0375話:2018年03月18日

どうも、ご苦労さまでございます。昨日、靖国神社の桜の開花の定点観測で五厘咲きまして、いよいよ開花宣言されたそうです。家の前にも、定点観測の桜の木があるので、こちらを見ても、甲府も、そろそろだと思うんですが(笑)。ようやく、待ちに待ったと言うか、桜が見られるようになると思います。

◇いよいよ「歌も作ります!」

今、お配りしたのは、たまたま先週、能澤さんに会いましたら、この2つの歌を書いて、落款を押されて、私に渡してくれたんです。
元々、昨年、二上念祷という詩を、能澤さんが作詞して、信原さん作曲で、去年は皆さんに披露させていただいたんですが。能澤さんから、この短歌を渡された時に、「いよいよ、歌を作ります」と宣言されて、帰ったのですが、今朝、うとうとしていたら、返歌、返しの歌を差し上げないといけないんだなと気が付きまして、急遽、今朝、これが出来ました。披露するほどの歌では、ないんですけれども・・・。
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大八洲波騒ぐ日に二上の
峰の上なる水迎ふべし

霧塞ぐ曠野(あらの)に迷う耳元に
天つ水承(う)く瀬音かそけく

(能澤壽彦)

霧去りて二上望む峰の松
天つ水承け輝きにけり

(七沢賢治)
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振り返れば、私と能澤君が、大学院に行っていた頃、私の西落合の下宿の柱に、出来た歌を交互に貼っておくということをやっていました。
その時に、たまたま奈良毅先生が、バングラデシュのダッカ大学に赴任されていた時に、先生への便りを島に届けてくれよというような歌を作ったんですけれども、その歌を能澤君が「歌謡曲のようだ」と言って、確かにそうだと思って、これで痛く傷ついてしまって・・・。それっきり、詞を作らなくなってしまいました(笑)
そういう経緯があったのですが、六十の手習いならぬ、古希の手習いになってしまいそうでが、古希になって歌を能澤君が作ってきたので、これは返歌を作らなくてはということになって、返歌が出来たんですが・・・。やっぱり、何十年経っても歌謡曲みたいだなと(笑)
能力というものは、あまり変わらないものかと、愕然としたというか、当たり前だったというか、そんなことを感じました。
以前、中野に哲学堂公園という公園がありまして、花見に行っていました。いつも、二人共、花粉症でぐずぐずしながら、よく見に行って、歌を作ったりしていたんですね。本当に、彼は、才能のある人だと思うんです。自分で能力開発と言っているのに、歌の能力がないので、これから能力開発しないといけないのかなと思っていますが・・・。
これから始めるという決意を、先に皆さんにお伝えしないと、全然努力しないところがありますから、今日から、これを機会に「歌も作りましょう、作ります!」という一つの決意表明みたいなものです。それで、今日は、皆さんに、恥ずかしながら、詞を出せていただいたということです。◇伊勢は公のことを祈るための場所だった
この二上山のところは、大津皇子が謀反を起こしたということにされて葬られている所なんですね。どうも、一番分かりにくいところは、大津皇子が、何故、大伯皇女が斎宮としていらっしゃる伊勢神宮にお参りに行かれたのかということです。これが、一つの大きな咎に掛けられた理由であったんですが・・・。
伊勢神宮に行ったのは、普通はお姉様を訪ねて行ったのでは、というふうに考える論者もいますが、どうも、当時の伊勢とは、公のことしか祈らない場所でしたので、今みたいに、神恩感謝以外の様々なことをお祈りして良い所では無かったんですね。
奈良時代では、公の為にしか祈らない場所というか、それ以外では参らないという風習があったようです。大津皇子が伊勢にお参りするということ自体が当時は罪になったのではないかと。要するに、公のための参拝ではないという判定が、宮中であったのではないかという見方もできるわけです。

◇国民としてやるべきことを自覚する一年

そんなこともありまして、公ということの意味や階層も色々とあって、その中で、皇太子になったり、天皇陛下になるということは、大変なことなんだと。よく高濱浩先生が、「我々は、24時間天照大御神を迎えていなくても良いんだよ」と仰られていたんです。ずっと公でいるということの大変さを言われたんだと思います。
今は、そのことを天皇陛下と皇后陛下だけにお任せしているような状況に、日本の国ではなっているのではないかと思うんですけれどもね。そういう点では、天皇、皇后両陛下に、非常にご苦労をおかけしているのではないかということを感じるわけです。これから、御退位、大嘗祭を経て、御即位されるということを、来年に控えています。
ちょうど一年間で、日本国憲法に則りではないですけれど、国民としてやるべきことを自覚するという一年になるのではないかと。そして、あと一年という時に、何が公の気持ちとして出来るのかということを、これから白川としては、何が公か、何ができるのかを、みんなで考えていきたいということを感じるわけです。

