0329話:2018年02月01日

おはようございます。
何かご質問ありますか?

 

●Aさん
昨年末より、フトマニの里の田んぼの開発を始めさせていただいて、水路の方も、約一ヶ月かかって、無事に水を引くことができました。まだ生物が棲みついていない状態で、これから色んな植物が植えられていき、そこにいろんな昆虫とか微生物とかお魚とか、鳥とか来てくれるような広場になっていくと思います。本当に、このプロジェクトに携わらせていただくことは、嬉しいですし、感謝と喜びでいっぱいです。また、これからもよろしくお願いいたします。

 

【七沢代表】

◇自然の姿を里山に再現する

我々は、神と一如、自然と一如と言っていますけれども、先祖はみんな一人ひとりが迎える神でもあり、自分自身が生きた先祖でもあるわけですけれども。

なかなか今の自然というものは、山とか海とかは、遠くに行かないとね。甲府は、山の都と言われているけど、山も自然ではないみたいなところがありますけれども。何というか、身近に自然というか、それに近いところでの自然の姿を再現していただくというような形で、里山というのは一つの表現ですけれども。

音もそうですよね、静寂(しじま)なんていう音は誰も聞いたことないって言いますけれども、我々が子供の頃は、ごく普通に聞こえていた音なんですね。夜はとくに、夜の静寂なんていう音があったんですけれども。まず、太陽が日の出も日の入りも、一番自然な姿というか、そういうものがあったわけですけれども。今は、なかなか味合うことができない。

鎮魂もそうですし、五行の神と言いますかね、木火土金水の働き、水のせせらぎもそうですけれども、虫の音もそうですけれども、川があって、畑があって、田んぼがあって、そういうものをなるべく自然な形で触れて、そこに神を感じるというか、五行を感じて鎮魂したくなるというか、あるいは自分の魂と自然とを向かい合わせる、そういうことを、やれるような場所という意味で、フトマニの里ということを再現していただいているわけです。

◇フトマニの里も身近な修行の場に

だから、その場所で、だんだんでき上がってくると、まだ昔のぶどう園もそうですけれども、ある面では、木を人間が必要な姿にしているわけですけれども、だんだんとそれができ上がってくると、そこに自然を感じてもらって、そこでもって神を迎える、五行の神を迎えるというようなことができると、ここが白川の身近な修行の場になるのではないのかなと。

昔は、水を掬ってお祓いをかけるということを、高濱先生はよくされていたということも、そういう綺麗な水ができれば、そういうことができるような場所にもなるかなと思いますけどね。

Aさんは、昔の自然の流れ、田んぼというか池というか、そういうものを作っていただいているので、よろしくお願いしたいと思います。白川というのは、一つ一つ階層的に知も修行もなっていて、その上で体感するというんですかね、実証実験するというか、そのための場所というんですかね、それが修行の場というか・・・。

◇自分にとって価値のあることを掴む

さて、我々は、普段、働いているわけですけれども、働くということも、ある意味の価値化ということだと思うんですね。皆さんの能力というか、だんだん能力を高めていくということも、価値があがることだし、社会的価値にもなるし、自分でも、それがとても大切な人生になって、得られていくものだというような、そういう意味の価値もあります。価値というものは、一つの指標になったり、あるいは階層的には価値が、一つの階層にあるというんですかね。それが、どういう価値にするかということが、個人個人によって違いますけれどもね。その辺りのところが、自分の中で掴めてくると、生きるということの充実感と言いますか、そういうものがだんだん広がっていくのではないかと。

社会的には労働というようなことの中で価値を見つけるということが、この何百年かは、これは資本主義だろうが、共産主義だろうが、そういうものを価値に変えるということをしてきました。更に、それを貨幣に変えるということで、交換する時の価値というものが、はっきりと出てきたわけですけれども。

もちろん、自分自身が生きたいということを、生きるということを価値にするということもできるし、あるいは自分の生きるということの中で、芸術とかそういうことをあるいは、こういうお祓いでもですね、声を出す、祓いの言葉が価値を持つという事は、そのお祓いが非常に効果を生むようなですね。

昨日の話もありますけれども、こういう自分のやっていることが、宇宙という様なところまで響くような、そういうものの価値に繋がるようなものを求めるとか。それは色々と個人個人によって違うと思うんですけど。

◇憲法でどう決めようが平和を求める

でもそのところがやっぱり、命というものを輝かせるし、自分がやっているという行為が、皆からも認められるし、それが社会の為にもなっていくというかですね。そういう広がり、価値の広がりというんですかね、それができると、ある意味合いでは、倫理とか道徳も一つの価値なんですね。人から何かを言われるから、自分の何かを変えるというようなことではないんですね。

自分自身が、自分自身でもって決めて、それを守っていくところに価値を感じるわけですから。それっていうのは、「ブレない」とか「軸がある」とか、色んな言い方がありますよね。生きる時に、自分の決めたことを、しっかりと実践する。もちろん、それが、上手くいかない時は、もう一度、再決断というか、もう一度、見直しをして、「今度は、こうしよう」とか、そういうこともありますけれども。そういう実践をするということが、自分の中で価値を持つということが、人から何と言われようとも、こう生きるという生き方の問題ですよね。

