0353話:2018年02月24日

第七種神拝作法伝授での代表挨拶(後半)

◇六種鎮魂の中にある五魂の旋回

まだまだ、人間が気付いていないもの、進化ということの中で、大きく広がったものが、数の言語と、言葉の言語というのもおかしいですけれども、その言霊というものの中にあって、それが進化したということですね。

ですから、言葉も右旋左旋で、それが意志的に、それが使えて、そして、それで現象さえも変えていくということが可能になるんですね。その働きで元気にさせたりすることが出来るというかね。それが、六種鎮魂の中にある五魂の旋回ですね。商品に心を込める時には手をこすりますし、売買が成立した時には手を打ちますよね。それの1番の元にあるのが、こういう魂の動きの元にある、鎮魂の右旋と左旋なんですね。荒魂、和魂、幸魂、奇魂、精魂と・・・。これが、六種鎮魂なんですね、もう言っちゃうとですね(笑)それも、右旋と左旋で出来てるんですね。非常に、面白いというかですね。

それで、宇宙というものの創造は、それが螺旋になっているかどうか別にして、そういう旋回して、宇宙が広がっているんじゃないのかということが言えるのではないかと思います。宇宙創造の働きが起こった時の姿、あるいは形が、運動の形態を、全ての存在が受けているというか、そういう動きが人間の中にもあるのではないかと。

◇神を、この手にお迎えしましょう

今、人が、宇宙創造の神を、考えるというところまで、人として、神に近づくということをしています。それが今までの宗教やシャーマンや、様々なそういう学びの積み重ねの中から、日本でいうと、1万5000年くらいの縄文期のそういう学びの実証の中から、掴んできた世界が、神の創造の世界というところに、今、来ているというかね。

その神というものを、この自分の手にお迎えして、体感をしましょうということが、現代における白川学といいますか、皇(すめら)の学び、皇学といいますかね。もちろん、概念だけで、骨格だけで言っても、どんな体感なんだろうということですね。江戸時代から、色んな白川のシーンがあるんですけれども、孝明天皇を修行された、高濱清七郎先生は、「神を食うてみよ」ということを言われました。もちろん、食える神様と食えない神様がいるかもしれませんけれどもね(笑)

私も、高濱浩先生から、「神をこの手で掴みたいか」というふうに言われたんですよ。ぜひ、掴ませていただきたいということをお願いして、それで、幸運でしたけれども、毎月甲府にお迎えして、7年間、月に5日くらいは、実地で学びを受けさせていただいたんですね。

今、白川を知っていますという様々な人が世の中に出ています。あっちにもこっちにも白川があるというふうに思われますしょうけれども、正真正銘、この白川学館が、正式な学びを出来るところであると自負はしておりますけれどもね。「なんで、甲府のような田舎でやっているんですか」と、よく聞かれるんですが、今日は東京でもってやっていますけれども。

これは、高濱浩先生が、「甲府で守りなさい」ということを、100年あるいは200年守れということをおっしゃいました。そんな生きていられないのにな、と思ったんですけれども(笑)。先生が亡くなる前の遺言で私が全部教えるからということでしたので、きっと神界にいらっしゃるんでしょうね、そこから全部教えるから、だから、今も見える方もいらっしゃるかもしれませんけれども。ずっと教えると、分からないことがあったら、全部教えるからということですから、私はすごく気楽に、元々、人の前でお話するということは、とても出来ない相談の人間でした。アルコールアレルギーみたいでですね、心臓がバクバクしてですね、とても皆さんの前に立つなんてことは、ましてや、お話するなんてことは、とてもあり得なかったと思うんですね。人とコミュニケーションするということが、非常に難しいことだと思うんですけれどもね。神様とコミュニケーションすること、ましてや、神様を食べちゃうとかですね、この手で掴めなんてね、とてもとても言えないことでありますけれどもね。

◇「神人一如」周りに漂っていただく

最近、七沢家の関係では、歯科医が20人くらいいるんですけれども、その中の治療方法で言っているのは手に神を迎えて、その機械に神を迎えて、その神と共に治りますとか、あるいは、歯も抜くんじゃなくて、上がってこいと言うと、歯も、自ら上がってきて、抜けるんだと。

