0397話:2018年04月09日

おはようございます。
土曜日のチャイルド・アーツ・アカデミーの報告をお願いします。

●智樹さん
先程まで、校長先生の清子がいたんですが、今はいないので、代理でお話しします。土曜日、チャイルド・アーツ・アカデミーの1回目が行われました。ここに、参加された方もいらっしゃいますが、一言では報告しきれないくらい、もりだくさんな内容でした。
まず、今回、天気に恵まれたということです。予報では、雨で12時くらいから晴れるという予報だったんですが、当日、朝起きたら快晴で、非常に気温も上々で、天に迎えられた気がしました。始まって、最初に入学式をしました。日本国旗を掲げて、「君が代」、国歌斉唱から始めまして、日本の教育というものを、伝統的な形で、最初に示したんですが、子供達が、予想以上に、集中していて、非常に良かったなというのがありました。それで、場が締まった感じがしました。
その後、子供達とお祓いと鎮魂をしたんですが、非常にそれも良くて、初めての子供達もいたんですが、1分間の鎮魂でしましたが、とても集中してやってくれました。もちろん、子供なので、波はあります。ただ、騒いでいたのが、火打ちをすると落ち着いて、更に、鎮魂すると、また、鎮まって、お祓いをあげると、また、鎮まってという感じで、何か、子供達も掴んでくれたのかなと。これから、親御さん達が、子供達と家で、やってるはずなので、来月以降も、かなり変わってくるだろうということで、成長が楽しみです。
あと、凄く、パワーをもらったというか、翌日、自分自身も元気になった感じしています。新しい何か始まったような、今まで違う何かを感じました。
あと、賢治先生の親御さん向けの講話も、祝殿でありました。賢治先生が、後ろにいて、やっているというのが、チャイルド・アーツ・アカデミーの魅力で、また、安心感にも繋がったのかなと。
あと、ふとまにの里に、メダカを2000匹、放流しました!運が良ければ、鮒の群れが泳いでいるのも、見れるかもしれません。何か、まとまっていませんが、そんなところです。

●信原さん
おはようございます。
私の方は、チャイルド・アーツ・アカデミーで、音楽を通してのワークショップを担当させていただきました。まず、初回なので、お子さん達が、どの様な物に反応するのかというのが、分からなかったので、大人用上質な楽器と、いわゆる、子供が好きそうなおもちゃの楽器の両方を、今回は準備しました。お子さんの関心が、どうであっても対応できるように、両方を備えていましたが、子供達は、ディドゥリドゥであったり、楽器であっても、大人向けの良い音が鳴るものに、強く関心を持っていました。もちろん、一面には、子供向けの分かりやすいものが必要な場合もありますが・・・。大人が、子供はこうだろうと思うところではなく、一見、子供では分からないのでは?と思ってしまうような上質な、あるいは、本質的な内容であったり、高度なことでも、実際に、子供は、瞬時に捉えていると。
私個人が受けてきた教育でも、先生方からそのようなことを教わってきたのですが、改めて、子供達の関心からも、それら違いを、しっかりと感じ取ることが出来るんだなということを、再確認させていただきました。
今回、音楽に関しましては、美しい音楽を聞いていただくということと、子供さん達が、自発的に、内側から湧き上がってくるもの、それを音楽という形で表現していただくという、2つのテーマでもって、臨んでおります。
やはり、お子さん達を見ていると、バイオリンに興味を持つお子さん、ディドゥリドゥに興味を持つお子さん、絵を書いたりすることに興味を持つお子さん、あるいは、パーカッション、叩くのに興味を持つお子さんと、それぞれのお子さんの中で、既に、1回目にして、何が好きかという自発性の違いということが、垣間見れました。
恐らく、一人一人のお子さんによって、「これだ!」という方法は違うと思うんですが、全てのお子さんの「これだ!」というものを、ワークを通して、それを見つけて、そこが伸びていくのを見守って、促進させていただくようなことができればと考えております。
ありがとうございます。

【七沢代表】

◇子供達にとって学ぶとはどういうことなのか

土曜日に、ここ祝殿でもお話したんですが、我々は、一種の事業開発というのも、烏滸がましいんですが、能力開発と、一種の教育のところも、できるのではないかなと。子供達が集まってもらう機会を通じて、そういうことが、わかるんですが。
要するに、1番古い言霊とか、祓いとか、鎮魂ということを、現代にも合うかどうかということ、あるいは役に立つのかどうかということが、問われているということが前提です。
それが、もしも、役に立つとすると、それは、他の色んな場面で、ビジネスでも、芸術でも、あらゆる場面で、役に立たなければ、おかしなことになっちゃうわけです。
だから、そういう意味で、一つひとつが試みであると同時に、それが、確認なんだと言うと、横柄というか、結構、強気じゃないかなと思うんですね。今回も、見ていて、総体的には生きるということが、どういうことなのかということですね。子供達にとって学ぶということが、どういうことなのかということが、明らかに見えてくると。