それは、日本では、そのことは、あまり人に強制しないような形で、実践倫理というものを任されているようなところがあったんですね。ですから、例えば、憲法で決めなくても、どう決めようが平和ということを求めるということが、人間の、日本人の中に大事なものとしてあるとすれば、それはそれで、実践していくということで、どういうように一種の憲法で決めようが、ある面ではそれはもう日本人が決めて実践していることでもあるかもしれませんね。そういうことの中に、今もたぶん日本の憲法改正とかがあるのではないのかなと。

それはいわゆる、法の中でも、憲法というものが一番基本にありますけれども、商法とか、民法とかいわゆる六法というか、色々とあるわけですね。これは、弁護士や裁判官や警察官が、それを使うわけですけれども。法の哲学というものの価値から、だんだんと憲法に下ろしていかないといけない。どうもそういう議論ができていないのではないですかって。だから、その辺りを考えてみたら、いかがですかということです。

◇「御道(おみち)」をいく

どう生きるかという価値の中から、みんなが国として生きるということが出てくるということですね。その一番の元にあるものが、日本で言うと、「おみち」というものが、道ということが大切だねということで、”御(お)”をつけたわけですね。おみちということは、明治になって和学教授所のときに、色々な規則なんかを作りましたけれどもね。

基本的には、一子相伝というところもありますけれども、おみちをいくということは、みんなの学ぶものの既成事実というか、暗黙の了解というものの中に、その実践すべき、生きるべき道というものがあったということですね。それが、古神道の中にある、「みち」ということですね。古(いにしえ)の営み、自分の心の営みという意味で、そういうことが真とか、平安清明という言葉に残っているわけですね。そういうものを一つひとつ解いていくというようなところが、大切なところになるのではないかなと。

大事な表現というか、考える拠り所として価値ということを出して自分自身が一番大切に思い、そして、それを実践することが、自分にとって、心地よいということになることが、そういうことをこれからも選びつつ、そして、それを実践するということが、たぶん充実した人生になるというところにいくんだと思うんですね。古くからは、哲学ということなんですけど、そういうことを考えるということはですね、人間が意識をもって思考することで、始まったことで・・・。

◇母にとめられても・・・

言葉を一つ役立てるということで、していることのなかに、大切なことのなかに思考するということのなかに、そういうより良い生き方を思考する、考えるということは、本来は、哲学なんですけれども、そういうことが難しく伝わっていってしまったというかね。

私なんかも、親に哲学と宗教を大学に行って研究するんだったら、学費は出さないと、はっきりと母親に言われたんですね。それで、色々と困ったんですね。哲学と宗教を求めて、実は、大学に行きたいと思っていたので。ただ、この地域でも新宗教運動が起こって、それが悪い結果をもたらしたわけですね。それで、母親からは、絶対ダメということを言われてしまったんですね。よく考えてみると、それは生き方の問題で、宗教や哲学は、その当時から難しくて、それをやると不幸になるというふうに思ったんでしょうね。実際に、哲学を学んで、華厳滝から自殺した藤村操(ふじむらみさお)という方がいたんですね。そういうことを、昔は知っていたんですね。哲学をすると自殺するから、ダメだとということもあったんですね。宗教と哲学がダメで、結局、全然違う学科に入っておいて、それで(笑)最後は、宗教学まで研究しちゃうというか。

ですから、奨学金をみんないただいてですね、もう返すのが大変だったんですね。殆ど返せないんじゃないのかと。学生期間には、それくらい借りてですね、親に言われたからですね。1日2食でですね、ですから、大学院の頃は、医者から栄養失調とハンコを押されたんです。「珍しいね」なんて言われて(笑)今時、栄養失調なんて無いって言われながら・・・。

◇ただ存在しているという価値

要するに、生き方というか、哲学というのは、一つの生き方なんですね。だから、そんなに難しくないんですけれども、難しく言うと、価値があることをするということを、自分で実践の中で、項目になるということですね。

それが、美を求める価値なのか、道徳を求める価値なのか、あるいは音楽なのか、あるいは宗教、神なのかということの中で、一番自分にとって、これが価値があるということを皆さんが、これからもされれば、一番悔いのない、そういうことに繋がるというね。そういうことを考えていただくということが、たぶん生きる時の指標になるのではないかと、拠り所になるのではないかと。

その前提の最大の価値が、一人ひとりがこうして、まず、ただ存在している、その一点に価値があることを存在価値と呼んでいます。その自覚があって、これをやるから自分は存在として、自分自身が認め、また、他者も認めていただけるような、生き方に繋がるんだということですね。その上で様々なことをやっていただくと心地よいではないのかということを、今日は感じたので、お話させていただきました。

ありがとうございました。