0405話:2018年04月17日

おはようございます。
何か、質問はありますか?

●Tさん
意識進化と関連があるのか分かりませんが、ご飯を作る時に、人の意識がどのくらい影響しているのかを知りたいです。同じ具材とか調理方法で作っても、例えば、「無性に家のご飯が食べたくなる」とか言うじゃないですか。それって、作る側の意識と、密接に関連があるんじゃないのかなと。何か意識が、味に影響を及ぼしているという印象をもっているんですが・・・。何か、そういうことについて、ご意見をいただければと思います。

【七沢代表】

◇鎮魂すると、まずは変わる

要するに、味に違い出るというのは、一般的には、「気」といっていますね。気が入るとか、気持ちがこもったということですかね。誰かに美味しいものを作ってあげようという想いとか、気とか、それもまた階層性でしょうけれどもね。そういう情報が入るというか、影響するというか。
その為に、我々は、六種鎮魂作法という方法があって、だいたい食物を買ってきた時も、作る時も、まず火打ちで祓って、そして鎮魂するわけですね。ですから、献饌したり、それを直会で食べるということは、その過程の中で、それが神様にいくお供えをするということになるんですが、その上で、みんなに差し上げるということは、ある面では、それぞれが生きた神様ということで、差し上げるわけですよね。ですから、献饌の中には、そのまま鎮魂してお出しするものと、熟撰といって、煮たり、正月の場合は、鯛を焼いたりしますが、要するに、献饌の中に、熟撰が入っていると。
どういう気持でやるのかということは、鎮魂作法の中に入っているのですが、鎮魂するということは、その物質というか、それが、一番良い状態にするということを、荒魂、和魂、幸魂、奇魂、精魂といって、息吹をかけるわけですね。その息吹をかけて、その物に通過する時に、余分なうっ滞しているものを、取るということをやるんですね。だから、鎮魂すると、まずは変わるわけですよね。

◇神様に差し上げるような気持ちで作る

あとは、気といっているものは、情報ですよね、情報場というか、人のために、どうぞ美味しくなってくださいという意味があって、その情報を物質である食べ物に込めると。ですから、料理をすれば、時間がかかるわけですが。時間がかかれば、美味しいというわけではないけれども、少なくとも、気持ちはたくさん入るということになるわけですよね。
ですから、当然、商売でやる場合でも、それを丹念にやった人のところには、必ずお客様がついてくるということは間違いないし、そういうものではないかなと。
ご飯は炊いた後、先祖の遠津御祖神に、「◯○家遠津御祖神、どうぞお召し上がりください」といって、湯気が立ち上がった時に、その湯気を先祖にあげるんですね。自分自身も、生きた先祖だから、その匂いが入りますけれどもね。
そういう生きた先祖という形で、ある面では、料理を作って差し上げても、神様に差し上げるような気持ちで作るというのが、本来的な鎮魂と食べ物の関係というか。伊勢神宮でも、毎朝、豊受大神の働きで、それを作るには、鎮魂だけではないですよね。豊受大神とか、大宜都比売命とか、料理の神様というのもおかしいですが、そういう働きの神があるわけですね。
ですから、武家の作法の中にも、四条流といって、鯉を触らないで料理するという作法が、今でも伝わっていますね。それを捧げるというか、大事なものを神に捧げるということをやるんですが、神様にお願いして作るということまであるのが神道の作法ですね。だから、膾(なます)とか赤飯というのは、毎月の初めに、伊勢神宮でも、そういうことをやっていたんですね、昔は、そういうものを献饌するということをやっていたんですね。日本料理は、そういうものが源流にあって、それを差し上げるということをやっていたものが残っているんですね。膾とか、月次祭でも、赤飯を炊いて、そして、それを献饌するわけです。元々が、神道の儀礼ですね。

◇赤飯は赤米、縄文時代からあるもの・・・

たぶん、赤飯は、赤米の玄米、縄文時代からあるものだと思うですが、赤米の玄米が、一番古いものではないかなと思って、今、日本海という会社の原さんという先代の社長と一緒に、全国一宮の78社の全てに赤米の玄米を作って、奉納したこともあるんですね。たぶん、お赤飯の元になったもので、品種改良で、もち米になって、お菓子になるくらいに美味しいものになって、それが出てきたというか。たぶんアントシアニンという自然の色素が、大量に入ったもので、だから、それは、身体にも良いということにも繋がるんですが、そういうものを供給していたと。
たぶん、これはインドから来たお米ではないかと思っているんですね。インドは2000年くらい、社会がまるっきり変わらないんですね、農業やっている町が。今から、40年前に、そういうインドの研究をしていた時に、お米があったんですね、お赤飯とは似ても似つかないような、彼らは粘り気を全部取って捨ててしますから、パサパサのものを、右手の3本指の第一関節だけで食べるわけですね。こういうふうに混ぜて、丸いものを作って、押し上げて食べるんですね。左手は、絶対に使わない、これは、トイレに行く時だけに使う。この3本指の先だけでもって食べるわけです、もう知っておられる方もいらっしゃると思いますが。
そういうパサパサのものだけど、日本では、粘り気を含めたもので、だんだんともち米のようなものになって、今は、我々は、大事な祭祀では、天地空を象徴した、赤い餅、黄色い餅、白い餅を、新嘗祭、年祭で必ず献饌していますが、それは、餅ということで、祭祀の大事なお供え物、あるいは、道ということが、餅という表現になっているわけですが。
そういうことで、非常に、それが、縄文あるいは、弥生以降のものとか、色々といわれますが。たぶん北海道にも、6000年くらい前の水田というか、稲を作った痕跡が残っていましたから、縄文期に既に、そういう稲作が入ってきたと思うですね。それが、ずっとインドから経由して、日本に入ってきたというものもあるかもしれません。
赤米というものの発想から、それが、一番の原点に還るような意味で、そういうものが残ったのかなということを、民俗学的に考えるわけです。ただ、それが証明されたわけではないから、完璧に、皆さんに、お伝えできるものではないですが、しかし、たぶん、そういう意味かと。
向こうは、田んぼに蒔くわけではないですね、ガンジス川では、土手に蒔くんですね。
乾季と雨季では、稲を蒔く場所が違うんですね。乾季は川の下のほうに近い所で、雨季はずっと川の上のほうで蒔いたりして、作っていたんですね。

