0419話:2018年05月05日

ご苦労様です。
暑くなってですね、一日の気温差が20度を超えたと言っていました。甲府は今朝は7度くらいで、今は28、29度と言っていました。この差がついていけないというか、厳しい中、ご苦労様でした。

◇円滑なコミュニケーションができる能力

この前、体育、知育、徳育という話があったと思うのですけれども、早速、体育のところで、ご質問をいただきました。
今度、ドイツのボールを使って、社会性も学ぶし、運動能力も学ぶしという方法がようやく日本にも入ってきて、その一番の中心でやっていらっしゃる方がいらっしゃいますので、今度、その方をお呼びしてやろうかなと思っています。早速、連絡を今、とらしていただいています。なかなか体育というところは、ある面では、ボールの、言語もそうですけれども、色々なボールの使い方があるらしいのですが、子供の動きも含めて、非常に良い方法があるということで、たぶんこれからの主流になるのではないかなと思っています。
そういう意味で、これからの体育だけではなく、あらゆるところで人と人だけではなく、人と自然、人と機械、人と神というコミュニケーションのプラットフォームが大事なところになります、これからの時代は。そういうコミュニケーションを円滑にできるということは能力の開発の大事な項目になっていると思います。
そういう意味で、コミュニケーションのプラットフォーム作りというものを機械的にも、神の世界でもあらゆる観点でしようとしているのが、白川や言霊や、そういうチャイルドアーツアカデミーの趣旨になると思うんですね。そういう意味の学びが非常に可能性があると思っています。
今の動画なんかでも、書いてある雑誌を子供がこうやってスマホを操作するようにやっている動画があるそうですけれども、いよいよそういう時代に子供たちの感覚というものが入っているということがあってですね。それが機械であろうが、自然であろうが、そういう呼応の世界に入ってきていて、そこで円滑なコミュニケーションができるということが生き方の大事なところになっています。
その辺りの一番の弊害と言ったらなんですけれども、200万人ほどいると言われている引きこもりというのか、社会に出ないで生きる、もちろん、それでも社会と触れ合っているわけですけれども、そういうところで問題が生じているということもありますから、非常に大変な時代なんだろうと思います。そういう点で、もちろん、触覚や聴覚を使った芸術やコミュニケーションの世界に、自己と自己、自己と他者、他者というものが機械であったり、自然でだったり、見えない神であったりするわけですけれども。

◇泥とまみれる感覚

その全体のプラットフォーム作りの一貫として、今日、御田植えに関わる、泥、泥魂(ぬるみたま)と言っているのですけれども、たまたま白川では明治の初めくらいまでは精魂、統合するときの魂を泥魂と呼んでいました。
その泥というものは、もちろん、五行の組み合わせですけれども、木火土金水、あるいは空とかあるのですけれども、泥というのは、土と水と、広く言うと、金(ミネラル)も含まれるんですかね、もちろん、その中で草も木も育つということになっていくんですけれども。五行の組み合わせになっているものを泥と呼んでいて、それは統合するということで、泥魂(精魂)ということですね。
今日、田んぼを清める時にお酒と水とお米を三方、3つのものを混ぜて、お清めに使ったわけですね。この清めというものも、あるいは、水と塩を混ぜますか、泥ということを感じるということがアナロジーというか、子どもたちの体全体で感じるところが大事な自然に最初に関わるといいというのかね。
もちろん、川の中で遊ぶということでも良いのですけれども、泥とまみれると言ったらおかしいですけれども、お米を作る元のところで関わるということは非常に良いのではないかなと思うんですね。
かくいう、この畑の下の方は弥生土器も、縄文土器も出てくるんですね。だから、発掘しないといけないんですね。縄文土器がいっぱい出てくる範囲に入っているんですね。北の道路に沿って、100メートルくらいは苗代だったんですね。稲の苗を作る場所だったんですね、長い間。そういう場所だったので、私も子供の頃、苗代の中で遊んだ、その感覚が未だに残っています。ドロドロの中で遊んでいた記憶があります。
その感覚が、もちろん、芸術家になったりする場合、彫刻や、最近は中国なんかでは、指で墨絵を書くようなものも見直されて、そういう方法でやったらどうなるかとやっている場合もありますが、要するに、視覚、聴覚だけではなくて、触覚で感じる1つの学びというものが非常に大事なものではないかなと思うんですね。能力開発の中でも非常に大事な部分ではないかなと思います。全体系として、子供が全身で自然に関わることに触れるということが非常に大事なところではないのかなと思います。
特に、天皇陛下も御田植をされるわけですけれども、そういう感覚を味わうということは非常に大きな財産になると思います。ですから、お田植えの後、途中で水をあげたり、草取りをしたり、脱穀したり、ということを体験するのは非常に良いことではないかと感じています。

