0343話:2018年02月16日

おはようございます。

 

●Nさん
「チャイルド・アーツ・アカデミー」というものができたんですけれども。中でも、「アーツ」という言葉に様々な意味合いがあると、医学の分野では、アート&サイエンスであったりとか、予防が大事だということが言われていたり、単純な音楽、芸術であったり、そのアーツの解釈についてお言葉いただければと。

 

【七沢代表】

◇アーツが意味するものは・・・

元々、リベラル・アーツの意味は、キリスト教の神学を学ぶための前提になる学問と捉えているんですね。もちろん、哲学にしても後から出てきて、神学を理解するための一つの拠り所として、哲学という学問が結局はあるということですね。

そういう方向にヘレニズムを含みこんだヘブライズムというものは、教会中心にということで、カソリック教会を主導しているのは神父、修道士、修道女ですかね、そういう人たちが、神学を学ぶための前提となる学問としてのリベラル・アーツということであるのではないかと思うんですよね。

そのことと同時に、メカニカル・アーツ、メカニックもアーツになるということですよね。それを、西周が明治の時に、リベラルアーツを自由七科と翻訳したけれども、メカニカル・アーツのところは翻訳しなかったというところが遅れた原因としてあると思うんですよね。その部分が、日本では、手先の器用というのは、当たり前なことだけれども。ヨーロッパやアメリカでは、手先の器用というのは、一つの稀にみるという意味のアーツだということで、全然違ってたと思うんですね。

でも、今、我々の目から見ると、これはまさに階層性のことじゃないかと思うんですね。体があって、情があって、魂があって、霊があって、神があるという中で、アーツというか、位置的にちょうど真ん中というか、精神の有り様というところですかね。

ですから、効率が良いというだけでもないというか・・・。でも効率が良いということが、また機械や科学の数式が存在が美しいとかね。あるいは、「数学は情緒だ」というような、そういう岡潔先生のような方もでてきましたけれども。

要するに、相撲でも、心技体というかね、相撲の格好が美しいというのを、最終的に目標にあげたりして、美しいということの意味合いが、見えないものとしての心とか精神とか、我々でいうと五魂というかね、それらが整然として美しいということが、アーツというかね。一般的には、そういうものが、芸術という階層にあるのではないかと。その技というのは、心の技であったりするんですね。医学でも、手術の自動化されたものになってきているということも、一つのテーマでもあるんですけれども。そういう機械的にできるということが、一方では、それが非常に美しい技ということに見えるということになってきておりますが、元々、外科医なんかも見事な腕をアーツと言ったりするわけですよね。

◇心が美しさを感じる

だから、そういう階層性の理解に至るまでに、20世紀までかかったわけで。そんなことがわからない時には、そういうものが並列の中に並んでいたからですね。
テクニックということも美であると、あるいは姿も美であると、音楽も美であると、絵も美であるわけですが、一方、心の美の世界というところは、結局、どこの位置にあるかが分からないからですね。宗教などが背負っていた心の技術の世界が見えなかった。だから、そこがバラバラであったと思うんですよね。

それで、芸術というものが、ちょうど中間のところにあると、技術や感情の研ぎ澄まされた、美しさというものが、人によっては鍛えた身体が美しいという場合もあれば、グロテスクだということになったりすることもありますから、必ずしも、そうはいかないけれども、ギリシャの時代の彫刻のようなものが、美しいという考えで絵画や彫刻が美にもなるんですけれども。

これは人によってはだいぶ違うというか、何万年単位でビーナスという造形もあるけれども、日本でも人間の形を土偶とか、そういうものも今見れば美しいかどうか分からないけれども、そういう技術的な機能と、一方では、それが美しいというふうに思っていたというかですね。火焔土器なんかもそうだと思いますけれども、美しいと思っていたわけですね。そういうものが芸術ということで、500年位で急に発達してくるんだと思いますけれども。

身体のこと、技術的に物や機械の美しさ、機械のゼンマイ式の機械とか、そういうものが物凄く美しいと感じる人もいるわけですよね。人間が手作りで拵えたものもそうですけれども。あるいは、工場に色んな機械ができた時に、チャップリンではないけれども、それを茶化したようなものもあったけれども、整然としたものが、美しいと思った人々もいた時もあったと思うんです。特に、心が音楽や光や音で、それが美しいというふうに感じるという時の美しさというのは、なかなか分かりづらい場所にあるというかですね。

◇クリエイティビティ、それがあるか

宗教と芸術というものは、実は、同じ位置にあると思うんですね。精神とか心というのは、これも一種の技術化やシステム化ができると、そういう意味の要するに、メカニカル・アーツの中にあるんではないかと思うんですね。

宗教は、その方法論として、信じるという体系、すなわち信仰というものを使うんですね。そのグレゴリオ聖歌とかそういうもので、心の世界を演出したり、あるいは壁画等、そういうもので表現はできるけれども、それを心の技術とイコールにならなかったというかね。本当は、たぶん、同じところの位置にあると思うんですけれどもね。だから、名人芸のような、例えば、物づくりでも、工芸と美術というものの違い、芸術との違いというものの、今もまだ曖昧な部分を抱えていますよね。

