0427話:2018年05月13日

ご苦労さまでございました。

◇日本文明を自己主張しても、悪いことではない

我々、白川は、一体、何を目指して、世界に話して何をしているのかということですね。
絶えず、考えないといけないところでありまして、ある面では、消えようとするものを、外から見たら、世界全体の中から見れば、本当に、一つの一神教といいますか、その文明の、挟み撃ちにあって、日本列島にしか残っていない様な・・・。
しかも、七十年間、徹底的に駆逐された文化というものが、よく言う風前の灯火に近いような状態にある時に、たいがい文化的なものを含めて、人類学的にいうと、そういう時に、一種の狂乱というか、シャーマンの狂乱が起きて、その結果、集団的に、民族や部族が消えていくということが、もう何千という部族が、この何百年の間に、地上から消えていったというか、そういう歴史もあるわけですね。
もちろん、世界に冠たるというか、戦前は、日本文明というもの、五族協和と標榜して、堂々と自己主張した経緯もありますが。それが、良いか悪いかは別にして、世界に比してそういうことを堂々と言ったくらいの文明というものを持っていたわけでありますから。いたという過去形にしたら、いけませんけれども、持っているわけですから、そういうものを主張しても、全然悪いことではないと思うんです。
少なくとも、この七十年間というもの、あるいは、明治以降の百五十年というもので、鎖国を止めてから、開国してからの一つの大きな試練があったということは確かだと思うんです。

◇自由七科の上に、日本文明の学びの三科を提案している

先月も東洋経済の5月12日号に、プログラミングとリベラルアーツの特集の記事がありました。要するに、これは、文化というものを、もう一度、再構築し学び直しなさいという意味だと思うんですが、おおっぴらに言えないから、一つの学びとしては、ヨーロッパにあるようなリベラルアーツというものの再現というか、それは一神教のためにあるようなリベラルアーツ自由七科でもありますけれども、我々は、その上に、日本文明の学びとしての三科というものを提案しているわけであります。
そういう一神教の装いを変えただけのものではなく、その過去の文化というものを導入するということでは無いわけですね。ですから、もちろん、我々が、いたずらに、シャーマニスティックに、一種の精神的ヒステリー症状になって、それを持ち歩くわけではないということを、明確に表明したいと思うんですね。
それが、いわゆる、シャーマンというようなものが、アニミズムやトーテミズムを含めた、一つのいわゆる、原始信仰や宗教という形での中で、そういう表明が行われるのであれば、同じ様な羽目にあうというか、集団自殺するような羽目になることも起こってしまうわけであります。この千年も、ある面では、そういう意味の集団での一つの隘路(あいろ)に
陥ったというか、そういうことでもあると思うんですね。

◇文化の種を、言葉の種を保持して、しっかりと守っていく

ですから、これからは、今までと同じ様なことをするようなことは、考えていないのであって。そうは言っても、今の日本を社会学的に見ると、左翼・右翼ということではなくて、非常に、ある面では、世界のグローバリズムといいますか、経済的にも、文化的にも、非常に窮地に陥っているのは、紛れもない事実であるし、一方では、未来の社会を冷静に見つめる目を持った人たちは、今の現状を、憂いて、憂いるどころか、幻滅、あるいは既に絶望しているという人達がいるわけですね。
そういう人達の怨嗟といいますか、日本の文明が、文化が、どんどん失われていくのではないかということを、嘆いて、色んなところで、発現が起こっているけれども、それもまた、伏せられているという状況が続いているということが、確かにあるんですが・・・。
その中で、我々が、一番古いといったら、なんですが、古事記や日本書紀という、あるいは、大祓というもの、最近では、源氏物語を、Kくんに、書いてもらいましたけれどもね。
そういう一番古い文学、万葉集も含めて、和歌なども考えないといけないと。Fさんなんかも一生懸命、言い始めてくれておりますけれども。そういう、一番コアにあるような日本文明の、そして、その古神道のところ、そして、言魂(ことだま)の奥にある言霊(げんれい)というもの、あるいは、魂(たま)というものの一番原点にある鎮魂というものを、いよいよ、持ち歩くといったら、失礼ですが、そういうものが、現代の社会に、あるいは、我々の心を、あるいは、この社会の中で、それが、顧みる必要があろうか、あるいは、可能性があるかを、問うてみるということをさせていただいているわけですね。
そういう意味では、我々の一つの試みというのは、アイスランドかどこかで、全ての生物の種を、ノアの箱舟ではないですけれども、ビル・ゲイツさんも集めて、保管するということをしようとして、既に、やっておるわけですが。
我々は、文化の種を、言葉の種を元にして紡ぐという方法もありますが、まさに、我々が、文化というものの種を、しっかりと原種を、少なくとも保持して、しっかりと守っておくということは、今まさに必要なことではないのかと。
それが、古神道というものの中に、一万五千年の縄文の歴史の中で、それが、精神遺伝子として、その中に残っているということであるし、それを、もう一度、確認してみようということになろうかと思うんですね。

