0350話:2018年02月22日

おはようございます。

今日は、何の日か知ってますか。私の誕生日じゃないですよ(笑)七沢研究所を始め法人のほとんどの設立日に当っています。

◇2月22日は始まりの日

2月22日は、222で好きなんですね。それで始まりの日にしています。今日も大野さんが、始まりの日ですねと言っていましたけどね。瓊瓊杵尊は、天から降りてきて、そして、国を始めるという意味ですが、会社も天から降りてきたような態勢ですね。そういうことで、元々、三大神勅というんですかね、天照大御神から瓊瓊杵尊が授かった教えというんですかね、それに器もついているわけですね。三種の神器ということに繋がりますけどもね。

それを持って、降臨されたそのニニギという音と、言葉の数に合わせて、勝手に想像しています。隻手に片手で音がするかという公案があるけどね、白隠禅師のね。音は片手では、一般的には出ないから、2つを合わせて、結果は一つということですよね。
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隻手音声
「両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」
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それだと天だけの神話で終わってしまう。地があってはじめて合わせるというか意味が出てくるということが、一つ大事な要件、天と地の要件であると。

今、我々は、右旋と左旋が合わさって、一つの命というような言い方をしていますけれど。2になって、その上で一つになるというか、始まりになるというか、これは生命の進化でもそういうことになっていますから、天と地、人と人の二が一つになるという意味があると思います。要するに、人が心を合わせるというような意味合いがあるのではないかと思うんです。社会的な資源からいけば、余計なものを使わないで、自然と一つになっていくというところが、大事なところといいますかね。

きっとロボットなんかでも使えるように、人形ロボットとか作られているということの理由もあると思うんですけれども。我々が、猫の手とは言わないけれども、少なくとも、共にということで、どんどん発展させようとした時には、だんだんと展開が大きくなっている。それが、ある面では、心も物も沢山の人に届けられるんだけれども。それが、会社としてみると、だんだん、みんなの心も散っていくというか、そんなことも起こるわけですね。

◇ネットだけで一人で暮らせてしまう

そういう中で、基本的になるところの対面で共にやっていくというところで、だんだんネット社会ということだと、そういうことがしにくくなっているわけですね。そういう意味での、ネット上での仕事というものが増えくるし、しわ寄せというものも多くなると思うんですけれどもね。スーパーなんかでも、そういう時期がありましたよね。あるいは、販売もどんどん対面販売みたいに、「こういうものです」といって買うことも無くなっていって、Amazonみたいな形にどんどんなっていくわけですね。スーパーも生鮮食料品までも届けてくるような、イオンなんかでもそういうものを始めようとしていますけれどもね。

だんだん、人と人が顔を合わせないで、人と顔を合せてコミュニケーションするということが増えていく(減っていくの間違い?)というかですね。ある面では、自分を閉じ込めても、生きられる社会というのは出来ちゃうわけですね。

今までだったら、山の中に住むということが、一人で暮らすということの代名詞みたいなものであったんですけれども、都会や家の中で、一人でもって暮らせるような、良い面もあるのかもしれませんけれどもね。そういう人達も、元気に生きるということが、普通は社会との関わりがなければ生きられれないということになっちゃうんだけれども。今、そういうことも可能で、もちろん、家族がいなければ出来ないということも、当然なっちゃうんですけれどもね、最終的には。ただ、表向きはネットだけで、顔を合わせないで生きることが可能で。

◇一人で生きるという修行もしてみた

一人で生きるということの修行もしてみたんですね。都会で、全く関係を絶って、電話も出ないというか、止めました。そういう修行もしてみたんですけれどもね。やっぱり、そのうち、都会だからですね、奈良先生の空いた家に住んでいたんですけれども、それが5階だったですが、だんだん、3日4日経ってくると、外を歩いている人の履物に乗って心音が聞こえるようになってですね。それが、限りなく懐かしく聴こえてくる。要するに、一人でいると人の気配が、非常に懐かしくなったこともあるんですけれどもね。それで、1週間位でその行は止めたんですけれどもね。その後、一人ひとりの出会う人の顔が輝いて見えたりしてですね。