針の先生方にも、日本で1番の名医は、石原克己先生だと思っていますが、先生も、1mくらいある針を、スイスイ入れるような名人です。その先生も、針そのものが神ですということを、よく言われています。針の神様の名前も、付けられていました。

ちなみに、機械の名前もあるんですね。これも、話し出すと長いから、予告だけしておきますと、天機置師神(あめのはたおかしのかみ)という神様が、機械の神様なんですね。サイバネティックスやITなど、そういう思考する機械も含めて、神様の名前をお付けさせていただきました。

神様を迎えるということについて、普通は神秘主義の思想の中で、神人合一という捉え方が多いんです。そういう捉え方が多いんですね。人が神になるという、分からないから、そういうふうに言っているんだと思うんですけれどもね。実際に、そういうふうに見えるのかもしれませんけれども、大概は、霊といいますかね。より相性のいい周波数帯である、亡くなった人の想いみたいなものが、生きている人と波長を合わすということを、一体だというふうに思い込んでいるのかな、と思うんですけれどもね。神そのものと一体になるわけではないんですね。
もちろん、さきほど言いましたように、遠津御祖神は、自分自身が生きた遠津御祖神でもあるから、一つと言ってもいいのですけれども。それも、自覚するためには、外に遠津御祖神を立てて、そして、それを他覚的にするということをするんですけれども。

要するに、「一体ではなく、一如」というのが正しいですね。「神人一如」というふうな言い方が、1番良いんじゃないのかなと。それは、迎えるということであって、自分の周りに漂っているというようなイメージの方がよろしいのではないのかなと。自分と神が一体という捉え方をする時に、慢心ということが起こるのですかね。共に、漂っていただくという意識で、神をお迎えするということが、わかりやすいことなのではないのかなということをお伝えしたいです。

◇遠津御祖神と一如になると大きな力が発揮される

特に、遠津御祖神を、自分自身が自覚して、お迎えするということになりますと、とてつもない、力がですね、出てくるというか。大体、世の中で、成功するということは、○○家遠津御祖神という、それは仏教や神道のどの教えであろうがですね。少なくとも、先祖、遠津御祖神と一体になるというか、その科学的な根拠もありますから、その場合は、一体とも言えるわけです。

もちろん、毎回毎回、分けて見るという見方をするということで、迎えるということをやりますけれども。基本的に、遠津御祖神と一如になることが出来ると、非常に、大きな能力が発揮されたりします。大体、14代前くらいまでの間で、その家系で1番成功した人の働きと同じような大きな成功を致します。ですから、藤原家なんかは、そういうふうなことで、14代くらいの先を見越して先祖供養を続けていくということが、家訓になっているんですね。もちろん、今は、それを短くしないといけないところもありますから、特に、遠津御祖神をお迎えすることが、1番良いことなのではないかなと。

そういう人と先祖とが、力をいただくということはとてつもない力になるということが、これはどんな場合でも言えると思います。統計学的に調べても全くその通りになるのだと思います。その方法ですよね、少なくとも、そういう14代くらいの中で必ずいらっしゃいます。ビジネス的に成功した人、あるいは学問的に成功した人、芸術で成功した人が必ずいらっしゃいます。そういう人の働きが同じように起こるわけですね。

それは当然、DNAがそういうものがお持ちですから、それはただ普通はDNAの中で隠されているというかですね。それは家という集団から氏族という集団になったり、あるいは結社というような存在になったり、宗教団体になったりしますけれども。そういうものもある面では、そういう力を自分の力に変えていく手法と言っても良いと思いますね。

とりあえず、端的に能力を発揮できるのは、遠津御祖神であるというかですね。もちろん、元気に働いていただく、遠津御祖神の中でも苦しんで亡くなった方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう方には祓い、大祓をあげて差し上げて清めるというかですね、それによって満足していただき、それでその働きを力づけていただくということができるわけですね。これは欲というのか、私的な、利己的なように聞こえる場合もありますから、これ以上は言いませんけれども(笑)
少なくともそういうことを通じて、遠津御祖神と一如ということを自覚して、祓いと鎮魂をいたしますと、良い結果が表れるということは言えると思います。

◇白川は中取り持ちをする役

その辺りは宗教も色々とうまくできないと苦しんだわけです。逆に言うと、それで今までしていた祀り方は駄目だから、私の祀り方をしなさいというようなこともありました。

白川は白川の祀り方でありますけれども、それをことさら、これが良いからやりなさいというようなことは、宗教になりますから、全く言いませんけれどもね。そういう祀り方もあります。

