0423話:2018年05月08日

◇全て平等でみんな違う

感無量でございます。やはり、素晴らしいですね。お釈迦様がいわれたことは、本当だったんだなと思って聞いていたんです。それは、一人ひとりが、みんな違うんだという言葉がありますね。差別(しゃべつ)は、差別(さべつ)の語源とも言われておりますが、差別(しゃべつ)とは、一人ひとり全て、人間は違うんだということを、文献上というのか、お経の世界でいいますと、そういう表現があるんです。これは、本当だったんだなと、今更ながら、感じさせていただきました。
皆さん、みんな別々な個性なんだけれども、素晴らしい能力者というか。一人ひとりが、平等であるんだけれども、しかし、素晴らしい、突出している存在者なんだなと。そのことが、全員がそうなんですね。
言い方を変えますと、差別(さべつ)という違いの表現ではなく、全て平等にみんな違うということが、今日は、一段と分からせていただいたという感じです。ちょうど、一人ひとりの皆さんが、自分のお経の経文を、後ろに引いて、走ったり歩いたりされている姿が、見えるようでございました。凄く、嬉しいというか。そこに、人の大切さとか、命のほとばしりというものが、きっとあるのかなと。

◇喜びの中で、共に生きる

今日の信原さんの曲にもありましたように、友よ、というか友達というか、その集りが、みんな違うけれども、その集りが、共通の目的を持って生きるということになりますと、それが、友どち、友達というか、漢語でいうと同志といいますか。そういう位置付けになるんだろうということを感じたわけです。
この中今という中に、我々はいいますが、生きている瞬間というものを、その時代、あるいは、「袖触れ合うも他生の縁」というようなことを、今日の午前中にも話しましたが。そんな縁どころではない、非常に深い縁(えにし)で、今、共に、この場を共にしていると。
その事を考えますと、当然、前世というふうなところを考えないと、この縁は追いつかないというか、整合性がとれないような出会いだと思うんですが。その出会いが、前世を考えた、この皆さんとの出会いの中での想いを振り返ろうとすると、本当に、目眩を感じました。きっと前世で、皆さんともお出会いして、そして、命というものを、きっと繋げて来られた、遠津御祖神であると同時に、それが、精神のDNAを共にした仲間の一人ひとりではないのかということを、特に感じた次第であります。

石原さんが、終の棲家構想ということで、今盛んに言っておられますけれども、今日、染川君と昼間の食事の中で、来世も、あるいは、「ゆりかごから墓場まで」ではなくて、死んだ後も、責任を持つというか、そういう想いで、共に行こうとする仲間だということを言われたんですね。
本当に、来世ということが、どういう形であるかは、それは、楽しみのところであると思いますが、少なくとも三世といいますか、三世に渡って、関わりを持つような想いで、この出会いであるとすれば、きっと、それは、より良い社会にも繋がるし、満足した命というか、そういう命の流れというものが味わえるのではないかということを感じた次第であります。もちろん、我々が、特殊な宗教をしているわけではないわけです。大伴さんも、そういう意味では、オウム真理教の追跡者であったわけで、私も、たまたま、宗教学的な立場から、政府にアドバイスしたこともあったわけですが。
何か特殊な人を、魔法にかけたわけではありませんし、洗脳するわけでもありません。一人ひとりの心の底からの喜びの中で、共にいるということ。そして、共に生きるということを良しとするということが、仲間ということ、あるいは、同志ということの意味なのではないかと。
しかも、それは、この社会を、少しでも、平等な社会に、平和な世界に、清らかな世界に、明るい社会にしていこうという意志を、心に秘めて、この集いで、学びが出来るということが、何よりのことではないのかなというふうに思うんですね。それが、仏教でいうところの菩薩行ということになるわけです。

◇我々が目指している世界

ですから、我々は、この大祓という全く、公ということ、まさに、そのまま文字にした世界を、前提にしているということは、大乗の菩薩行ということを前提にした生き方を、共にしましょうという決意でもって、朝、お祓いをあげさせていただいているんですね。
世界の安寧といいますか、全ての罪を、そこでもって、自らが進んで償って、世界が平和になるようにということを祈念するという、凄く大切な菩薩行ですね。
私は、もちろん、今日の色んなヨーガの修行期ではありませんけれども、その内容を菩薩行、すなわち愛行(ボランティア)ということになるわけです。それをしながら、また、カルマ・ヨーガという仕事を行としながら、そして、学びという学生という想いを持ちながら、祝殿講習という秘行というものも、共に、やりながら、終の棲家にも参加すると。
そして、将来の優しい命という伝えも一つの行き場として、しっかりと確認できるような、そういうところまで高めていけるということが、今、我々が、目指している世界ではないのかと。

◇生きる前提にある真面目さ

これは、確かに、キリスト教や仏教やイスラム教が目指した窮極の世界ではあるんですが、そういう世界を、ただただ、教義としてということではなくて、そういう生きるということの前提にある真面目さというか、そういうものを基本にして、生きるということが、古神道の中に残された道であるし、生き方ではないのかと。そういうふうに思うわけであります。その辺りを、こうして、沢山の人達と共に、歩めることが、いかに、幸せなことであるかということを、まず、私自身が、今日もまた、感じさせていただきました。
新たなる次の段階に向けての決意といいますか、更に、その道をしっかりと自覚して、進めようと。一緒に、行ってほしいと。
般若心経の世界ではありませんけども、「ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」と、「共に、一緒に行こうよ」ということを、宣言しているお経でありますけれども。そういうものを共にしていく仲間でありたいと思いますので、今後とも、宜しくお願いしたいと思っております。
今日は、本当に、ありがとうございました。