◇自然や物からコミュニケーションのあり様を学んでいる

能力開発ということの中で、少なくとも、コミュニケーションをするために、日本語というのは、当たり前というかですね、日本人の概念では当たり前として、人と物という関係、人と自然という関係、人と人、人と神という関係が当たり前になっている民族も珍しいと思うのですけれども、ある面では、自然も優しいですが、災害も起こるわけですが、一方では、実りを与えてくださいます。
自然、あるいは物からコミュニケーションのあり様を我々は学んでいるんだと思います。
コミュニケーションを円滑にしていくということは、最終的に人が切れるというのは、人間関係で切れるわけですね。神様は切ってしまうということはないですし、先祖は自分の中にDNAとしてあるわけですから、それを如何ともしがたいところがあるわけですね。
もちろん、先祖と自分というものとのコミュニケーションもあるわけですね。それは遠津御祖神と呼んでいる部分でもあるし、ピア(PIA)というんですかね、先祖に対する愛という表現がインドでもあるのですけれども。そういう世界もあるし、自分の親とかおじいさんなど、先祖との関係を切ってしまうというのは、非常にもったいないことだと思うんですね。もちろん、自律するという意味では、ある瞬間はあっても良いと思いますが、所詮はDNAで繋がっている存在というのか、半分は繋がっています。なので、先祖とも切り離せない。先祖と自分のコミュニケーションの問題も、それも神という形あるいは先祖という仏を弔うということもあるわけですね。
そういうものを含めたコミュニケーションというものは、人と人ということも含めてあると思うんですね。それが最終的には、ストレスの原因となって、病を発するというかね。人と人の関係がうまくいかなくなったときに、そういうことが起こるというかですね。もちろん、自分と自分との問題もあるし、そういう先祖の印象を受けているということも、直接的ではなくても、間接的に原因となるかもしれませんけれども、最終的には、人のストレスによって、あるいは症状が出てくるということが言えます。

◇コミュニケーション能力があれば色々なことが防げる

こういう問題はある面では能力を開発する以前の問題として、その能力をつけておかなければいけないというかですね。それはコミュニケーション能力だと思うんですね。
それがあれば、始まりはどの段階でも良いと思うんですね。人でもいいし、動物でもいいし、親しい人でもいいし、自然でもいい。神という世界で起これば、超絶というか、色々なことが防げるということが言えると思うんですね。どれをやっても良いと思うんですけれども。
基本的に、赤ちゃんのところでもそうですけれども、お母さんが愛情をかけてくださったことによって、赤ちゃんが自然に微笑返しということができるというのが先月、話したと思うんですけれども。微笑返しというのは自然に備わっているかもしれないんですね。
お母さんにご褒美をあげるという意味での、そういうコミュニケーションもあるのですけれども。
あるいは後から学ぶコミュニケーションであるかもしれません。少なくとも人と人、おじいさん、おばあさんと自分との関係であろうと、少なくとも一番大きなストレスになる、あるいはトラウマになって残ってしまうというのは、そういう一番の原因は、人間関係のコミュニケーションがどこまでうまくいくのかということですね。
確かに、それは科学もそうですけれども、自然科学、人文科学、社会科学というようにですね、最終的には、社会的には人間同士の円滑な生き方の方法が大事なところにあると思うですね。それがコミュニケーションのプラットフォームでもあると思うんですけれども。そういうコミュニケーションがうまくできるために、コミュニケーション能力を引き出すということで、芸術の世界で引き出すのが一番これから大事なことですね。
これからどんどんITの進化で人間に代わって労働を、知能労働と言いますか、事務的なものまで広がってきた時に、人間が最後に残ってくるのは芸術であると思います。同じものを作るのは機械でもできるわけですね。手でもって関わるということが喜びになるということが、大事な食料にもなっていく。それは大事だと思うんですけれども、コミュニケーションの能力がどこまで高まるかということですね。
少し前までは、コンピューターでも言うことを聞かなかったら、叩いたりしたことが、ごくありふれてありましたけれども。今はさすがになくなってきましたが。機械と人のコミュニケーションをどう円滑にしていくかということが大事なことだと思いますけれども。