とにかく、自分自身の外側に一旦迎えて、そこからお出ましいただくというのか、そういう奥ゆかしいというものが白川の神道にはあるのですけれども。これから明治神宮にお参りにいくということでは、明治神宮に祀られている明治天皇に直接、自分がお目通りしますというわけにはいかないんですね。

本来は彦幸神とか、手置帆負神(たおきほおいのかみ)とかですね、一旦、祀られている神に繋げてくださる神様にお願いして、ですから、鳥居の前でまずはその神様ですね、彦幸の神様、手置帆負神どうか祀られている神様に繋げてください、中取り持ちをしてください、という祈りをするわけです。そこのところだけ利用したのが、ちょっと言っていいのか分かりませんけれども、お狐さんのような存在もありますけれどもね。それは私が繋げてあげますよ、神様に願い事を繋げてあげますよ、ということで油揚げをいただいちゃおうということが習わしになって、一種の稲荷講というものが出てくるわけですね。ですから、元々、稲荷の系統というのは、純粋な古神道ではないんですね。取次役みたいなものですね。

イエスは、そのようなことを怒りましたね。神前に今の為替相場のようなことをしたことに・・・。お金を一旦、木にしてお供えしなさいということで、そのお金を取ってしまう人がいて、それを怒ったわけですね。

私は3日で神殿を建て替えられるからということも言いましたけれども。中取り持ちをする働きというものが、白川では本来あるんですね。これは天皇に神様とつなげる役、中取り持ちをする役、それが大中臣、中臣、白川だったんですね。天皇に神を迎えていただけるようにするのが臣の役割だったんですね。神、君、臣、民、忌というように・・・。

これは階層ではないのですが、ミッションによって、そういうことがありました。そういう意味の白川の仕事というものが神というものに繋げて差し上げるというかね、そういう役割というか、作法というものが最初にあって、その最初の入門が七種ということで、天津神、国津神、遠津御祖神、産霊幸倍神というような祀り方をしますよ、ということですね。

◇まずは自分自身を社として・・・

ですから、まずは自分自身を社として神をお迎えする方法をお伝えするというのが白川なんですね。「草も木も人もなおさら真砂まで神の社と知る人ぞ神」という高濱清七郎先生の和歌がありますけれども、そういうお迎えするということの自分自身が社になって、お迎えするという方法が七種からあるんですよ、ということですね。

ですから、最初の柏手は後ろ手で打つという最初の作法が自分自身に打つということをするわけですね。こういう後ろ手で打つというのは、我々は生きた先祖である、その神の迎え方を皆さんにお教えする、それが日本の中では吉田家というものもありましたが、国の1つの省庁の役割としてあったのが、神祇官、神祇省というものですね。

国がそういうことをお教えする、それで神官の皆さんにGHQが神道指令を出して、みんな宗教にしてしまったのですが、本来は国の教え、国の教えが宗教ではないのが、日本の神道という教えだと思います。それをもう一度、戦後70年経っても、もう一度、お教えしようというのが白川のミッションであると思っています。

◇白川をお伝えすることができる時代になった

それを皆様方にお伝えするということができる時代になったということですね。江戸時代の新宗教でも、結局、白川を学ぶということでも、民衆の方にいく場合と、公家の方に教えを広める場合と、どうしても分かれてしまったというかですね。今はそれが全ての人々にではないのかなと思います。ですから、色々な学び方、広がり方があろうかと思いますけれども、人種を超えて必要な教えになりうるのではないのかなということを含めて、今、様々な伝承方法を考えさせていただいております。

日本特有なものということではなくて、1万5千年という時間を共栄できた民族というか、中心にある文明というか、教えが古神道であり、天皇制であり、言霊であり、白川であり、鎮魂だということが明確になってくると思いますので、これから皆様方にまずはお教えさせていただき、問題があるかどうかということを、もし感じられましたらお伝えいただければよろしいのではないのかなと思います。話しがまた長くなってしまいましたけれども(笑)。

公家の作法の代表的なところが白川の神拝作法ですね。作法には武家の作法と公家の作法というのがあるわけですね。公家の作法の代表的なものが、白川の神拝作法であり、それが七種入門としてお伝えして、今日はさせていただきたいと思っています。