0365話:2018年03月06日

おはようございます。
昨日は、ご苦労様でございました。新しい出発ができたかなと思っております。

◇大祓という神輿を担いでいる

初国は、小さき国であったという、出雲風土記の話を最初にしました。政府でも、小さい政府にしようという動きがあったわけです。出雲の国が、次第に大きくなって、大国主になったということをお話しました。その一番小さい国であっても、最初の理念が、旧約聖書でいうと、モーセが十戒をもらって、それをずっと柩(ひつぎ)にいれて担いで、民族が生きる縁(よすが)にするという・・・。
北朝鮮なんかでも、主体思想という哲学でもって生きています。独裁的なところもあるのかもしれませんけれども、洗脳かどうかは知りませんが、一つの決めた理念に基いて、理不尽な部分も沢山あるんですが、どんなに貧しくても生きるということをやっているわけです。まさに、ユダヤの民も、砂漠を40年もさまよい歩いて、1番良い場所を探すわけですね。そういうことをやるということですね。
では、日本は、どうしたのだろうと考えた時に、色々とあるでしょうが、端的に言うと、この大祓が、神のくだされた一つ生き方、宣命としてあるのではないかと。それを、神輿に担いでいるのと同じことだと。
よく比較されるところですが、ユダヤの民が日本に来たと言われることもあります。そういうこともあるのかもしれませんが・・・。少なくとも、それらは、非常に似ているものじゃないのかなと。そして、同じ部分もありますが、より精緻に作られたのが、日本の大祓であり、宣命であると。
今、我々、みんなで、その宣命を、朝から唱えて、しかもそれが、一つの神輿を担いでいるように見えたというかですね、幻覚かもしれませんが(笑)それを携えて生きるということしているのではないのかと。そういう理念というものが、日本の長い伝統を支えているといいますかね。
また、時代によって、あるいは、神代によって、シャーマンよって、もたらされたものの中身は、若干違います。縄文、あるいはアイヌ、あるいは出雲、大和王権の時もあったでしょう。ラグビーのパスのように、繋げてきたものが、現代に残っているものです。色んな神社が伝えてきていますが、若干、神社によって違います。例えば、熊野大社の大祓とか、和歌山の一宮の日前神宮(ひのくまじんぐう)などですね。そして、それらが、日本の1番の古典であることは、間違いないです。

◇父韻と母音が明確に分かれている

また、白川の大祓は、非常に美しくなっている部分もあります。しかし、「母と子と犯し子と母と犯し畜犯せる罪」という部分が、ちょっとおぞましいなどの理由から、江戸時代に、祝詞から取ってしまった教団もあるんです。今のこの時代になって考えますと、牽強付会といいますか、取ってつけたような話として、捉えることもできますが・・・。
母音と子音を取ってしまうこと自体が、少なくとも言霊学的には、母と子を犯せる罪というところにも繋がっています。そういうことを理解できるような文脈にも、今の時代の中ではなっているのではないかなと感じるんですね。
以前も少し言いましたが、私は、神はアルファであり、オメガであると。これは、アルファとオメガというのはギリシャ語ですから、分かりませんが、古代アラム語などで、たぶん、アルファベットの最初と最後ということでしょうね。
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新約聖書ヨハネ黙示録の21章6節
そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
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言霊的にいうと、アルファベットの全ては、子音と母音が入っていて、ごちゃ混ぜになっているのではないかと思うわけですね。神様を非難しているわけではなくて、ヘブライズムの神というのは、アルファでありオメガであると。「父なる神」といっていますが、文脈の中で、A~Zまでの中で、父韻と母音を分けないといけない。ですから、母音の固有振動数と、父韻の固有振動数を分けないと、言語というものが分からないように、出来ているのではないかと感じる次第なんです。
ですから、日本語は、父韻と母音に明確に分かれているのが、明治4年にローマナイズしたヘボンが、初めて翻訳した時に、日本語の50音を、ローマ字ではっきりと分けたときに分かったわけですね。そういうものも含めた神が、白川のお祓いの捉え方といってもいいんじゃないかと。

◇外から迎えるという必然

確かに、おぞましいと捉える節もあります。ただ、過去から見れば、人類というものは、当然、近親婚によって、広がるしかない時期もあります。この近くの縄文遺跡から出た土偶を、精神科医や考古学者の方々と調べたこともありました。そうすると、先天性異常の疾患、特に、精神疾患を治そうとして、土偶になっているものが、釈迦堂遺跡なんかには、大量にあったんですね。
なので、マレビトというんですかね、外から来る人を大切するというか、それによって、今の言い方でいうと、遺伝子を正常にするということを、非常に熱心にやっていたということがあるわけです。ある面では、沢山の人を外から迎えるという必然でもあったんだと思うわけですね。ただ、王家を守るために、近親婚をしないといけない状況にある、王族たちは、それによって、天才も出来ますが、非常に苦しい所もあったわけです。エジプトとか、各古い王家は、みんなそうですね。そういう過去を含めて、祓うという意味で、大祓をすることの意義があると。

◇過去も未来も、何度でもお祓いするという覚悟

今の時代に言うのは何ですが、時空間を超えて、未然形の祓いもしますが、過去も祓う。この今で、過去も未来も祓うことで、中今が平安清明な状態に保てると。そういう時間の使い方ということです。
これまで、よく神道を知っていらっしゃる方の中で、この部分をあげていることを嫌がって、だんだんと来なくなった有名人でもいます。しかし、あえて、それらも含めて、世界の初めから終わりまでの間にあるのを、もし、人間が神に似せてあり、神の意を汲んで祓いをするとすれば、それは、やはり、今の段階でも、何度でも、お祓いするんだという覚悟を持つことが肝心です。
ですから、神道も、清いということを、徹底すると、だいたい、神経症になります。ずっと、手を洗い続けることになります。特に、長く神道をやっておられるような家系の中には、潔癖症の方が沢山いらっしゃるんですね。そして、嫌な言葉を聞くのも、嫌だということになるんですね。もちろん、私も、そういう時代もありました。それによって、嫌な言葉を聞くということが出来なくなって、次第に、人の気持ちを聞くことが出来なくなってしまうような状態になってしまうと。そんな状態では、解決がつかないということになるんです。

◇「剃刀の刃の上を行く道でもある」

清浄であるということは良い反面と、穢れを拒否して、二項対立に陥ってしますということも出てくるということです。ですから、そういうことを超えて、この道というものを行くというのが、ある面では、「剃刀の刃の上を行く道でもある」ということは、よく分かるんです。
非常に、難しい。中道というんですかね。中今を生きる生き方というのは、難しいと思います。少なくとも、両極端に走ることなく、その働きを十分に見つめていくということ。その時に、毎日、大祓をするということの中で、その意義を見つけるというか。民族としての理念を、そこに見つけて、そして、それを我道として行く。そういうものが、これからも、まだ必要なのではないかなと。
今日は、一緒にお祓いをさせていただいて、契約の柩を神輿で担いでいるように、大祓が一つの伴奏として動いているような印象を受けたという話でございます。
今日はありがとうございました。