◇原風景の中に・・・

やはり、最終的には、人と人がより良くコミュニケーションするために、子供さんたちにそういう能力を身に付けていただくということが、これはベースのところでですね、もちろん、そういうものを大切にしましょうということで、後になって、色々とやるというのでも良いのですけれども、自分の生きるということの人生の原風景の中に、「仲良きことは美しきかな」ということを、武者小路実篤さんが昔は書いていたんですね。
仲が良いということは、とても美しい、非常に楽しいことなんだということを、そう思えるような原風景を、そこには、喧嘩をして仲直りしたり、喧嘩をしたことを悔いたりすることで、人生の深みに入っていくということもあるので、全然、悪いことではなく役立つのですけれども。そういうことを含めた生き方というんですかね、それができるような方法というものがコミュニケーションの大事な部分であろうと思うんですね。
コミュニケーションというものが一体、どういう意味合いを持っているのかということは、当たり前になっているから、病という観点からしか、あるいは心理という観点からしか、日本では逆に社会というものが、みんなでもってやっていくしかないから、そういう感情的なことの対応が当たり前になって、客観視しにくくなっていたところもあると思うんですね。そういう情緒面のこともこれからは、客観視をしながら、仲良くするということを目指すことです。

◇仲良くするということを前提とした社会を作ろう

ですから、戦前の日本もアジアの進出ということも、アメリカと戦争するということも、促されたというか、自然と誘導されてそういうことになったと思うんですね。本当に、何か、戦って何かをしようということなんて・・・。相手を信頼して統治しようということにいきましたね。ですから、朝鮮のときも、本当はしたくなかったけれども、せざるを得ない状況に追い込まれたということも言えると思うんですね。
それもやってしまえば、それは1つの罪ということにもなりますから、今更、弁護する余地もないと思いますが、少なくとも日本の万年千年単位で考えると、神功皇后の朝鮮出兵という記述もありますが。
確かに、色々な恨みや辛みや民族同士あるいは、世界では習い性というんですかね、ネグロイド(黒人種)とコーカソイド(白人種)の関係、あるいはモンゴロイド(黄色人種)というものでは険悪なものが歴史の中では、あるいは有史以前からあったのは間違いないと思います。その学びの中から得たものは、日本が仲良くするということを前提とした社会を作ろうという、そういう一万五千年前の縄文以来の歴史では、そういうことがあったと言えると思うんですね。ですから、そういう中で培ったものをもっと客観視していくということが、いよいよ必要なんだということですね。

◇呼び応じる、呼び合う

コミュニケーションという言葉が、まだ日本語に直されないというのは、実に不思議なことで、そういう概念とか自覚がないからなのか、客観視ができないのか、適当な言葉が見つからないのか、色々な理由はあろうかと思います。
少なくとも、私は、呼応、呼び応じるというように訳しています。呼応するということを言っています。古事記の神話の世界の中では、これは宇宙を創造したと言われる、伊邪那岐命、伊邪那美命の神様の最初の呼応の言葉があるんですね。
「あなにやし、えをとこを」
「あなにやし、えをとめを」
最初に伊邪那美命が「あなにやし、えをとこを」と言ったのが間違いで、伊邪那美命が言い直して、「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」と言って、宇宙がもう一度できるということで、これは呼応ですよね。
最初に日本の神話の呼び合うというか、まさに呼び合うんですね、そのことが初めに神話の中にあるんですね。そういうものがコミュニケーションの始まりと言っても良いと思うんですね。神の世界でも、そういうことが前提となって呼び合っていく。