◇無くなったように見えても、いつか必ずまた出てくる

白川の高濱浩先生は、「このおみちというものは、その時代に無くなったように見えても、また出てくる」と言われていて、私は、おかしな矛盾したことを言われるなと思ったんですが。表面的に、無くなったように見えたとしても、必ず、いつか出てくるんだよということを、それは、きっと現代の言葉でいうと、精神遺伝子というものも、我々の中に、速やかに出てくる場合も、あるいは、時代を何百年、何千年あるいは、何万年という時代の中で、もう一度、出てくるというか。
例えば、ネアンデルタール人は、我々の直接の先祖ではないですけれども、そういうDNAというか、精神的な遺伝子、人を弔うという優しい魂を持った種族もあったわけですが。そういうものが、四万年経って、もう一度、我々の人生というか、心の精神の働きの中に、蘇るということもあるわけです。きっと、そういうことを、高濱浩先生は、おっしゃったのかもしれませんけれども。
少なくとも、人間の中に、脈々と伝えられている、毎回、斉藤さんが、遠津御祖神として、我々の一人ひとりの、家々の体遺伝子と精神遺伝子を、読み上げていただいて、確認をさせていただいているわけです。

◇人類は、精神の中に神をずっと保持してきた

ここにまた、大事なところがあるかなというふうに思います。
もちろん、古神道というものが、全ての存在を神として見るという見方の中で、神という存在を、ずっと保持して、その実態を、精神の中に、残してきた存在が、人類という存在でもあると思うんですが。
その中で、神というものを、一神だけが、創造したということではなくて、様々な働きとしての多神の神として、それを、遠津御祖神、自然というものの五行(五神)、あるいは、風という存在、空という存在の神、そして、人がよりよく生きるための国津神、そして、宇宙創造に関わるような造化の神々という様な複数形の神々を、階層性の中で、それらの神々を掴むということが、古神道の真骨頂といいますか。
古神道が階段、階層性というもので、織りなされた道を保持してきたということにおいて、少なくとも、神という宇宙の働き、宇宙創造の働きの中にある、存在の一つひとつを確認していくことが出来るような道をいただいているということは、まさに、我々の命の種というものが、神という存在にも繋がっているということが言えると思うんですね。
そういうものを、我々は、編むといいますか、一つの文化として、あるいは、言葉として、編んでいく、それを言葉として、記号として、数字として編み出す、あるいは、音として紡ぎ出す、絵画として、それを紡ぎ出す。
そういうことが、文化の一番元にあるものというか、そういう元にある布斗麻邇というものを、我々に残していただいた、伝承された者として、これから、その実態を含めて、種として、それを残すということを、五十音という意味もありますけれども、それを祀って、この三十年間やってきたのが、言霊神社というものでもあるわけですね。

◇いよいよ祝殿に祀る

これを、いよいよ、はっきりと祀るというか、今、母屋の方に祀ってありますが、こちらも、いよいよ祝殿に祀るというか。
そして、人類の中で、結合エネルギーという、四大エネルギーを結ぶ力として、現代科学とごっちゃにしてはいけませんけれども、そういう霊という産霊の働きのエネルギー場を、我々は、白川は八神殿として、百五十年前までは、吉田神道と共に、守ってきたわけであります。
これも、はっきりと祀るという形で、顕にしてく必要があるろうかと思います。そして、もちろん、それをお伝えくださった、この皇統、白川のおみちで、神の歴史というものを形成することで、我々に、命というかですかね、民族としての命を、永らえてくれた、皇統、天壌無窮万世一系の皇統というもの、まさに、ご皇霊ということになるわけです。
そういうご皇霊を、我々が、しっかりと精神に刻むというか、お祀りするという形も、これから取らなければいけないと。
もちろん、そういう神々の体系が、全国一宮という形で、奈良時代から延喜式の一つのネットワークキングとして、残されているわけですが。それを、我々は、全ての始めの国の神々というふうに呼ばせていただいてやってきました。
ですから、これも明確に、続けるということが、大切なことであるというふうに思います。その実態を、しっかりと心の種として、古神道というか、日本というものの伝統と文化を残すという意味で、再決断にして、そして、それを祀らせていただくということを、今年は、明確にお祀りしたいと思っております。

