0420話:2018年05月07日

おはようございます。
土曜日のチャイルド・アーツ・アカデミーが開かれたので、その報告を。

●智樹さん
皆さん、おはようございます。宜しくお願いいたします。五月五日の午前中に準備をしまして、たくさんのスタッフにもお手伝いいただきながら、チャイルド・アーツ・アカデミーの2回目を行いました。2回目なので、だいぶ揃ってきたという感じでした。3回目、4回目で、もっとまとまっていくのではないかなと。
今回、ちょっと工夫をしまして、お祓いとか鎮魂をやるんですが、ゲーム方式でやったんですね。例えば、「とほかみえみため」を順番に言っていく時とか、鎮魂は5チームに分かれて、どのチームが長く鎮魂できるかということを競いまして、それなりに盛り上がりました。あとは、高速暗唱で、「とほかみえみため」をだんだんと速く言っていくということを、信原先生のお手本付きでやりました。ただ、信原さんの身禊祓の時には、皆さん、あ然としていましたけれども(笑)
楽しいなというのが発動すると、学びの意欲が発動するので、初回、その部分が、若干失敗したところもあったんですが、2回目以降は盛り上がってきました。あと、「とほかみえみため」は、魔法陣なので、8人チームで魔法陣でやっていくとかですね。なので、「とほかみえみため」の高速暗唱でも、色んなパターンが出来るので、色んな遊びの要素で学んでいくということを、どんどん開発していきたいなと思っています。そうしていくと、チャイルド・アーツ・アカデミーとしてのコンテンツとして、理想的かなと感じています。
あとは、午後は、田植えをしまして、裸足で田んぼに入って行ったんですが。精魂を泥魂(ぬるみたま)っていうじゃないですか、泥魂(どろのたましい)と書いて。やっぱり、泥が、足にまとわりつくんですよ、ズボッと入りますので。あの感覚って、田んぼに入らないと味わえない。砂でもダメで、粘土でもダメで、土でもダメで、田んぼですよ。でも、あの感覚って、土に完全に密着されるというか。田んぼに、転がっている子供もいましたけれども、そうすると、全身覆われると。あの感覚って、精魂に通じるものを感じました。それも、みんな感じられることが出来たのかなと。あと、田んぼの中に、ダイブするのが、今日の目標みたいな子供もいて、結構、良かったのかなと。
その後は、アートをやりまして、信原さんが、ふとまにの里、初の野外演奏をしていただきました。あと、井坂先生が、井戸を掘った時に、出た砂で砂場が出来たので、その砂と、その下にある粘土で、アートのワークをやってくださいました。やっぱり、田植えをした後なので、すごい感性が開いていて、泥を触った後なので、みんな、すごく活き活きしていました。当日12時から、ずっと外に出っぱなしだったんですが、誰も、中に入ることもことなくて、17時まで外にいたんですよ。そういう意味では、良かったのかなと。
今後、子供たちが、どういうふうに成長したのかということも、6月以降また、見てこうかなという感じです。あと、この祝殿で、賢治先生の講演も、親御さん向けに行いました。以上です。

【七沢代表】
その講演の記録も、今日、出来上がりますので、皆さんにお出しして、読んでいただくということになります。

◇宗教から開放されている

「神道は宗教ではない」ということは、いわゆる、世界の宗教学者でも言う人がたくさんいるわけですけれども。どうしても、それでもなお、一神教というんですかね、そういう何かを信仰するという形で捉えるという捉える方が出てくるんですが。ですから、何で、チャイルド・アーツ・アカデミーなのかというのは、やっぱり、偏見があるような宗教的なものではないというところから入らなければいけないと思うですね。
それは、憲法に保障されているように、信教の自由ですから、信仰を強要するものでないことを、前提にしてないといけないというか、まずそういうことがあると思うんですね。
教育というか、アカデミーというんだったら、そういう普遍的な意味の科学と、いわゆる、宗教とか、何かの思想に囚われないで生きるという生き方が、前提にあるわけですね。もちろん、それを選ぶ自由があると思うんですよね。
ですから、我々がやっていることも、そういう宗教的行為から開放されているというか、入る入口が、泥という自然の働きであり、あえて、木火土金水であり、「あいうえお」であり、さらには、土の神、水の神、火の神となるということにもなるんですが。

