0374話:2018年03月16日

おはようございます。
何か質問はありますか?

●Tさん
昨日の、はふりめくでありました「指導意志」について、もう一度詳しくお聞かせいただけたら嬉しく思います。

【七沢代表】

◇ひとつの意志が失敗したら、次の意志に変わろう

それでは、昨日の続きですね。指導意志というのは、その時には一つなんですね。一つの指導意志で一つの行動がなされるわけだけれども。
ところが、統合不全の病気になった場合では激しく人格が入れ替わったように意識が動くわけですね。心理カウンセラーとして色々携わったことがあるんですけれど。二重人格どころではないんですね。たくさんの人格が代わる代わる入れ替わって、わーっと動いて、それぞれの意志を出すんですね。どうも、人間は、普通、この意志を使って、こういうふうに生きようと決めて、あるいはこうしようとして行動するわけです。
大体一つの意志で、行動した後、その方法が間違っていた、愕然としたり、くしゅんとなったり、あるいは何でそんな自分になったんだろうとすごく自己嫌悪に陥ったり、色々な感情というか、症状なりが出てくるんだけれど。
その時に自己内での対応の仕方ということですね、次の同じように二項対立的な意志を迎えると、自己の中で喧嘩を始めるわけですね。ですからそういう状態を目くそが鼻くそを笑うというかですね(笑)ひとつの同じ地平の中で、ああでもないこうでもないということで、争いが起こって、自分の中でもって、それが争いをするわけですね。その結果自身が疲れるということがあるんだけれども。
要するに、ひとつの意志が失敗したらですね、次の意志に変わろうというかですね、それが拮抗すると、もっと強い援軍を迎えようとしたりして、手立てを働かすわけですね。より強いものを求めてですね。

◇強い働きを呼び込もうとする

ですから、そういう子供のうちは、武術や武道ではないけれど、強くなければしょうがないから、より強いひとつの働きをする意志というんですかね、自分で掴もうとするというかですね、呼び込もうとする、そういうことをするんですね。
だから、ものすごく頭の良いということであれば、一生懸命勉強したりするんだけれど、そういう勉強しようとする意志も、どういう意識かというと、勝ちたいとか負けたくないとか、自分は人を見下したり、あるいは上位に立ちたいとかですね、競うということで、それは悪くはないんですね。
勉強することにも指導意志ということでの場合には悪くはないんだけれど、結局それは、そういうものを霊というふうに呼ぶと、指導意志というものを霊と言ったときに、昔はそれを天狗の霊というふうに言ったりしたんですね。自分はどうだ!すごいだろう!と言って鼻高々になるというのは、子供の頃はまだしも、大人になってからは、ちょっと恥ずかしいですね。
また、修行者に当てはめると、自分はこんなにすごい修行が、山から飛び降りたりね、舞い上がったりして、得意気になることかな。それを視霊者(指導意志を何かの姿として見えてしまう人)が天狗と言う。そういう他にない能力を身につけるということで自分を優位に立たせるというようなことで、ひとつの指導意志を霊と呼ぶというようなことが起こるんですね。ほとんどの場合が、何かしらの、そういう指導意志であり、それを霊と呼んでいたわけですね。
そういうものを全て意味がないというふうに言ってですね、自分がだから逆にどうしようもない人間なんだと一生懸命、修行するという方法もあるんですね。それは、一種の退行法の修行をするわけですね。だから罪人であるとか、自分は本当に取るに足りない存在なんかとか、そのための色々な行法もあるくらいですね。
これで修行した素晴らしい人もいらっしゃいますが、それはどちらかというと、卑下して慢心するというか。私は本当に拙い者でございますとか言って、そういうことの修行、慢心しないということを一番やっているというふうに、そういうことを指導意志にする場合もございます。非常に複雑な怪奇な心の世界というのか・・・。

◇心の貸借対照表

だからそういうものの、一つひとつを、自分自身の行動や、どこからそれがもたらされたということを、心の貸借対照表というか、BSPLというものを作る。
そういうもので、自分の長所かな、短所かな、ということを含めて全部網羅するということをすると、自分というものの、どういう指導意志によって生きてきたか、あるいは動かされてきたのか、それを霊と呼んでもいんですけどね、見えてくるということがあります。
それで、自分にはこういう自分の部分もある、こういうふうなところもある、長所が必ずしもずっと長所であるとは限らない、長所即欠点という場合も出てくるからですね、良いとか悪いとかいう分類ではそうだけれども、自分の精神というのか、我々五魂という形で呼んでいるところに付着しているものの、その動かす意志ということを指導意志と呼んでいるんですね。

◇魂を磨く

ですから、そのことを知るということは、自分自身が、どういう動かされ方をしているのかを知るということは、本来は、魂(たま)が、綺麗な、何の曇りのないような状態になっていれば、それは、全然影響を受けないんだけれども、どこかちょっと埃がついていたりすると、それが原因で、色々なところが、それが接着剤になってというか、霊の、そこに、憑依するというのか、降りる、そして、その意志が出てくるということですね。
ですから、影響を受けない一番の方法は、祓い清めるということですね、白川では、それだけなんですね。ある面ではね、平安清明の境地になるということしかないんですけれど。そのもとになる魂(たま)を磨くというかですね、曇りがないということは、宇宙というものが、あるいは自然というものが、あるいは人というものが、透き通った存在として存在するということが、修行になっていますね。
神道では、そういう状態の心というか、精魂(くわしみたま)につながって、そして、五魂が完成して、精神になるということですね。もちろん、瞬間に、清まるという方法もあるんですけれどね。基本的には清めるということを続けるという意志を持つことですね。
その時に、人が神を迎えるという気になった自我というものが自我のまま神を迎える「神我一如」の状態になる。ひとつのちょうど鏡のようになって神を迎えられるというところに、一体になるわけではないですけれど、そういう、心の方向になって神の働きをもたらしてくれるという、そういうことのための修行なんですけれどね。ですから、指導霊と言っているときには、必ず何か別の目的というんですか、あるというふうに、考えたら良いというか・・・。もちろん、指導意志を使わしてもらうというかですね。

