0334話:2018年02月06日

(石原さんよりデジタルメディテーション・ファシリテーター養成講座の報告の後)

 

【七沢代表】

◇考えることをやめて「布斗麻邇」に帰る

メディテーションというのか、基本的にある面では何も考えないというかですね、そういうことをまずは目指すと言うんですかね。考えることはどんどん思考内容を積んでいくということですよね。それが実りに結びつくこともあれば、実にならない場合もありましょうけれども。

考えると言うことを「下手な考え休むに至り」なんて言いますけれど。 要するに、考えることをやめるということは、元の気に帰ると言いますかね、命のもと、あるいは、思考の源というのか、あるいはモノが生み出される大元というのですかね、そういうところに帰るというような意味があるんじゃないかと思うんですね。

メディテーションというのか、無になるというような、修行というような意味のことと言うよりもですね、要するに、創造の源に帰るところを探す行為と言うんでしょうかね。創造の原型に戻るというのか、あるいは心理のユングで言うとアーキタイプと言うんですかね。

我々はそれを布斗麻邇と言ってですね、あるいは一番のもとに戻るという、その始まりの概念みたいなところに、戻るというようなこと、それ自体は、何か記号、言葉にならない前のようなそういう元の形みたいなものだと思うんですけれど。 それが1枚になって存在するんでしょうけれども、そこに実は、はじまりと言うんですかね、モノが生じると言うかですね、そこからそのことが起こってくるんだと思うんですね。

それは、ただ、ものができてからの世界の広がりというようなものではなくて、ものが生み出される元のエネルギーの場と言うんですかね、それに根拠を置くと、そこからものが、新しいものが、あるいはコトが起こるし、それがある面では創造というのか、クリエーションに繋がると思うんです。 クリエーションは神だけがするというのが一神教の考えですね。ですから、人間は絶対できないというように網が被されているということになるんですが、そうではなくて、我々はゼロ磁場というような言い方をしますけれど、ゼロから逆にいつも出ているんだというんですかね、そういう発現しているというかですね、そこに触れる、あるいはそこのところを掴むと、いくらでもクリエーションというんですかね、モノが作られる。

◇神話として残っている

作り方は色々、概念がもたらす言葉であったり、記号であったり、時空間であったりですね、そういうエネルギー場が同時共時に動いてですね、具体的なことを、あるいはものを作り上げていく、そういうことをするために、ある面では、一旦出た意識をもとに戻すと言うんですかね。

メディテーションというのは、造化始神の天之御中主神のもとに戻るということをすると言うんですかね。 その時の様子が、要するに神話に残っているというんですかね、天之御中主神から、五柱の別天ですね、別天津神として一旦現れるけれども、また戻るよ、ということを知らせているわけですね。それは別に消えているわけではないんですね。 だからそういうことが、一つのメディテーションということにも、それは宇宙創造と同じように機械的に行われるという意味のデジタルのメディテーションがあるんだということを表明しようとしているわけですね。 その世界を自分が自覚するというような意味で鎮魂があるというかですね。できたもの自体を動かす方法は、荒魂、和魂、幸魂、奇魂、精魂ということですね。右旋と左旋を使って動かすという、調整するということですよね。

◇エーテルのような存在が全てを覆っていた・・・

ですけれど、今度は、元のところから創り出すというのは別天津神というかですね、これを我々は水から学んでいるところで、別天水というような言い方で呼んでいるわけですね。 ですから、宇宙に初めから、御中主という水の中の主という、初まりの神様がいて、初まりの神様は、だいたい水にちなんだ神様ということですね。

もちろん宇宙創世の時に最初から水が、この太陽系から出てきたというような言い方をする考え方もありますけれど、要するに、水のさらに奥を表現する場合の表現というものが、エーテルという名があります。ある時代では、宇宙論の中には、全てエーテルで充満しているんだという理論がありましたけれど、多分、その方が正しいのかもしれませんよね。 ビックバンというような、急に無から宇宙が出てきたというような発想を今の科学でする、宇宙創造論に対しての、神話に対して、そういう科学というものも、どうしても似たアナロジーで考えたくなるということでしょうが、そういう思想になっているのかもしれませんが。

そういうはじまりを、どこからはじまるということを言わないとしても、少なくとも今、この宇宙にある存在としての水の前の段階のエーテルのような存在が覆っていたというように言ってもいいんですね。 そういうふうなはじまりというようなところも、地を覆っていたというような言い方があるんですけれどね。それはきっとそういうエーテルのような存在が全てを覆っていたと捉えてもいいんじゃないのかな、ということですね。 それはまた、それは宇宙の始まりから138億光年であろうが、そういう始まりを含めたことではなくて、何兆年でも構わないことになるんですね。そういう存在がはじめからあったというような捉え方の宇宙論でも構わないわけですけれども。