◇大津皇子の覚悟を王も民は知っておられた

そういう意味で、大津皇子は、兄妹愛、あるいは人情のようなことで、伊勢にお参りすることが罪になることが分かっていて、なお、自分が、次に皇位に就くものに対して、自分が咎にかかってでも、王位継承を邪魔しない為に行ったと。大津皇子は人気も才能も、あらゆる点で優れていたと言われている方なんですけれども、それを敢えて他者に譲る。そして、その譲る方法にも色々あろうかと思いますが、謀反のように、軍隊を動かしたりしたわけではないですが、咎に自らかかって、次の時代を安泰にするという覚悟の行動をされたといいますか。
今日、そんなことを感じながら、この歌を作らせていただきました。ちょっと口幅ったいといいますか、何を今更という所もありますけれども、そういう想いでされたことを、王も民は知っておられたのではないかなと。しかし、それは表に出さないでいたと。ただ、それは、二上山で、もう一度、墓を移された後で、弔うということをされたのではないのかなと。

◇「鎮魂頌」

これからは、「鎮魂頌(ちんこんこう)」という作詞折口信夫さん、作曲信時潔さんが作られた、兵士が神になるという詞があります。
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鎮魂頌(ちんこんこう)

思ひみる人のはるけさ
海の波高くあがりて
たたなはる山もそそれり。
かそけくもなりにしかなや。
海山のはたてに浄く
天つ虹橋立ちわたる。

現(うつ)し世の数の苦しみ
たたかひにますものあらめや。
あはれ其(そ)も夢と過ぎつつ
かそけくもなりにしかなや。
今し君安らぎたまふ。
とこしへのゆたのいこひに。

あはれそこよしや。あはれはれ
さやけさや神生まれたまえり。
この国をやす国なすと
あはれそこよしや
神ここに生まれたまへり。
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非常に良い歌なので、圀手會のテーマソングになればいいかなと思っていますが。たぶん、この70年間では、この曲は、ほとんど世の中に出ること無く、聞かれることもなく、埋没していました。靖国神社に聞いても、分からないというくらいの状況になっておりました。なので、我々が、それを復刻したいと。すでに、著作権が終わっているので、Kさんにお願いしてあります。6000人有余の学徒出陣の人々に、毎日、慰霊をしていたのが、下鴨大社の堀口さんという方なんです。その方が、毎日6000有余の人の名前を読み上げて、慰霊、鎮魂されていました。この方は、高濱浩先生と親しくて、よく研究会を開いていました。高濱先生を影でお守りしてくださっていた方であるわけです。
そういう鎮魂頌という曲と詞を、新たに、もう一度、世に出そうということであります。

◇日本の、公の為に生きるという世界観

たまたま、折口信夫さんが書かれた「死者の書」という、中将姫をはじめとする小説を元にした金大偉作の映画の予告編を、今度、アメリカで上映する予定です。
それで金さんが何回か、二上山にも行かれていたんですけれども、大津皇子の心、あるいは、それを弔う大伯皇女の想いは、今の日本人にはなかなか分からないわけです。ましてや、金さんは、満州族の王族の出身でございますから、それで、我々二人で、死者の書の中身を、ああでもない、こうでもないと、レクチャーするわけです。それで、金さんも、いつも往生されていると思います。
ただ、大津皇子と大伯皇女の話は、今まで忘れてきた日本の精神といいますか、魂と言うのでしょうか、ヨーロッパ風に言えば、サクリファイス(生贄)という意味の宗教学用語になると思います。自らの心、名誉、魂、身体も含めた、五階層の全てにわたる、世の為、公の為に尽くそうという気持ちを神に表明することが、一番大事なことになります。
なので、しっかりと、そういうことを思い起こして、国の為に亡くなられた沢山の方々の想いを、自らに重ね合わせて、そして、我々が、公の為に生きる、尽くす、そういう精神は、今の時代には、なかなか思い起こしづらい所もありますが、これからは、人類という意味合いに、その世界観を広げていくということが、きっと日本人の役割ではないのかなと感じました。
今日は、そのお話をさせていただきました。
ありがとうございました。