◇神々のコミュニケーションが宇宙の始まり

神々の呼応というコミュニケーションが宇宙の始まりであるというかですね。これはまさに両性というんですかね、いわゆる男女というもので1つの命の始まりを行うということで大事なところでもあるわけですね。
単性から両性というんですかね。分裂して、これが今の人間に至るまでの生命の歴史というのかね。神様は初めに出てこられて、また元に戻ってしまうという三神、五神を別天津神と言って、一旦出てきたけれども、また戻るというような、そういう神様もいらっしゃいますけれども。神は、1つの神に対して、1つの働きということになりますけれども、だんだん二神というのか、女性神と男性神が出てきて、それがまた神を産むというような形になっていくんですね。それが日本の古事記の歴史になるわけですね。少なくとも、両性でもって作り出す生命というものの流れですね。
それが我々の長い命の流れであって、その一番の流れが1つのコミュニケーション、呼応ということでもって、出来上がっていったということが大事なところではないのかと思っています。ですから、その呼応するということがたぶんこれから、子供さんたちが、どうしたらうまく出来るかということを最初からする方法、そして、反映する方法が含まれているということですね。
おじいちゃん、おばあちゃんがいたり、そして、周りにいろんな親戚がいたり、そういう形できっと昔はできあがってきたんだと思うんですね。もちろん、大家族が仲悪ければ、1つのこういうように生きようということが前提となった人たちと、たぶんたくさんいらっしゃると良いというのか、学びの友がいるだけで違ってくるわけですね。皇太子におかれても、ご学友というものがいるんですれども、それは学びの友というのかね。そういうものがいるということは、非常に良いことになる。もちろん、普段、幼稚園や保育園に行かれてもそういうことができるわけですけれども。

◇共に生きているということがわかる

少なくとも、色々な機会をもった、単線ではなくて、行き交うという複線とか、少なくとも学びの中でそういうコミュニケーションができるといいという。初めから大家族でいれば、好き嫌いということに関係なく存在しているし、あるいは共に生きているということが分かると非常に子どもたちも認めるというかね。
他者の存在を一対一というだけであると、一対一だけの人の関係になるとものすごく悲哀を味わってしまうわけですけれども、一対多の関係の学びはさらに難しいというかね。本来は確かに、兄弟姉妹が3人になると、社会を形成しやすくなるという意味では学ぶことは可能ですけれども、今の時代はそうはいかないですけれども。
できるだけ、一対多の関係、3人以上の関係、あと2人くらいまず学ぶときに、その2人がいて、自分がいるという関係の中で、子どもたちがコミュニケーションを学ぶということですね。これは一種の複雑系の関係ですね。なかなか学ぶのが難しいというかですね。これはまず身をもって、そういうですから、喧嘩しても良いと思うんですね。
そういう中で学ぶということが、初めはお父さん、お母さんが加わって、また分かれて、また加わってというような関わりをしながら、この学びをすることは、なかなか難しいところですね。特に、これからの1つの民族あるいは、お父さん、お母さんの仲間としての捉え方をお祓いや神話、ルーツを同じくするところから学んでいき、そういう関わりの中で子供同士の関係が培われて、それが転写されるというのかね。その気持ちがそういう仲間になるんだなということですね。

◇コミュニケーションが知の位相で動き出すと・・・

それは今日の国歌斉唱ということから始まりましたけれども、日本語を話したり、日本に住んでいる人という意味の、アメリカや外国では普通ですけれども、今の時代の中では共にという思いがあると、共に生きるということがやりやすくなるということが、前提にあっての歌でもあり、国歌でもあり、神話にもつながっているということになろうかと思うんですね。その辺りをもう一度、見直そうということが70年、50年くらいから変わってきましたけれども、そういう時代がうつる時に来ている。
そうすると、ベーシックインカムなんて言わなくても、みんなが助け合うということは当然、起こってくることであって、それが起こるような形になっていくのではないのかなと。その時に大切な能力が、まさにコミュニケーション能力になろうかと思うんですね。
ですから、知というものも、外にある法則ということも含めて、学ぶということが知の一番の最先端の部分が法則ということですね。それは自然界の法則も含んでいます。法ということを学ぶということは、自然が法則によってできているということを学ぶということが可能になるということですね。それも知の働きの1つだと思います。
ですから、コミュニケーションが知という1つの位相でですね、それが動き出すというかですね、それで希望とか、組織とか、そういう言葉でもって、分かるということになるわけですから。
それが言葉になって、言葉が詩になり、詩が散文や小説になるということがありますね。
社会的には、法というような条文になったり、憲法になったり、商法民法ということになって、生きるということをしやすくする学びになるということでもあると思います。