それは、やっぱり、人は全ての存在とコミュニケーションをすることで、1つの個人の喜びや、1つの家庭、そして、社会、自然と意識が広がっていくんだと。そういうことが1番前提にあって、そのために、言葉というものが、子供と親、あるいは、子供と子供で、子供と自然とのコミュニケーションをするわけですが。
その中の自然という、ちょうど、ふとまにの里の地鎮祭もやるわけですが、そのところで起こったことは、水の中に入ったり、生き物を手で触ってみたり、あるいは、土に穴を掘ってみたり、風を感じてみたり、要するに、五行ですよね。木を植えたり触ったり、たぶん、これから、試みの中で、そういう自然との触れ合いですね。
その体験の前提となっているものが、まず光と音ということですね。音ということは、川のせせらぎや風の音、そして、音楽でもあるし、音が、自分とどういう関わりがあるかということで、コミュニケーションが広がっていくわけですね。光は、自然の中にもあるし、様々な美術の中にもあると。コミュニケーションも、結局、光と音ですから、音波と光波でもって、掴もうということですから。そういうことを、コミュニケーションのプラットフォームとして作ってみたいものを、ちょうど、皆さんの子供さん達と一緒に、お母さんお父さんも学んでいくと。
そういうことが、基本というか、もちろん、教育というのは、体育、知育、色んな運動を学びたいということもありますし、そして、知育、一種の能力開発にも繋がるわけですね。知も算数とか、そういう国語とか、そういう基本的な教義となることも学ぶわけですが。

◇意志の教育

そして感情、情緒の教育、そして、徳の生き方の教育とかあるんですが、たぶん、白川あるいは、ロゴストロンというのは、一種の意志の教育ということになるんですね。その辺は、ちょっと古いタイプの哲学の分類みたいなところがあって、我々も、知情意の教育ということで、白川学館もやっております。
これは、やっぱり、大事なところで、意志というものが、知も力になるし、情も力になるし、情はオーバーランすれば、人を殺める力にもなっちゃうと・・・。情は、生かす力にもなるけれども、愛憎の憎力にも繋がっているんだと。
意という、意識の中でも、特に、強い意志というものが、やっぱり、教育の中にあると、それが、知と情というものの力以上に、意志の力というものが、相当大きな変革の力、社会も自己自身も変える力になるということですね。
だから、間違って使うと、意地っ張りになって、夏目漱石の「坊っちゃん」の中にあるような、あるいは、「意地を張るのは退屈だ」という言葉もありますが、要するに、そういうことになってもいけないですが、少なくとも、そういう社会、あるいは家庭、あるいは、自己自身のために、役に立つような意志というものを発信して、それが、実現するということになるということは、良いことではないのかと思うんですね。それが、今、我々が、ロゴストロンの開発でやっていることは、意志の言葉ということが、中心にあると。そういう言葉の実現しやすい使い方ということ、あるいは、機械としての使い方ということがあると思うんですが。

◇意志に気付くよう導くこと

最後に、教育の成果というのは、学びたいという意志を、勉強したいという意志がでてきた時に、初めて、お父さんお母さんが言ったり、みんなが周りから先生たちが、勉強しなさいということを言われなくても、自分がそのことを学びたいという気持ちや、意志になった時に、初めて、それが、大きな効果を生むというか。
これは、我々の人生の中で、はっきり言えるのは、意志を、それが誤りのない意志というところが、ポイントになろうかと思いますが、そういうものを教育するということではなくて、意志に気付くための誘導をすることが、教育なのかなということを、土曜日に感じたんですね。そんなことがありまして、我々がやろうとする、自分が、そういう意志を持った時に、初めて、それが実現できるというか、そういうことではないかなと強く感じた次第であります。

◇意志がみなぎる時に

その辺りが、生きるということの1つで、見えにくいというか、意志というのは・・・。
知は、はっきりと、文字として見えますよね。情も、はっきりと顔に、現れますよね。不機嫌か、上機嫌か、あるいは、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、表情で分かりますよね。意志というのは、隠れているというか、隠すことも出来るから、分からないところが多いと思うんですが。もちろん、それも現れるには、現れるんでしょうけれども、案外、地水火風空の風よりも、更に、空という世界は見えないという意味ですよね。気付かないという世界に近いのかもしれませんね、人間の中ではね。
そういう意志というものと、空というところを、重ね合わせて考えると、見えないけれども、それが、みなぎっているという表現になると。
そういう面では、見えると言えば見えることにもなるんでしょうけれども、宇宙というものが、ある面では、真空というものでみなぎっているように、人間というものも、意志によって、みなぎるという時に、きっと、知も発達し、情も発達し、元気に生きるというところに繋がっていくのではないのかなと。
そういうものを、白川では幽祭といったんですね。祀る場合には、幽祭といったんですね、顕祭と幽祭。そういうものを、引き出すということが、古神道の大事な作法というか、手段だと思うんですね。そんなことが、土曜日にあったので、感じさせていただきました。
今日から、1週間宜しくお願い致します。
ありがとうございました。