◇まだ誰も問うて無いところ

少なくとも、自然というものに、入り込むというか、あるいは、自然とコミュニケーションするというところが、我々の一万五千年培った遺伝子というか、あるいは、精神というか、体感の世界があるんじゃないのかと。
この事を世界に問うてみるということが、許されているということで、芸術は、それを引き出すことで一つのみんなに共通の感情や感覚を味わってもらうということにおいて、世界共通でもあると思うんですよね、音楽であり、美術であります。
宗教は、それぞれの民族に、あるいは、人によって違うから、そこのところは、選べるようにしておくということが、肝心なんですが。我々は、それが、幸いなるかなというか、システム的に、そういうことを学べるものが、実は、今の時代でも自然の中から、引き出せるということが何とも有り難いことというかね。そこは、まだ誰も問うて無いんですね。それは、世界の思想や、右翼も左翼も関係なく、宗教も関係なく、まだ問うて無いところがあって・・・。
そして、それを、実践できる場が、最初に、我々が、もちろん、遠津御祖神というのは、ようやく、DNAということで、体遺伝子、精神遺伝子のところでもって、生命科学の中で標準化されて、理解することが出来るようになりましたけれども。それを、我々は、遠津御祖神というふうに呼んでいるわけです。そのようなものが、前提にあって、次に、自然というものと人間との関係というんですかね。遠津御祖神とのコミュニケーションは、いわゆる、pia(ピア)という、先祖と我々、生きた先祖とのコミュニケーションもありますが。少なくとも、次の段階で、自然と人間とのコミュニケーションという場があるんです。
その時に、自然というものを、どういうふうに捉えるかというところが、肝心なところというか、自然に対して、今だと、キラウエア火山も、噴火を始めちゃって、非常に恐怖を感じて、たくさんの方が避難をされているわけですが。日本では、そういうことは、ある面では、日常茶飯事のような、地震なんかも含めて、天災が起こるわけですね。

◇自然の中に入るという、万年単位で培った感覚

そういう意味での、恐怖はあるんですが、一方で、自然の中に入るという、万年単位で培った感覚というんですかね、そういうものが、自然を理解する、あるいは、それとコミュニケーションするプラットフォームを持っているんだということですね。
それは、やはり、一万五千年という長い間で、古神道というんですかね、日本人が学んだものが、それは、たまたま、自然というものが、優しいというか、必ず、再生してくれるもの、落ち葉になっても、また木々は再生して、春には、葉が出てくるというようなことが、自然のリズムの中で行われていて、その恩恵に預かれるということを、肌で感覚として学んだということはあると思うんですね。砂漠の自然とか、寒冷とか、そういうものの中で起こってくる自然への恐怖や不安に対する対応の仕方とは、また違いますけれどもね。日本の自然というものの働きの中で、狩猟とか採集とか栽培というような三つの生きるための働きの中で、自然と親しむことが可能であったと。そういうものをもたらしてくれる存在であったということもあるわけです。

◇「泥」は木火土金水の統合体

それを、最初に、自覚できるものが、木火土金水の統合体の泥であったと。泥というのは、基本的には、土と水とミネラルが、同時に溶けていて、そして、太陽の働きがあるわけですけれども。五行というものと、どの様に一致するかということは、一番、五行の中で、泥というものが、一つのあるいは、三つ、四つの要素があって、そして、それが草木になって人に実りをもたらしたり、心地よさをもたらす、そういう感覚だと思うんですね。泥の感覚とは、きっと日本人が、肌で感じる。特に、一番端的に表しているのが、苗代や田植えなんかの泥の田んぼですね。
泥というのは、元々、全ての栄養が入っているという意味があるんですね。ですから、泥の水というのは、化石水といって、一番栄養のあるもので、今度、その水というのは、ミネラルが含まれた水ということになるんです。それも、我々は、「ミネラルさん」を作りましたけれども。実は、あれが、本来の泥の一番の元といいますか、その姿なんですね。その泥が、全ての栄養や、全ての病を解消する方法だということまで、最新の科学では、そうなっているわけですね。必須ミネラルを含むミネラルがその働きをすると。
それと同じ様に、泥というもの感覚を、子供の時に感じるということは、七歳あるいは、小学生くらいまでの間に、泥とまみれるという原体験があると、非常に良い結果を生むのではないかと。自然とコミュニケーションする意味がそこにあるわけですね。この場を、里山にして、あるいは、川も、この池も、田んぼも作ったり、畑も作ったり、葡萄も作りますけれど。
そのプレリュードをつげる遊びが、泥と戯れて、親和するというところが、ポイントになっているのではないかと。ですから、その時の身体の感覚が、古代の五行でいう、自然と人が関わる時の最初の大事な感覚なのではないかということです。

