0373話:2018年03月15日

おはようございます。
何か質問はありますか?

●Kさん
今日は、昨日のお話を受けて、私も席をいつも使っている席から移動して祓いをあげて、違う感覚はありました。ただ、新しい刺激を受けないと慢心するというか、脳が慣れていくというお話も聞いたと思います。なので、その辺りのことで、先生が留意されていることなど何かあれば、伺いたいです。

【七沢代表】

◇新しい地球という概念

まあ、慢心なんて、あんまり気にしなくていいですよ(笑)だいたい慢心するなんて大変難しいことですから。ただ、今日、お祓いの中で、気が付いたことをお話いたします。
我々が、甲府に集まって何をやっているかというと、だいぶ新しいことをやっているように思うんです。そこが、楽しいとか、粋に感じるとかですね。新しいということは、色んなことが考えられると思うんです。
武者小路実篤という、非常に人格者の小説家がいて、白樺派を始めた人でもあって、山梨にも、白樺派の美術館もありますが。その方が、「新しき村」という概念を提唱して、村作りを始めたことがありました。それは芸術から来たもので、中には空想的な部分も入っていたんでしょう。
ただ、社会革命、あるいは、戦争で、王権や民族の体制が変わった時には、必ず新しい概念を作らないといけないということが出てくると思うんです。そういう意味で、今を見ると、人類そのものが、新しい村ではなくて、新しい地球という概念を作らないといけないようなところに入ってきていると思います。その為のあらゆる政治や経済や宗教などが、ある面ではリセットしないといけないようなところに来ています。
幸い、我々も、1番古い、古神道を見習って、もう1度考えてみようというところで、「イソノミヤ」という概念を提唱していますよね。あるいは、宇宙創造に見立てた時に、その概念を「布斗麻邇」というんだったら、それに基いて、人類が生きるということの新しい体制をやってみようということですね。新しいということを、標榜してやるということは、歴史の中でも、実は、非常に少ないです。古いものは、逆言えば、少ないということですね。

◇新しいパラダイム

今回の対馬栄逸さんご著書「聖書は我にかく語りき」(和器出版刊行)が出来ましたので、皆さんにも読んでもらいたいんですね。聖書が何を、私に語っているんだろうと。
その時に、モーセもエジプトから出た後、カナンの地で新しい世界に行き着きました。それは、奪うための土地ではなくて、自分達が始めてみる、ユダヤの民の始まりをやってみたいということですよね。それをモーセはできなかったんですが、歴史の中で新しいことをやるということは少ないんです。たいがいは、前のものを滅ぼしたりする、革命というもので起こっています。なので、非常に新しいパラダイム(枠組み)にするということは、難しいです。
けれども、パラダイム・シフトというか、枠組みが変わる時に、どういう生き方をするかというのは、非常に難しい問題があると思うんですよ。どこに座ったら、1番良いかというのは、ある種、1つの模索かもしれませんが(笑)それは、悪くはないと思うんですけれどもね。
その話を口実にして、今、話をしているところもありますが、我々がしようとしていることの中に、沢山の新しいことがあるんですね。そこは、人後に落ちないというか。それを今後は、更に、効率的に進めるということをやらなければいけないという段階にあります。
大変なことではあると思うんですが。そういう新しいところに行くときの自分の能力の発揮の仕方といいますか、そういうものは、既存の自分の生き方とは、だいぶ違っていることが多いと思うんですね。

◇融通無碍にいろいろ試してみる

今までの自分の生き方というのは、ある面では、沢山ある内の1つかもしれません。今までの生き方を含んで生きるということは、ある種、能力を発揮する場というものがありますから、それはそれで出来ると思います。
全く新しいということをやろうという時には、やはり、皆、平等に、その新しい場に入ってくることになります。その時、1番能力を発揮しやすい、自己自身の在り様というか覚悟を持って、フレキシビリティ(融通無碍)に生きるということですね。
だから、新しい場というのは、ある面では、旧来のものが通用しないということになるんですけれども、なかなか、今までの自分の生き方を捨て難いわけです・・・。捨てると掴むというと、宗教的な意味もあるから、良し悪しはあるんですが。少なくとも新しい場で何かを掴むということは、既存の発想というものでは、掴み難いです。フレキシビリティということは、ある面では、自分で色んな方法を出してみるということですね。

新しい場にピッタリと合う生き方を見つけるために、色々と工夫をしてみるということです。それが、間違っているとか、あるいは、恥ずかしいとかではなくて、次々に、手を出したり足を出したりして、ある面では、藻掻くというようなことにもなるかもしれませんが、それでも良いんじゃないかと思うんですね。
どれが良いということが、まだ決まらない段階でもあるわけです。なので、自由に色々と言ってみたり、出してみたりして、それがどういう形で、新しい場に乗るかは、あるいは、乗らないかは、後で分かることだと思うんです。
試すたびに、1つの1つに反応が出てくるから、そのことを自分が知ることが出来るということです。だから、融通無碍に、自分が何かをやる時に、恥ずかしいとか、嫌だとかの感情的になったり、あるいは、身体が付いていかなかったり、あるいは、思考が回らなかったりとか、色んなことが出てくると思います。
ただ、その時に、自分自身が、自分の出し方を止めてしまったら、それで、意識進化が終ってしまうと・・・。たぶん、こういう時代に、1番自分に合う、あるいは、もちろん、それが社会の新しい形に合うものを掴むという時は、やはり、相当色んな手出しをしないと、自分が気付けないように思うんですね。
ですから、たぶん、ここに来られた方でも、今まで1つのことしか経験しない人と、色んなことを経験して、色んな考え方をやってきた人と両極端の方々がいらっしゃろうかと思います。そういう中で、1番時代に合って、新しい時代の意識進化を標榜するような、そういうところで、自分の才能を発揮しようということは、やはり相当色んな見方や考え方を
出来るようにするために、色んな角度、あるいは色んな場所から、捉えてみるということをするということです。
ですから、自分が自分で1つのことを決める。これでいくという決意が出来るということは、たぶん、それは、新しい時代に行こうという決意は、早く定まった方が良いと思います。その上で、色々とやってみると、試行錯誤してみる。そういう意味で、皆さん同士が、それをやってみるということが、1番役立つのではないかなと思います。

◇1つの能力として指導意志を観る

結局、霊の問題も色々とやりましたが、霊とは指導意志で、その意志に則って自分の生き方を決めるというのは、良い面もあるけど、それで1つ決まってしまうから、それ以外のことを考えたり、他の指導意志を拘泥(こうでい)することができなくなる。そういう意味の不都合もあるということですね。
本当に、自分のしたいことが、どういうものなのかということを、具体的に、知るということは、この時代において、公ということに繋がることではなのかなと思うんですね。その上で、自分自身が、より社会の役に立つかということが、結果的に出てきます。それには、また、1つひとつの指導意志が、存在しているんだと思うんですね。
だから、ある1つの指導意志だけを決めて、生きるのではなくて、1つの能力の一部としての指導意志と観て、客観視する。そして、それを唯一の方法論にしないということが、たぶん1番自分自身の能力を発揮できるところに行くことになると。1つに選ぶということが、1つの囚われというか、それが霊と言っても良いんじゃないのかなと思うんですね。
そういう指導意志というものに捕らわれないで、指導意志があるということは確認して、その時その時で役に立っていただくということをしながら、社会のより良い目的のために役立てるという方向でいければ、日々の試行錯誤が良い結果を生むことになるのではないかということを感じました。
何か質問と全然違うけど(笑)ごめんなさいね。今日は、そんなことを感じました。
ありがとうございました。