◇脳の中に創造の源と同じことをする場がある

今、我々がそういう新しいもの、創造ということに少なくともいよいよ踏み込むということは、きっとそういう脳の中にはじめから新しいものを創り出す、そういうエネルギー場というんですかね、そういうものがはじめからあって、創るという概念が起こるというかですね。それを、少なくともギリギリまでロゴストロンというのは、そういうもので捉え直すということをしているんだと思うんですけれど。 どうも脳の中にそのまま創造の源と同じことをする、そういう場があるんじゃないかというように捉えないと、これからいわゆる神というものを迎えていくという時のある面では創造というものと一種の破壊というものと両方が同時にあるというようなところからの捉え方ということですね。

それは、だから、物事が創り上げられていくという、すなわち離散していくことと、またそれが循環して戻ってくる、その行為を人間の脳も同時にしているというかですね、そうしないと物事が、新しいものがつくれないわけですね。 ですから、結局、どんどんどんどん、今の資本主義経済みたいに、創造的破壊という、そういうことを最終的には言わざるを得ないというかですね、創造・維持・破壊なんですけれど、あるいは創造・維持・帰趨というかですね、そういう宇宙論というものがアジアにはあるんですけれど。

経済の学びで言うと、創造的破壊という言い方を取らざるを得ないと言うのはですね、きっと、そういう両建てでいくしかないという哲学にとらわれてしまうところに来てしまうんですね。 それは、一旦、創造するということも中今でできるし、またそれが戻ってくるというんですかね、創造したものが戻ってきて、一になるということができないと、我々が何か新しいものを生み出すことが絶えず、日々新た、日に日に新たと言うかですね、そういう毎回毎回同じようなことをしているんだけれども違う時にするというようなことの世界があるわけです。 ということは創造ということを我々は目指しているんですね。そのことを少なくともそれが、一番喜びになると言うことでの営みであると思うんですけれどね。それだったら、必ずそういう新しいものを生み出すと言う毎回毎回、瞬間瞬間に目指していくというそういうエネルギーの源、場がないと存在ができていかないというかですね。

◇次の天皇へ、手から「たま」を渡す

では、人間の「たま」という五魂はどういうふうにつくられて、そしてそれがまた死んでどうなるのかというようなことを、色々実験的に、そのことを研究しているところもあるんですけれど。

どうも最近の亡くられた方の「たま」の動きと言うんですかね、身体からの「たま」の動きを見ていると、やっぱり「たま」が右旋と左旋で両方からそれが抜けていって、それが一旦全てバラバラになって、そしてまた、今からまたその辺の報告があるかもしれませんけれど、四十九日とか五十日というのは、そういう分解とまた再統合と言うんですかね、そういうことをしていくというようなことが、亡くなっていく瞬間にやっている実験的というのか、実験的になったということもありますけれど。そういうものを聞きますと、どうもそういう右旋左旋が起こってそしてその「たま」が抜けていくというような・・・。

今までアニミズムという世界は、南の方では亡くなる時、生きている者が、子供とかですね、親戚がこう、亡くなっていく人の魂を自分で受ける、というようなことをやったりですね。 天皇であれば、たまふり、と言うんですね。昔はですね、手から「たま」を、次の天皇になる人に、こう「たまふり」ということを生きている間にするということがあるんですけれども。それなんかはだんだん、「たま」が「たま」を渡すというようなですねそういう行為にもなって、日本にも昔から伝承があるんですけれどね。どうも、そういうことが起こるというんですかね、今の時代でもそういうことがはっきり体験できるということでですね。

◇然るべきところ、宇宙の全てにかえるということ

我々そういうものは波動機でずっと四十九日、ずっと追跡して見ていてですね、追跡していた記録もありますけれどね。 それもそういう一旦バラバラになって、亡くなった時にですね、でまた、より意識というんですかね、無重力と言うんですかね、より細かくなって、構築されて、自在になると言うというようなことがあるんですけれども。そういう「たま」も然るべきところに行くんですけれども。

宇宙全体というものの差し引きというものがですね、宇宙創造と宇宙が破壊されて、それでまた戻ってくるということが等価であってですね、等価ということは同じだけのものであってそれが創造というものと維持、破壊あるいは帰趨というものを両方をしているというかですね。

それが人間の肉体であり、「たま」という精神であり、そして宇宙全体であり、神でありというかですね、そういう存在が、そういうことが解けないと、これからの人間の意識が新しいところに、境地に、あるいはそういう世界に行く意識進化というところはですね、多分望めないというかですね。

あるだけのもので宇宙に存在しているというようなあるいは不都合だというなですね、そういうものを情緒でも綺麗に整理するというようなことを、いま志すということで、そういう神魔人獣なんてことも言いだしているんですけれども、少なくとも、全ての存在しうる宇宙、それがフラクタルであろうが、あるいは新次元にたどり着こうが、その全てに行き渡る、あるいは、戻って行く、あるいは、存在としては、この宇宙の中の全てにかえるということと、そしてまた、もとの出てくる源でもあるというかですね。