◇文化の装置化

これを残すためには、やはり、人文、社会科学だけでもダメであって、やはり、事実として、文化の、文明のあり様といいますか、それをエンジニアリングとして、残さないといけないわけで、すなわち、文化の装置化ということですね。
文化の概念はあったり、あるいは、その知の断片はあっても、そこから修復するのは、非常に大変なことなんですね。
ですから、それを科学的に、技術として、誰がやっても、紡ぎ出す事ができる、そういう織り機といいますか、天機置師神という表現もございますが、そういう神として、技術として残すという意味で、我々は、概念装置としてのロゴストロンということで、必ず、こういうふうにすると、この中身が技術的に織りなすことが出来るということを、前提にして、表示しないと、やはり、苦しいというか、文明というものが、あるいは、文化というものの意味が無くなってしまうのでないかと。
そういう憂い、悲しみ、嘆きというところの情緒に陥ってしまうことが、人文科学としても社会科学としても、起こりうるということになろうかと思うんですね。ですから、我々が、いたずらに、信時潔さん、北原白秋さんや、様々な詩人ですね、インドでいうと、タゴールみたいな方でありましょうけれどね。
日本の文明を、あるいは、万葉集というような、あるいは、大祓というような世界を、伝えることは、今、チャイルド・アーツ・アカデミーでも、古事記を読み解いたりして、子供たちに聞かせることは出来ますが。
少なくとも、それが、技術として残すということによって、何時でも何処でも、それが、再現できるということが、やはり、この時代の我々の役割、仕事ではないのかと思います。
ロゴストロンという装置化ということも、視野に入れて、完璧なものを今すぐに作ることが、出来るとは思いませんけれども。少なくとも、技術というレベルに、落とし込んで、堂々と世界に、それを問うてみるということをすることですね。
それは、今のコンピュータの進化によって、そのシステム学習、あるいは、システム化、コンカレント・エンジニアリングというものも、可能となってきた時代として、このロゴストロンというものも、絶えず、そういう事も含めて、高度化してほしいということが、この時代の要請であり、我々が、やるべきことなのではないのかということで、やらせていただいているわけですね。

◇寝ながら健康になる方法

もちろん、昨日も、今年の前半の五回で、健康学セミナーということを、させていただいたということは、これは、これからの人類の健康ということを、何処まで我々が関われるかということで。そういう所をやろうというな、大胆な野心といいますか、そういうものであるかもしれませんけれども・・・。
寝ていても、健康になるようなものも、もちろん、寝るということは、重力と呼応して、健康の一番大事な部分でもあると、眠るということは。
それを、更に、寝ながら健康になる方法ということでの音響ベッドというものまで、考案したりして、これが、これから、何故、人類の中でもって、役に立つかということも、いよいよ説明知としても、出来る五回の健康学セミナーの中で、はっきりと説明させていただくということが、見えてきたということもありまして。これは大きな事業になるのではないのかなと思います。

◇「終の棲家構想3.0」

また、一方で、そういうこれからの人類が、共に、元気に仲良く、生命を全うするという意味での「終の棲家構想3.0」というものも、石原さんを中心としてやっていきます。
これは、いよいよ、「終の棲家構想3.0」をやっていくということは、それは、過去世、未来世、現世というものを、自由に行き来するということが、出来るような観点から、終の棲家として、共に、仲良く今世も暮らし、そして、来世も過去世も解決していくという生き方を共に出来ると。
もちろん、皆、リインカーネーションではございませんけれども、輪廻しなくても良いという方もたくさんいらっしゃると思いますが、もう一回生まれ変わってみたいという方は、生まれ変わった時に、最後の一回になるか、何回になるか分かりませんが、その時も、元気に暮らせるような、亡くなる時には、祝福と同時に、未来世銀行の預金も、していただいていけるような形も、取りたいと思いますが。
そんなことも含めて、終の棲家構想3.0を、今日、石原さんに、始めていただこうということで、話をしていたんですが、色んな自然科学、人文科学、社会科学、未来科学ということを含めて、我々が、色々なところで学ぶべき、これから関わるべきところがあると思います。
そういうことも含めて、これから、それぞれの専門分野でもって、やっていただいていこうということで、とにかく、我々は、平安清明ということを言いながら、安心して、この三つの、あるいは、日本文明というものを持って、そして、次世代に渡していくということをすると。
しかも、平けく安らけく清らけく明けく、それを、明るい社会にしていくためのものとして、清めて、伝えるというか、安心して、伝えると。やはり、この時代、恐れを持ってやるということは、また、そういうものが現れてしまいますから。その表現方法の中に、出てくると思うんですね。ですから、恐れず、かといって、高所平気性ではなくて、やはり、三十階の屋上に立てば、怖いのは当たり前ですが、そこは、空中浮遊をしなくて良いんですが(笑)怖がらずに、その道を。

◇次の世代に安心して渡す

次に、オートポイエーシスというシステム論ではありますが、ラグビーのように、次の世代に、お渡し出来るような形で、安心して渡すということが、良い場所に、良い位置に、トスするということが、少なくとも、今のチャイルド・アーツ・アカデミーでも、少しでも、種を残したいという意味でやらせていただいているわけですね。
少なくとも、絵画、音楽、そして、神話、そして、祓いというものから、お伝えしようということで、また、様々な分野で、それぞれの皆様方のご協力を得たいということで、お願いしますということを、また、皆様方に、お伝えし、ありがとうございますということも、また、この様に、共に、集まっていただいて、本当に、感謝をしております。
やはり、これから、我々が、出る杭は打たれるということもございますから、色々と、これから今まで黙って見ていた人達も、イソップ物語のように、あの葡萄は酸っぱいんだ、という言い草も出てくるかもしれませんけれども、そういうことも語止めしめてということにできますようにと。
そして、誤りのない形で、更に、進めて行きたいと思いますので、どうか、ご協力のほどを宜しくお願いしたいと思っております。
今日は、ありがとうございました。