◇日本の文化は稲作の文化

話し出すと長くなって、以前にも言ったかもしれませんけれども、豊葦原の水穂の国なんてね、葦がいっぱいあるのに、米なんか取れない、水穂の国というのは、田んぼの豊かな国と。葦も良し悪しですよね、悪いという時に、葦を良しに言い換えたりすることもあるんですが。要するに、酷い自然の力のあるものと、それから田んぼで作って、豊かな実りを栽培ということで、享受するということもあります。
要は、稲ということで、日本の文化というものは、一種、稲作における文化というものが出来上がってくるんですね。ですから、6000年とか、何千年か用意されて、このお米を食べるということになっていったのではないかなと思うんですね。
ですから、お米にまつわることで、五穀ですね、後には、大豆とか、麦とか、稗とかを、きっと食べていたんだと思いますが。そういうものに変化していく、これも、今、ふとまにの里でも、5月に田植えをしますが色んな実験というんですかね。
真菰(まこも)池と、田んぼということで、再現をしているわけですね、葦ではないですが、真菰という似たものと田というものの両方を作って。最初の1年目で、収穫を得ようという不貞な輩かもしれませんけれども(笑)色んな意味で、実験農場でもあるんですね。
チャイルド・アーツ・アカデミーの里山でもあるけれども、実は、実験農場で、日本で最高レベルの農業の先生である、金山先生という方をお呼びして、ここで去年からやっているわけです。もちろん、ロゴファームでは、塩山でもやっておりますが、そういう食べることを。

◇御魂をいただく感謝の気持ちを伝える

我々が、食べることに感謝する時、その作った方、お百姓さんもそうですし、鯛だったら、鯛を釣ったり、養殖された漁師さんに感謝するということもするんですが。
そういう存在物ですね、大豆とかお米とか、そういうものの御魂をいただくということですから、ある面では、それが大宜都比売命とか、宇迦之御魂神で、お米も大豆も神になっているんですね。それをいただくというような気持ちで、その時に、感謝の気持ちを伝えるという一連の儀式があるし、やっているわけです。食べる時に手を合わせて、感謝をして、いただくと。
何回か、美味しくなる場面というのが、段階をおって、ギアのように上がっていき、最後は、施餓鬼供養で、食べられないで苦しんで亡くなった、飢えと渇きで亡くなった人たちの想いを、叶えようというのが、施餓鬼の特徴ですが、それをどうしたら叶えられるかということを、考えてやるということは、ある面では、それが、美味しく食べられる秘訣でもあると。それが、自分が、同じように餓鬼になってしまったら、美味しいということも分からないで、ただ、かき込むというだけになってしまうということもあって・・・。

◇身体が働く一連の作法

色々と場面場面において、美味しくして、最高のものにして、取り組むと。そして、取り組んだら、身体の中で、それが、酵素があって、一つひとつが向かい合って、消化していって、吸収するために、身体が働くわけです。
たぶん、そういう力になっているものも、一連の祈りといいますかね、その中で、それをしていくということがあって、それで全体を食べ終わったら、更に、酵素で、身体の中を巡るというか。
あと、これは、私が、奈良先生とか、インドの教えから得たもので、胃の中に入ったものを消化する時の消化のための作法みたいなものもあるんですね。それによって、胃に一気に、消化液が出て、活発に動くということまで、イメージすることもあるんですね。そうすると、胃もたくさん食べた場合でも、消化を一生懸命してくれるというか。

そんなことも含めて食べるということが、ひとつの神道の大事な行為に、全体設計としてされてあるなと。食べるということを非常に大事にするというか、一番大事にしている教えだなと思うんですね。
その全体も、作法として作られたということで、部分的には、もう出来ているですが、そういう神様や先祖、あるいは、餓鬼さんに差し上げるという、それは何も施餓鬼供養が仏教の専売特許ではないわけです。

◇食べることが感謝というところまでいくと・・・

そういうものも含めて、食べるということは、非常に大事なことであって、それがきっと感謝というところまでいくと、それが吸収していくということになると思うですね。もちろん、それを美味しくするという段階も何回かありますけれども、そういうものを通じて、美味しくしていくということは、出来るというか。同じように、例えば、コーヒーを作るにも、普通、上手に作るという方はいらっしゃるんですね。田口さんとか色んな有名な方だと、最高、1割くらい美味しくできると、普通の人が、淹れる作り方、あるいは、挽き方、水温何度でということも含めてですね。
ある意味、鎮魂作法とは、より美味しくするということだと思うのですが。最高は、3割くらいまでは、同じものが、うまくなるんじゃないかと。これは、私の意見だから、聞き流していただいて(笑)
それくらいに美味しくする方法があるんじゃないのかなと思いました。すいません、朝から食べ物の話ばっかりで。
ありがとうございました。