0366話:2018年03月07日

おはようございます。
何か質問はありますか?

●Sさん
昨日、ロゴストンセンターのお掃除を、数名の方とお掃除をさせていただきました。事前に、賢治先生に掃除の仕方などについてのお話も伺って、お掃除をしてみると、ロゴストンセンターと同化したような、一緒になったような感じなりました。私は掃除できて「あ、ラッキーだったな。」と思えました。掃除に関してのお話をお聞かせいただけたらと思います。

【七沢代表】

◇瀬織津姫の神様のお働き

お掃除だけで、大企業になった会社が、何社もありますから。お掃除の神様、仏様をしっかりお迎えすると、だいたい、大企業になるんですね。お掃除の神様は、仏教でいうと、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という、全ての修行者の心をきれいにするという意味のお掃除の菩薩様ですね。白川では、瀬織津姫を中心にした、祓戸四柱の神様があるわけです。
その祓戸四柱の神様を、宝塚歌劇団にお伝えしたのが、中村新子先生ですね。宝塚の校長先生や阪急百貨店を創業した、小林一三さんにも、お伝えされておられました。あと、小林一三さんは、山梨県出身ですが、その方の姪御さんが、Yさんのお祖母様でした。なので、そのYさんは、お婆さまが、六種鎮魂作法をやっていたということを覚えていて、同じことを白川で行っていたので、気がついて、びっくりされたわけです。阪急の小林一三さんが、その技を伝えていたんですね。そのお祖母様は、山梨英和大学というところで、89歳まで理事長をされていた方でした。先日、そのご子息で、全員が有名な物理学者である「物理学三兄弟」のお父さんにあたる方が、家に来られました。
宝塚歌劇にお伝えしたのも、瀬織津姫の神様のお働きですね。これは、雑巾に当たるようなものです。そして、お掃除が終わった後、必ず水で雑巾をきれいに洗いますよね。その時に、瀬織津姫と雑巾に感謝して、洗うということですね。
今、ちょうど、「水玉(みたま)石鹸みそそぎ」も出ましたからね。化粧品とかもそうですが、最初は、石鹸の事業が成功すると、大きな企業となるんですね。一つの事業で、目を見張る規模になります。
本当は、水(みず)石鹸と言っているですけれどもね。洗うということ、清めるということの1番元にあるのが、石鹸であり、水でありということです。そして、それが、瀬織津姫の神という強い働きの神様であるということです。

◇1点の曇りもない綺麗な玉の存在になる

生前に、高濱先生は、「鏡も綺麗に磨かれた鏡だったら、たった1つのチリ、ホコリでも気になるから、五魂も、そのように磨くんですよ」と、よくおっしゃっていました。
祓いの言葉も、絶えず、自分自身に向かって、ちょうど磨くようなものですね。ですから、大祓の祓戸四柱の神様、あるいは、底筒男命、中筒男命、上筒男命という、水や海の神様、あるいは、下津、中津、上津と3つに分けて祓う、それは、川でも海でも、あるいは、言葉でも、一点の曇もないように祓うということですね。ですから、心に曇りが生じる時とは、色んなチリというか、ホコリというか。まあ、自分の誇りが、ホコリの祓う対象になることもありますが(笑)
要するに、魂に付着する、付着物を綺麗にすすぐということになるわけです。ですから、古代日本では、1点の曇りもないということを、魂(たま)と魂(たましい)で分けたんですね。「玉らしい」ではなくて、たま、綺麗な玉の存在になるというか。

◇三種の神器に込められた気概

ですから、ここにある鏡も玉も、ミクロン単位で磨かれたものです。昔は、ガラスのレンズを手で磨いた職人さん達は、ミクロン単位で分かったそうですね。もちろん、チリやほこりなど付いていれば、すぐ分かると。
もちろん、太刀なんかでも、そうですね。刃毀れが1つもないというか。今回の稀勢の里の太刀なんかは、宇宙のそのままの姿が出てきていました。太刀は、最後の工程で、研ぎに出して、鞘の中に収めます。その研ぎで、全く、曇りのないものにするということですね。
三種の神器とは、器の教えですが、それは綺麗にした、本来の五魂の姿で、神という存在を迎える気概というか姿であるということですね。人間が、三種の神器のように、自分自身がなって、一点の曇もない状態になって、神を迎えることができれば、それが1番心地が良くて、強いものであると。そういう器の教えとして、飾ってありますが、これを目標にして、自分自身も清まろうとする意味、意志が、この神器の中に込められているのではないのかなと。

◇「庭の草取りをしてみなさい」

そういう面で言うと、今日も、外で、料理人のYさんが、雑草を取りやすくするために、土を柔らかくするように、土を返されていました。
35年前に、私は、東京から甲府に、親父が家を建ててくれたから引越して、こちらで仕事をしようかと考えていました。その時に、戯れにというか、「お百姓さんでも、しようかな」と親父に言ったことがあったんですよ。すると、親父が、じゃあ、「庭の草取りをしてみなさい」と言われたので、私は、すぐに、草取り機でもってやろうとしたんです。それで、「お前はダメだと、お百姓にはなれない」と(笑)「一つひとつ丁寧に、草を抜くというか、庭の全ての雑草を一本一本、抜く精神でないと、お百姓さん出来ませんよ」ということを言われて、それで、ソフトウエアの開発に加わることになったんです。
ただ、そこでも、また、プログラムのバグというのは、一つひとつ取らないといけないということが分かって、そっちもなかなか出来ない(笑)大雑把な性格なもんですから、そういう意味ではダメかなと思うこともあったんですが・・・。

◇磨く、綺麗にするという日本の伝統

ただ、洗濯物でも綺麗に干しておくと、その洗濯物が、雨が降る時には教えてくれるんですね。大学の頃、精魂込めて洗濯物を洗い干して、昼寝をきめこんでいると、「雨が降るから、取り込んでくれ」と、下着に起こされるんですね(笑)神経症になることはないんですけれども、祓い清めると、物との良い関係になれるというか。
少なくとも、磨くというか、綺麗にするというのが、日本の高砂のお爺とお婆が、箒と熊手を持っている姿が、1つの理想の姿ですが、それも掃除の教えの姿であるわけです。
そういうことが、日本の伝統ということではないかと思うんです。ですから、魂を磨いて心地よいということですね。豚さんも、本当は、綺麗好きと言われているわけです。冬場、温かい牛の糞を敷き詰めたところに、豚を飼ったりする方法もありますが、その内の何頭かは、病気になってしまうんですね。
そういうこともありますから、綺麗なところというのは、1つの大事なことではないのなというふうに思います。掃除する、綺麗にするということが、心地よくて、それらがまた、自分自身を磨くことにも繋がれば、一周して元気になれるのではないかなと思います。
今日は、そういうことで、よろしくお願いいたします。