各時代の中では、それを違って捉えているというかですね。工芸品が芸術というふうに捉えるか、あるいはそこまで昇華、良くなったものもあれば、ただ、技術の伝承、あるいは真似というか、それは精巧でもあるんだけれども、それが、芸術になるかというと、判別がつきにくいところがあると。

ここで判断の縁(よすが)になるものに、創造性というものが、一つの大きな差が出てくる。たぶん赤尾さんがやられている庭なんかでも、小堀遠州とか色んな人が、室町やあるいはその前の頃に、色んな庭を作って、今でも不朽の名作とか、色んな数式を駆使したものもありますけれどもね。そういうものの、芸術の域に達したもの、あるいは宗教的な意味を込めた色んなものがあるんだけれどもね。その検証のポイントは、創造性のところにあるのではないかと、クリエイティビティというかね、それがあるかどうかというところが、たぶん、神業というところにも繋がっていくというんですかね。

◇神の業が見えるか

その創造性というものが、神の業というところから見ると、そういうものが見えるかどうかというのが、たぶん、アーツになるか、それとも一つの整然としたかどうかは別にして、工芸(クラフト)になるのか。

それが、本当の意味の芸術になるかというのは、それが、何処から出てくるか、きっと幼児の教育でも、教育もアートにするという時に、それを教えるということが、あんまり意味がない場合もありうるということですよね。教育したら、できるということでもないですしね。一方では、教育を受けないと、知的な理解が置いてきぼりになって困ることもある。

それは、創造ということが、一種のクリエーションの創造になるのかではなくて、イマジネーションのほうの想像や妄想ですね、パラノイアというか、そういうふうな方向に、走っていくのかという分かれ目があると思うんですよね。

ただ、科学ということを前提にしないと、ある面では、暴走しちゃうというか、想像が妄想になって、妄想が暴走しちゃって(笑)そういうことになりかねないというかですね。だから、ポイントは創造性というか、クリエイティビティというか、そういうものがどういうふうに、それが神の業に近いようなものであることを、詩や音楽や絵画あるいは工芸品や、あるいは自分の心を修練した結果の美しさから出てくる魂が立ち現れた美、それで創る姿というんですかね。

◇まずは本物を「観て、ある」ことを感じる

そういうものが、やっぱり、経験が、「たしかに、これが芸術だ、アーツだ」というふうなことが、分からないとしょうがないというかですね。その辺りの基準になるような、一つの指標というんですかね、だから、それは今の時代も、そういう色や形や事が、そういうものをまずは、「観て、ある」ということを感じるようなものを、先に、そういうものを伝えるというかですね。

よく骨董品の目利きになるには、その名人になるには、偽物を見せない、必ず世界でも有数のもの、あるいはそう思われている、そういう本物しか見せないと言いますよね。偽物を見せて、「これが、偽物だよ」という教育はしないというかですね。だから、その時に、勘というか、本物か偽物か分かるというかね。

それと同じように、そういうものを、最初から見てもらう聞いてもらうということが、たぶん、教育というか、それをシステム的に教育するんだったら、世界のあるいは、その時代で一番なものを、ずっと連続的に見て感じてもらう、あるいは聞いて体感してもらうということをしないといけないだろうと思うんですけれどもね。だから、その階層性で捉えた時に、どの位置にあるかということが、やっぱり大事なことになるかなと、まずは思うですけれどもね。いかがですか、そういうところで。足りなかったら、また言ってください。

◇見極めて、やりたい気持ちを引き出す技術

今度、「チャイルド・アーツ・アカデミー」という、どっかで聞いたような名前ですね(笑)。今、子供たちに必要な教えるということでのポイントは、子どもたちが、そういうことを知りたい、あるいは掴みたい、表現したいという気持ちを、誘導するというんですか、そういうのが、きっとその子たち自らが掴める理由になると思うんですね。

ですから、誘導してこないと、馬も水飲みたくないのに、いくら水場に行っても、口をつけようとしても飲まないですよね。だから、願いを発するという、そういうことの思いを誘導するのが、たぶん大事なことかなと。それがあって、そこに、一番の良いものを提供するというふうな、そういう開発をしながら。要するに、誘導法を開発しながら、一番良いものだと思えるものを、クリエイティビティというか、そういうものを引き出す技を開発しておくというんですかね。2つというか、重層性であるのかと、教育というのはですね。だから、本物はこうだと押し付けるわけにはいかない。たぶん、こういうものを欲しいのかということを見極めるのも、技術といえば技術だと思うんですよね。

◇神の美意識に繋がる教育

たぶん、心の、魂の技術というところが、特に、アーツになれば、それは良いんじゃないかなと思いますけれども。それは、神というものが、即、降りてこないところだから、難しいところではあると思うんですね。あくまでも、人の持っている美意識というか、あるいは感覚のところに頼らざるをえないところがあるからですね。その感覚を科学しないといけないし、その感覚も元々は神の領域というかですね、そういうものに繋がらないといけないというか、非常に流動的に見えたり、掴んでもらうのは難しいことだと思うんですけれどもね。でも、そのことが、これからの教育の一番、肝要なところになるのではないかなと思うんけれども。

今日は、そんなところで、ありがとうございました。