◇泥魂、人間の原体験

あと、井坂先生が言われていたのが、子供さん達みんな、自然のうちに、泥で丸い玉を作り出すということです。団子にするという意味合いもありますが、食べるものではなく、その魂というのが、荒魂、和魂、幸魂、奇魂、精魂の精魂が、泥魂ということなんですね。それが、一つの玉の格好であるんですが。六種鎮魂ということで行う技が、自然と人間とのコミュニケーションであり、それを、ある面では、五行が五魂でもあると。そういう意味合いで、自然と結びあうと。そこの部分が、全ての宗教というものを超えて、あるいは、思想というものを超えて、人間の原体験として。
もちろん、粘土で作るものが、芸術としては不変に残るものになりますね、縄文の土器もそうですし、オーギュスト・ロダンの作品もそうですね。そういう残るものも、捏ねるわけですよね。そういうことで出て来るということ同じ様に、始まりが、一つの原体験からいければ、導入し易いのではないかと思うんですね。人が、そういうところから導入して、世界というものが、共通の感覚の中で、その先にある菩薩とか、ボランティアということも理解し、その先にある仏陀や神の世界も、知ることが可能になるというか。そういうことを、我々が、一つやってみようという気になることが大切なことですね。
今まで、色んな思想とか宗教の中で、あるいは、そういう学習とか能力開発の中で、色んなことをやったと思うんですけれどもね。まだ、その辺りが、やっていないことではないかなと。そこに、可能性が非常に高いと、私は見ているんですね。そういうことが、自然の中に、そういうエネルギーというものを感じた時に、その時に、エネルギー場、あるいは、その自然というものを大切にすると。

◇水を汲む土器も一つの神として・・・

最初、水を汲む土器を、粘土で作るわけです。それが、また、一つの神として、アイヌも日本の古神道も、〇〇の神と呼んできたわけです、そういう人間に出来ない全ての能力を持っているとして・・・。
白川も、最初の水の修行では、こういうふうに手に水を汲んで、それにお祓いを掛けるというのが、外でやる最初の修行ですね。これは、ずっと水を持っていられないんです。その水を入れる器というものが、人間以上に出来るということで神なんですね。少なくとも、そういう自然、その中から起こった、そういう存在を、神と見立てていくようなことが出来る考え方というのは、非常に世界の中では、なかなか、まだ言われていないということがあって。その辺りの自然から入っていくと、古神道をお教えし易いのではないかと、理解していただけるのではないかということを感じた次第なんですね。

◇この里山の役割

ですから、何で、最初に、ここに、里山を作るかということ、あるいは、その中で、生き物と触れ合うとういこと、自然の働きと触れ合う、そして、その次には、それを神と見立てて考えていくと。もちろん、人と人の共同作業など、色んなことはありますけれども、そういう人と人の関係も、家族以外の一対一だけではなくて、一対多で、どういうふうに生きるかとういことを体験して、考える時に、また新しい世界が、子供たちも開けてくるということなると思うんですね。
そんなことが、この里山の役割であり、あるいは、そういう自然というものも、一つのコミュニケーションする存在として、まず向き合ってみるということがあると、大きな展開になるのではないかなと。それで、こういう里山を作らせていただいたということなんですね。ですから、これを学びの場としていただくということで、ここでやっていきたと思っているわけです。まずは、本社もないのに、里山を作ってしまうと(笑)本当は、そこに本社を作ろうとしたんですが、こんなことになっておりまして、その点は、どうかご了承いただいたと思います。今週も宜しくお願いいたします。
ありがとうございます。