0370話:2018年03月13日

おはようございます。
何かご質問ありますか?

●Iさん
昨日のお祓いの時に、いわゆる、「報いる」という言葉について、とても考えることがありました。報いるとか、報われるとか、報いを受けるとか、そういったものについてです。また、ちょうど今日も、構文を書くことなどの動画中継があるんですけれども、その書き方で、短文で終わらせるというやり方にも、この報いるということが繋がってきました。構文で、「何かをして、こうなった」と書いてしまうと、ちょっとおかしなことになるといいますか、線形で繋がってしまって、それ以外のものが、ならないということになってしまうので・・・。
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単純に、◯○をした。
最適に◯○した。
◯○をした。
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というふうに、短文にしておくということです。そして、そこで報いるという言葉が、私の中で出てきたんですけれども。例えば、この祝殿の中でお祓いをあげられること自体が物凄いことですし、有り難いことではあるんですが、そういう瞬間瞬間で色々と報いられるというかですね。
「これをして、これが還ってくる。これをして、これが還ってくる。」というふうに考えていくと、とてもつまらなくなってしまうといいますか・・・。ですから、恐らく、私は、何かをして、何かを得るというようなモデルを描いていたということに気付きました。
私が会津人だから、何というか、旧体制に義理を持ってしまうという、お国柄もあるかもしれないですけれども(笑)そういうことで、報いるということに関して、因果関係とかいうものもありますけれども、そういったものについて、何かお言葉をいただければ有り難いと思っております。

【七沢代表】

◇まず、どの階層かを捉える

まず、重層構造でも、色んな階層があるんです。要するに、情緒の中でも、どの位置にあるのか、あるいは、報いるということでも、それが、どの階層かということを捉えないと、なかなか特定できません。
ただ、報いるということは、一種の宗教的な感覚のところがあります。なので、そういう宗教的な目で見る、または感情で捉えたものなのか、あるいは、論理的に因果関係からなるものなのか、あるいは、身体感覚として感じられるものなのか、あるいは直感によるものなのか。因果関係でも科学的に良いか悪いかあるし、科学的の中でも論理的、哲学的な捉え方での良いか悪いか、感情的に良いか悪いか、直感だとなかなか説明できないけれども、それが良いか悪いかとかですね。
ですから、生きている判断の中で、どれを中心にしているのかということです。芸術なんかは、ある面で直感でそれを掴もうとするわけです。あるいは、神の世界では、それが良い悪いということの自由性があると思うんですね。狂津を狂津日に変えるというようなこともあるので、神を迎えることは、ある種、自由性・自在性があると言えるかと思います。

◇「報恩感謝」

報いということの一種の典型的な事例は、真宗という親鸞さんの教義の中では、「報恩感謝」ということで表されています。全て、世にある出来事、存在していること、生きているということ自体が、既に素晴らしいことである、つまり、恩があると。だから、その恩に報いるということですね。そういう意味の報恩ということが、日本では進化したというか、そういう情緒の持ち方の1つとして浸透しました。それに、有り難い、感謝という言葉がくっついているわけです。
報いるという言葉が1番ピッタリ来るのが、神に感謝するということが、報いるということに繋がるという意味でできているということですね。だから、報いるということと感謝ということが、殆ど一体の世界があるということです。これは、存在ということを、せしめられているというか、つまり、自我だけで、生きているという感覚ではないということです。必ず、自分以外の存在によって、生かされているという感覚から、恩を感じるということに繋がるということですね。
具体的にいえば、赤ちゃんは、お母さんやお父さんのように育てる人がいないと生きられないので、まずは両親への恩ということを言うわけですね。そして、次は、社会への恩という言い方をしたり、あるいは、自然という存在があるから生きられるんだと。
そういうことで、私の恩師の奈良毅先生は、「天地(あめつち)に生かされてあり、この我は、生かしてもあり、この天地を」という短歌を作られたこともあるんですね。それが、神に生かされている存在としての自己を古神道では、自分以外の全てを神とするという捉え方になるわけです。そうすると、今度は、その神を哲学的にいうと、存在しているということ自体が、稀有な、あり得ないようなことなんだということになります。

