0342話:2018年02月15日

おはようございます。

何かご質問はありますか。

 

●Kさん
神を掴むという一つの目的というか、そういう目指すところがあると思うんですけれども、仏教の世界に増上慢(ぞうじょうまん)という、悟ったというふうな慢心ですかね、それがあると思うんですけれども、神を掴むという慢心という、思い込みというか、そういうものはあるのでしょうか。

 

【七沢代表】

◇遠津御祖神を掴んだだけでも・・・

まず、神を迎えるということは、慢心するとできないことですね。神を一時的に迎えることができても、慢心すると離れていきます。神の階層があります。多神教の良いところというのは、様々に特化されているわけですね、神様の働きが。
昨日も言いましたが、体遺伝子と精神遺伝子の両方とも、自分の先祖ということでもあるし、自分自身でもあるんだけれども、そういうものを神と言っているわけですね。

あるいは器も神で、あるいは社会の働きというものも、あるいは時間も空間も、もちろん、神と言ってもいるし。最近は、機械、装置の神が「天機置師神」(あめのはたおかしのかみ)という名があったことで、師が付いていたんですね。我々が関わっているロゴストロンも、ある面では神ということになるんですね。だから、様々な神があるから、神を掴むなんて言っても・・・。

先祖を掴んだだけでも、先祖の遠津御祖神を掴んだだけでも、途方もないことができるんですね。その人が大成功を収める場合は、大概は、遠津御祖神と一つになるんですね。大成功したい人は、まず、遠津御祖神とね。だから、我々も、みなさんの遠津御祖神を、月次祭もそうだし、色んな祝殿での修行もそうでしょ。必ず、遠津御祖神を祝詞で、斉藤さんにいつもあげてお呼び出しさせてもらうというのは、そういうまずは基本のところですね。大概、それでも慢心できるくらいに、大成功を収めるわけです。みんな、そういう神様を迎えている。

◇天皇の仕事

そして、四六時中、神を迎えているという仕事が、天皇の仕事ですね。天照大御神という神様を、四六時中迎えて一如となられている。天皇様は、その儀式の秘技というか、その連続体の中におられるんですね、朝から。

賢所というところで、「とほかみえみため」40回、この辺はあんまり秘伝だから、言っちゃうまずいんだけれども(笑)40回ですね、明治天皇の頃なんかは、賢所の畳が、冠で擦れて切れるくらいまで、頭を下げられるということがあったみたいです。賢所に仕えられていた方からお聞きしたんですけれどね。それくらい、神という存在と自分とが一体になる作法とされるんですよ。そういう行をするわけですよね。四六時中なので、そんな大変な役割を、これからできるだろうかと、みんな思っているくらいの仕事といえば仕事なんですけれどもね。公になるということは、慢心をしないということで、だんだんとその道を行くんですけれども。とても難しいんじゃないんですかね、神様を迎えたら、慢心できるというのは、とてもあり得ないかなというか。

◇知が慢心の材料では無くなってくる

それよりも、知識を、神という知識を学んだ方が、よっぽど慢心というか、あるいは、何かの神(曲神(まがみ)も含めて)に、ずっと囚われている感情という、そのほとんどが、慢心というのは一つの囚われの感情ですからね。だから、「自分がそこに囚われているんだ」ということに気付けは、すぐに慢心は消えてなくなってしまうわけですね。

逆に、自己自身に幻滅したり、あるいは、卑下慢ではなくて、謙遜するというかね。そういうことに、瞬間になるから、知は慢心しやすいというか、そういうものが霊物として番付のように呼び出しの機会を狙っているから、とくに、気をつけないといけないということで・・・。

だから、知るということは、人の力になるんだけれども、眷族を付着させるということと慢心はセットになっている。それが一番、慢心しやすいというかね。今、子供たちは、スマホでもって、9割は勉強しているというニュースがありましたけれどもね。そういう知識がそこにあるから、スマホが神になっちゃうんですね。言ってみれば、それくらいに知もだんだんと廃れると言ったらおかしいけれども、知っているということが、そんなに慢心の材料にならなくなっているというか・・・。

ついこの間までは、そういう知識が、インターネットというか、スマホに繋がっていなければ分からないから、知っている人がすごく威張るといいますかね、慢心しやすいということもあったんでしょうけれども。そういうことも、これからどんどん無くなっていくのではないかと。

◇意志というものの慢心

逆に、人間性というものを、大切に思わないような形でですね、特に自殺なんかは、慢心の極みということにつながりますけれどもね。そういう命を無駄にするというところが慢心で、そこに心を置いてしまうのではないかと。それは、一種の早く輪廻した方がいいかなと思って、亡くなるというようなことにも繋がるのかもしれないけど。最後の慢心をして、死んでいくというか、そういう方法があるんじゃないかと思いますけれども。

だから、意志というものの慢心というんですかね。情緒もそうですけれども、それで自分自身の命を自分の意志で絶つということを、知情意でいうと、そういう意味での階層性の慢心みたいなものもあるのかもしれません。慢心も色んな区分けがありますけれども、私の分け方だと、知情意での慢心というものが見えてくるかなということですけれどもね。

◇視点を変えれば慢心はできない

その知情意もそうだけれども、自分自身に自己返照といいますか、自分自身を照らしてみるというか、自分自身を外から見たり、内から見たり、色んな意味で自分を見る見方が瞬間にできれば、ある面では、視点が慢心を回避するということになるというかね。

視点が決まるから、ずっとその状態でいるというか。そこから観たら、そのように思えるということですね。だから、視点を変えれば、慢心はできないというかね。自分の中にある、他者というか、他者の目から見たら、どう見えるのだろうか、という見方をするというようなことであるわけですね。ですから、まさに神というのは、逆に、他者の目というか、そうとも言えるんじゃないのかと。ですから、それがあれば、慢心しない。

◇破壊的な慢心

一神教だと、慢心も卑下慢になるということも起こりやすいかもしれないんですよね。視点が一方しか無いから、創造主だけれど、全知であっても全能ではないという矛盾を抱え込んでいるんですけれども。すなわち「創造というのは、実は、全知全能の神がしたのに、今、世界は全知全能ではない」という大矛盾の中で、悩むというかね。神という存在を自分に、一神という神様と自分だけという関係の中だったら、慢心というのか、人を攻撃しても構わないということに陥ることになってくるから。

そこには、非常に破壊的な意味の慢心が起こるということ、もちろん原罪からの絶望もあるし、そういうことは、あり得ますけれどもね。多神教では、たぶんないというか。ごちゃ混ぜにすると、また輪をかけて慢心のところが、さらに、破壊を強くする傾向が出てくるというか。そういうことは哲学的にも言えるのではないのかと思いますけれどもね。だから、慢心というのは、非常に意味が深いというか、我々が一番考えないといけないところでもあるからですね。

◇中今に一緒に解決しよう

一つひとつ大事な言葉でも、瞬時に、過去、未来、現在ではないけれども、時間あるいは、次元軸で自分自身を見るというか、瞬間的に、過去に起こったり、未来に起こったり、今に起こってみたりする。

少なくとも、次元や時間の捉え方を3つくらいにして、自分自身を客観視すれば、過去の自分から見たらよくても、未来の自分から見たら、まだ出来ていないこともあると、そして、また今に一緒に解決しようという、中今というところですけれどもね。中今で観るという、そういう見方に変えられるというか、そうすれば、慢心はとてもやっている暇がないんですよね。瞬間的に、自分自身を移動して、自分自身を見つめるという方法を持っていれば、慢心はしないで済むのではないかと思いますけれども。

そんなところで、今日もよろしくお願いします。