◇指導意志を使わせていただく

こういうことをしなければならないということは、赤ちゃんなんかは、なかなか育っていく時にわからないからですね。お父さんお母さん、あるいは家族やそういう人たちあるいは周りの様々な人たちが使っている指導意志に習って学んでいくわけですけれどね。
それが、自分のある時代の、ひとつの指導霊だけ志になってしまうと、人格的には育たないということを昨日は言ったわけですね。
ですから、いろんな指導意志というもの、囚われということは、一つの指導意志だけでやっていこうというふうにすると、必ずいつかそれに愕然とする時がきて、また違う指導意志を持ってこないといけなくなりますからね、普段からそういうものはあるものだというふうにして、それらに折り合いをつけてもよいから、自分の心の中で使ってみるということをする、というかですね。
指導意志ということは、指導されてしまうこととして使うのではなくてですね、あくまで自分が使わせていただくという主体性を持つというのか、そういうものはひとつの手法と考えて使ってもいいと思うんですね。
ただそれが、自分が、それに、使役されるというか、使われてしまうととんでもないというかですね、そのことはできるけれども次のことはできないですとかね、やったことで色んな軋轢が生ずるということが起こるということで、それを注意する、ということになるんですね。
それは難しいんですけれど、ですから、自分のご修行というのもそうですけれど、その手前で、自分がどういうふうなことを願って生きているのか、あるいは何かもっと隠れた指導意志があるかもしれません。ですから、はっきりとそれを知る意味で、自分自身の心の、魂の貸借対照表をしっかりと作るというかですね。

◇自分が持っている指導意志を明確にしておく

五魂というのは、そんなに細かい特徴があるわけではないからですね、もともと透き通ったまん丸な存在だから魂(たま)なんですが、わかりにくいけれどね。そのないようなものを覆っている、魂(たま)にまとっている自分自身の、それを良しとしている埃のようなものをしっかりと見つめて書き出して網羅してみて、その手法を、自分の持っている、指導意志としての手法を明確にすると、自分自身が何をするにしてもですね、非常に落ち着いて、というか何が出てきてもですね、驚かないようにしておく。
白川では、指導意志というものを、神という一つの働きをお願いするという意味でつかわせていただくというか、そういう全体設計があると、そうすると、その手前で今までの、へばりついていたところが見えてくる。
ところが指導意志が心から心へと移ることをしていると、自分の中でまた失敗すると、また次の指導意志が出てきて、また失敗するととすると、それを溜めているだけのことや、また前のが出てきてやっぱりできなかったんじゃない、やっぱりこういう方法の方がいいよね、となっちゃうんですね。
そのあたりを心の中に、それをしっかりと網羅して分類して、体系化して、自分自身の承認をするということですね。そういうことはやっておく必要があるというかですね。
それが指導意志ということで、それをひとつのいわゆる霊的な働きというかですね、そういうものを捉える捉え方が霊という捉え方で、これが長いこと、人類の心の問題が解決しない理由、それで宗教というものが出てきた理由でもあるわけですけれど。そういうことが起こったんじゃないのかなと。
ですから、一度、自分自身の心の中にある特徴ですかね、それを書き出してみるということは必要かなと。良い悪いということだと分類に入ってきていますけれど。一度、自分の心というものの網羅をして、その特徴的な動き、方法をしっかりと確認するというかですね。
まず、修行の前にそういうものが一度解決して、そして自分というものの、あらゆる、DNAの中にもそういう精神遺伝子もあれば体の特徴もありますから、そういうものも含めたものを、全体を記述するという意味で、ご修行が起こる前の時に、そういうものを一度確認するということが、多分必要なのかなと。その辺りをまとめたもので、皆さんにお知らせしないといけないかなと思うんですね。

◇出発点の違いが出てくるが・・・

私の若い頃は、そういうものを当たり前にやっていたから、今時どうかな、と思ったんですが、やっぱり霊の問題とか指導意志とか出てくると、やっぱりそういうものは一度出さないといけないかな、というふうにも思います。
自分だと思ってやっていることが、実はそれは自分の意志ではなくて、違うものの指導意志というもので、それを自分の中に援軍として、自分のよりよい問題解決のために受け入れたということが、どの時から出てきたのか、ということの追跡調査のようなこともやるんですね。
それはひとつの心理学でも、今やっている深沢先生の研究も、出てきてからそれの解析もやろうと思っています。心理学を学んだ者からすると、この方法は少し違うかもしれないと。そういう階層性のあるというか、魂(たましい)というもの、魂(たま)をどう扱うかということが見えないと、なかなか言葉で捉える心理というものは、あくまでも心理で、さらに、またその心理を追求する、だから有から有というんですかね、存在というところから、自分の心というものを見つめるという方法には、今から結論を言ってはいけないけれど、出発点の違いというところが出てくるので、なかなか難しいところがあるかと思います。
またその辺もまた、お話することが、基本形を学ぶというのか、知っていただくというのが、神様もいいんですけどね、大事かなというところも気にしておりますので、またその辺も含めてまた検討したいと思います。
そんなことで、今日もありがとうございました。