◇この宇宙は稀有な存在

宇宙も、よく事例にあげるのは、この存在している宇宙とは、1/fのゆらぎで、たまたま連続できているというか、138億年という幅で、存在しています。そして、この宇宙が存在しているお蔭で、我々があるといいますか。
この宇宙以外は、存在出来ていません。なので、この宇宙は、稀有な存在というか、今までに色んな宇宙が次々に創成され、でき上がるんだけども、殆ど継続ができず、1/fの存在のゆらぎに上手く乗らなかったんですね。それは、創造の神が悪いんじゃないのかという穿った見方もできるけれども(笑)
そういう意味で、この宇宙は、稀な宇宙なんだと。それ自体が、とてつもない感謝というか、奇跡が起こっているというふうに、捉えることも出来ると思います。宇宙創造の時から138億年を経過しても、なお存在している。なので、絶えず、この宇宙が消えてしまうのではないかという杞憂(きゆう)の捉えた方もあるわけですが。
そこまで、神あるいは仏という存在を、この宇宙を創ってくれた神あるいは、この宇宙が盧遮那仏という仏の身体そのものだという捉えた方も出来るわけですけれども。そういう中で、存在できているということを喜ぶという世界が一方ではあると。
ただ、今までは、これが信仰の世界にだけあって、科学ではないし芸術でもないわけです。殆ど信仰ということを通じて、陶冶(とうや)された世界だったのかもしれません。
ただ、少なくとも自分の中にある自我というもののが、それを存在させている宇宙とどう関わるかということからが情緒の始まりというかですね。
もちろん、自分の先祖を通じて、そのことを感じるというか、父母、祖父母、曽祖父母、高祖父母という、自分まで命を繋げてくれた存在に対する感謝ということもあります。白川でいうと遠津御祖神、そして、自然という五行の神ですね。

◇言葉の恩恵を感謝する

そして、社会あるいは、我々に言葉を通して、自己自身を自覚するということを可能にしてくれている言語というものと、それをもたらされたということに対する感謝を、白川では、一二三祝詞で3回お祓いをあげることで、その感謝をするということをするわけです。言葉というものから、代表的な恩恵を受けているもので、そのことに対して感謝するというか、報いるということですね。
結局、それが、我々が作っているロゴストロンという1つの形になっているわけです。ただ、その作られ方が、ただ心地よいというところから、あるいは、直感で感じる詩のような和歌のような世界から、あるいは、その存在を神と見立てて、それを検証するという捉えた方から、どの階層からかということが重要といいますか。
報いる際に、特に、自分自身を主体とする、あるいは、客体とするのか、客体でも主体を生かしてる存在とするのか。そういう変化を、自分の中で作りながら、そのことを確認していくという作業が、最初に、言葉で行うんだと思うんですね。そのことが、唯一、1番大事なこといいますか。

◇有り難いという感情に還ってくる

宇宙の中で、そのままで生きているのであれば、あまり、そういうことは感じないんでしょうけれども、人間というのは、人工というのか、客観視する能力をいただいたことによって、そのことが可能になったし、それを更に広げていくことが可能になった存在であると。そういう意味の報いることの代表的な感情が、感謝に繋がるということになります。
感謝するということで、病気自体の不都合なところが治ったり、あるいは感謝の中から、本来の法則というものが出てきたりします。そして、感情として、有り難いというところに還ってくるという階層性の中で、それを掴むということが階層のど真ん中にあるのかが、報いる、あるいは、感謝するという情緒のところに落ち着くというんですかね。
存在としての宇宙に報いる、感謝するという感情に気付き、引き出すことが、自我が自己存在に共に生きていてくれてありがとうという情緒に繋がる。その上で自己に、神を迎えることになれば良いというかね。
今日は、そんなところにいたします。
ありがとうございました。