◇宇宙創造も日本神話で解ける

自然科学、人文科学、社会科学というように広がっていく、言語による学びであるというかですね。言語である学びもまた、更にそれが機械の中に入ることの装置化をまた更に、機械と人間とが高速とコミュニケーションができるようにすることが可能になって、知もまた高速化するという循環が起こって、人類というものが実際に進化していくということが、今の未来予測です。
今の知の一番の進化が宇宙創造という、ビックバンなのか、そのブラックホールなのか、どこに根拠があって学べるのかが今のテーマになっているわけですね。ですから、物理の中での一番のテーマが宇宙創造がどのようにできたかが、一番のテーマであるわけですけれども、そういうものを学ぼうといったときに、人類の叡智としての神話知が役に立っていくということになると思います。それがたぶんこれから日本の神話とか、もう一度、重ね合わせて見ることができるということが近々に起こっているわけですね。
物理学も一番の先端の部分では、もちろん、アインシュタイン後の、この70年間でたくさんの人が宇宙の研究をしていますが、いよいよそういう宇宙創造というところにテーマが絞られてきて、その内容を精査しようというところに来ているわけですね。
そういうことにも充分に対応できるのが日本神話なんですね。日本神話でもって解けるものが、まだまだたくさんあります。ですから、神ということを決めつけていないからできる世界ですね。
宇宙創造ということも日本神話では決めつけていないんですね。宇宙創造の初めに神様が作ったクリエーターの存在を言わないんですね。ですから、どういうふうに作ったのか言わないけれども、最初になったというか、初めになりませる神が天之御中主神と言っているだけなんですね。それが非常に有り難いことというかですね、現代の科学も全然、矛盾しないところにあるというかね。初めに出てきたけれども、また隠れましたということも意味深で、今これからの物理学が逆に、それを証明することになるかもしれないわけですね。

◇宇宙を創造した存在を知ろう

そういう意味の人が宇宙とのコミュニケーションを図るということも今、コミュニケーションの大切なプラットフォームになりつつあります。その精神あるいは、初めのところを、CAAによって子供たちは最初に学ぶんではないのかなと。
最先端の科学がいよいよ入り口に立とうとしている時に、それがまた分かるということは非常に良いことかなと思います。一方では、我々も言霊という非常に難しい、布斗麻邇という宇宙の設計図というものが、どういうふうな展開していくものかということを研究しているわけですね。
そういう古いものから、あるいは、宇宙創造というものがどういうものであったか、ということの最初の時空間を超えて目撃するような方法はないかなということでの鎮魂ということを言ったりですね。あるいは、祓詞ということでもって、神という天津神に入る、あるいは、天津神を清めるというかですね。別天津神に戻るということ。
その前に、自分の先祖というものが、人類から分かれたのはいつか分かりませんけれども、少なくても700万年前に遡った遠津御祖神という神の元、あるいは自然の五行の神と繋がるというのか、そのコミュニケーションをどういうふうにすれば良いのかということは、白川家には残っていたわけですね。そういう意味での白川学、実験祭祀学というものを学んでみるというのかね。人類が初めに作られたであろう、宇宙を創造した存在を知ろうという大野心ですけれども、大欲でもって、その辺を学ぼうと思っています。

◇子どもたちとともに神の真似びを

その辺りが今の時代にできるということは、これは哲学や宗教や科学というものの1つの上位概念かもしれませんけれども、そういうものを前提として、世界を見てみるということが可能になれば、非常にお子さん達と共に生きる中で、自分も学べるということの中で学んでいただけるということになると有意義なものになるということを感じています。
今日は時間もないですけれども、コミュニケーションプラットフォームということの中で何がみんなができるかということが、能力開発だけではなくて、教育や学びということができるのではないのかと。学びは、真似びということから来たかもしれませんけれども、どうせ真似をするなら、神の真似をするというかですね、それが一番、能力を発揮できる学びになるのではないかなと。それも遠津御祖神、あるいは、自然の神、国津神、天津神とどんどん腕を上げていって、神の序列というか、広い働き方にいって、学べるようになれば、より一層の効果、効用が期待できるのではないのかなと。
これから、そういうことを世界で学ぶ人達が注目されてここにみえられると思いますし、共にやっていくことが可能になると思います。
今、我々もビジネスフェースレベルでは、色々な方においでいただいて、ある面では、そういう学びも共にしようと始めていますので、お父さん、お母さんのそういう場も、できるのではないのかと思いますので、そういう意味の学びも社会システムとしても、あるいは、世界システムとしても、それを経済システムですね、政治システムというものも更に学んでいけるのではないのかと思っています。これから色々なカリキュラムを学んでいけると思います。
ありがとうございました。