そんなことがあったんですけれども、人と人が対面でコミュニケーションするということは、一方では、それが相手の気持が分かってしまうというのと分かり過ぎるくらい分かるような状態だと、今度は避けるということになるんですね。当然に、分かっているから、話さなくてもいいというくらいになったりですね。ここのところが嫌いだから、話したくないとか色々と出てくると思うんです。ただ、相手の気持ちを理解しないということになると、聞けなくなるんですね。相手の言葉が聞けなくなります。そうすると、今後は、「もう分かるか」って、すぐに、避けるようになるんですね。そうなると、脳が脳軟化を起こしますから、どんどん駄目になってくるんですね。どっちに転んでも、難しいというかですね。今、引きこもりが増えているというのは、基本的に、心が敏感な人とか、色々あろうかと思うんで、そういう人たちに聞いてみると、分かるのかもしれませんけれどね。

◇共に笑うこと

知恵や知識を付ければ付けるほど、みんなあるからですね。何も聞かなくても済むという、昔は教育というのは、家の中のお父さん、お爺さんに、分からないことを聞いていくということで始まりますね。親ということも、そういうことから起こったと言いますね。

そういう学びというものが済むと、さきほどいった情緒が、だんだんと学んでいくというか、あまり喜怒哀楽を出さない方が良いか、喜怒哀楽を出すほうが良いか、そんな中で漫才とか落語を聞きに行って、共に笑っているということをしたりする。

それが、病気なんかのときでも、起こるわけですね。病気になると、最後の解決方法の中に、落語を聞いて癌が治るということも、ずいぶんと言われましたけれどもね。今、時代なんかは、一時期の漫才ブームのようなものを求めて、共に、笑うというかですね、そういうことが、必要になる。

私の師匠である奈良先生は、10項目あげて、
一気を長くすること
一悪口を云わぬこと
一心を丸くすること
一迷惑をかけぬこと
一腹を立てぬこと
一人を大きくすること
一我を小さくすること
一因果をあきらめ愚痴を忘れること
一信仰を求め病苦を忘れること
一ともども笑って暮らすこと
というふうな生き方の指針があったんですね。ある面では、神道から出たものが、漫才楽というのがあって、それが漫才の始まりというか、ボケとツッコミではないけど、そういうものが始まったといわれますけれどね。

◇1.2mの間合い

そういう人と人が、共にいるというかですね。だから、全体会議での前後でもって、何日間か、共にコミュニケーションしたほうが良いのではないかという提案をしたんですね。それは、そういうことにも繋がるという、やっぱり、生の言葉で耳朶(じだ)を打つというか、相手の一言を聞いてですね、理解していくということが、どうしても必要になってきたのではないのかなということを感じます。

ニニギというのは、合わせるという、自己の中では、そういう自己が自身を導いてくれること、導かれる人という関係もありましょうけれど。他者と自己というような関係の中で、そういう間合いというんですかね、1番良い間合いを、自覚して、そして、その間合いでいくというか、別に、深入りする必要はないんですけれども、相手にですね。深入りしないで、理解していくということは、心理的にも、健康なことで、だいだい1.2mくらいだと良いんですよね。距離的にも、あんまり近づきすぎても難しいというか、確認する間合いが見えなくなっちゃったり、することがありますけれども。ですから、1.2mくらいの間隔で、話し合いができると1番良いわけですね。祝殿でもって、60人で会議をやったこともありますけれども。だんだん、きつくなると、どうしても笑いを作り出して、その中でもって一緒に笑らわないと場が持たないというか。

笑うというのは、人間だけですね。犬も笑ったような顔しますけれども、本当は笑っていないんですよね。人間の真似をしているだけで、人間だけが笑っていくというか、そういう笑うということができる距離を持つという、そんな確認できるような距離でいくといいのではないかなということで。なんか話が瓊瓊杵尊から、2月22日からえらことになって、すいませんね(笑)そんなことで、どうぞよろしくお願いします。

ありがとうございました。