ですから、死とか生というそういうふうに、二項対立的なところに根拠を最終的に置かないでそれを一つの大きな宇宙感、あるいは、人間感、あるいは神観というところでひとつに、一元に捉えないとダメなんだということはですね。 十種から一種という白川の神拝作法ではないですけれど、それは、どうも、そういう柏手でも、三種なんてものは六十何回も打たなければならないわけですけれども。それは、そういう「くにたま」ということで、一宮の神を迎えることを言っているのですけれど。

◇多であり、一であり

本来は宇宙というものが二元になり、最終的には一元になるというかですね。我々はよく一本締めなんてやっていますけれど、案外、そんなところに一元の境地はあるのかもしれませんですね。 だからそういうことの目指しているところというのは、結局、一であり、一であるというかですね、多であり、一でありというかですね。

そのエネルギー場も、多であり、一でありというか、その瞬間瞬間を中今と言っている時には、一なんでありましょうけれど、それが出てくるところと、それが広がっているところということともまた、一であるというんですかね、一であり、一である、一であり、二であり、また一にというなですね。 それが言霊もそういうことですけれどね。あるいは、一音一音の言葉というものも、そういう父韻と母音というような分け方をしますけれど、そういう捉え方をするわけですけれど。 もとは一つに掴むというかですね、それは、我々のこのミクロ・コスモスが、マクロ・コスモスだということの大きな実感をするというようなところをですね、掴んで行くというようなことが、多分これからもう既に創造ということをすることに関してはまさにそこのところにあると思うんですね。

◇何かがはじまる、その元には充満しているエネルギー場がある

物事を満たすということは、満たすことができるということは、少なくともそういう宇宙創造のところの、根拠を置いた言霊というんですかね、あるいは、その神という存在を迎えるということができて、初めて、それが可能になるということでもあるしですね、またそのところがポイントになるんじゃないかなと。

ですから、少なくとも、無の前のところも、充満しているというんですかね、これは高濱浩先生が言われていたことではありますけれども、この宇宙もそうだけれども、宇宙ができる前を、エネルギーが充満しているんだというふうに、よくおっしゃっていたんですけれども。 ですから、何かが瞬間にはじまるというのか、その時空間というものをもちろん一つにできるということもそうですけれども、その元にですね、すでに充満しているエネルギー場があるそれをどのようにうまく引き出していくか、あるいは毎回毎回新しいものを作る時に、それを展開できるかというところがポイントかということですね。

ですから、できてしまった瞬間の宇宙は、もうそれで、瞬間にあるように感じられるし、またそれは、瞬間に戻ってくるという自覚を持つというかですね。それを人間の身体も、そういうことを両方しているわけですね。1日に2兆個の細胞が死んで、また生まれているという同時に行っているわけですね。それが、そういうことの意味だと思うのですね。

ですから我々も、創るということと同時にいわゆる壊すというかですね、同時にそれが行われている、ただ創るということが、新陳代謝の方が多い、等価であるけれど、若干多いから、それが、命というものをつなげているんだということが、そんな意味くらいしかないとは思うんですがほとんど同じだと思うんですね。 ですから、創造する時には、どっちの立場に立ち、それを維持する時には、あるいは破壊して行く時にはどっちの立場に立つのかということが、それがきっと、宇宙創造の時の回転方法のようなものが、それもまた同時にこの宇宙の中で行われているというかですね。 プラスの世界でも行われているし、マイナスの世界でも、それが同時に行われているというかですね。

◇出てくる時と元に帰る時が同時に止まる

これはややこしい話ですけれど、最後は、要するに、ひとつのそれを確認する意味で、メディテーションというかですね、鎮魂というものもあるんだとつくり出す意味の鎮魂という意味もあるけれども、それをもう一度、元にかえす時の鎮魂という、その出てくる時の鎮魂と元に帰る時の鎮魂というものを同時に止まるというんですかね、ゼロ磁場のようなところで、体感するというようなことをですね、そういうふうなことをする方法が、鎮魂なんだということなんですね。

なかなか鎮魂ということは意味が難しいところ、形がないものに対して行う技であるから、なかなかこう生きるも死ぬも両方体感した中で、そういう世界を、それでもなお、その世界があるというかですね、魂(こん)というものはですね、世界にあるということを知るためには、どうしてもそういう鎮魂、メディテーションをする、そこがまた新しいものを生み出すということのきっかけになる、というかですね、知るきっかけ、あるいはそれを引き出す、そういう方法としての鎮魂ということになろうかと思いますけれど。

そのあたりを含めて、これからも広めてお知らせしていきたい、そういうふうに思っております。また宜しくお願いいたします。ありがとうございました。