようなものではないと、今日、云いたいと思いました。自由意志によって、最後は自分が結論する、生きるということ、あるいは仕事でもそうですけれども、命令ということはあり得ない。今の環境、あるいは場の中でこういうことをするということが、自分が一番自由だ、あるいはそれが自分で決めてやるんだという、その自己決定をする時にこそ、存在の意義があるのではないのかなと思います。そんなことを今日、感じました。

更に話しが難しくなってしまったかもしれません。ありがとうございました。