0434話:2018年05月17日

◇関わるとは、一つの創造が起こるということ

どこに関わるかということだと思うんですね。
要するに、基本は、創造、クリエーションというか、全てが、創造されていくというか、そういうところに向かっていること、鎮魂は、そういう意味ですが。
関わりがあるということは、物同士もそうですが、あるいは、人と物、生き物とそういう関係というのは、その中で、関わるということは、一つの創造が起こるということだと思うんですね。要するに、最初の創造が一つ起こると。物質的にいうと、水素がヘリウムになるような話ですけどね。
今、117番目の原子が、発見されていますけどね。そういうものが、分かれていくということも創造の元からですけれども、そういうものから、具体的な生きた物まで、急に下がって、Tさんがよく言われるように、人間とは、狼を、後に犬を身近に感じて、関わることで人類も進化したという言い方をされますけれども。必ず、そういう関わりがある生物との中で、一つ新しいコミュニケーションによって起こることは、一種の創造ということあるいは進化ということだと思うんですね。だから、全く違う。
もちろん、中間で、例えば、魚と人間の中間で、人魚とかね(笑)それは、まあ、話が妄想的ですけれども、ギリシャ神話には半獣いっぱいあるんですが。そういう中間体を想像して形ができるということは、よくあることです。
それは、物質もそうなんですね。元々は、これも、コミュニケーションで繋げようという試みの必然的な部分というのは、先程の水素ではないけれども、中間子が新物質を結ぶという概念が出現するときには、結合エネルギーが必要となる。
中間子は、湯川秀樹さんが発見されました。こういうことは、日本人が得意なんですね。
コミュニケーションする時、結ぶ一つのエネルギー場みたいなもの、あるいは、結ぶ点のようなものを、見つけることができるという意味では、鎮魂の成果でもあると思うんですけれども。要するに、物事が、創造されるということが、もちろん、妄想の場合も大いにあるわけですが、人類というものは。

◇どの欲を使っているか、関係性が見えてくる

その中で、霊の問題としてのスピリチュアルだということになった時は、18世紀、19世紀で、一気に、あるいは、その前のオカルトという捉え方が起こって、結局、妄想になってしまったということがあるんですが。
そういう、人と存在というものとの関わりで、一番ポイントになるのは、その時のどうしたいのかの欲ということですよね。その物を、自分の欲で使うのか、例えば、愛を自分の欲として使えば、恋になるわけですが。どの欲で使っているかで、だいたい、その関係性が、見えてくるわけですね。
欲には、名前がいっぱい付けられるわけですけどね。ですから、よく我々は、大欲な方が良いですよと言いますが、今の時代なんかは、五感の欲だけというよりも、観念のような、お金が欲しいという欲もありますが、五感よりも、脳の働きの中の知というか、情というか、意というか、これは、カント哲学ですけれども、そういう哲学の発想の中でも、人間の脳の中では欲しいということの、そういう欲を出していくんですよね。今の時代の全盛なものは、知の欲というか。
要するに、知をひけらかすという事は、昔からあって、人より知っている自分しか知らないことということで、他者を牛耳るということ、操作することが、よくあるんですが。その典型的な例が、テレビなんかでも、よくあるんですが、まずは、知、よく知っているということですね。例えば、お米の銘柄が739種とかあるんだと、それで一番美味しい食べ方は、お米をどう使うのかとか、カレーライスにするには、どうしたらいいとか、林さんという人が一生懸命に言うわけでしょ、それを、得意にするわけですね。
知欲の次には、それから、食欲というものを、階層を下げて、テレビで流しているわけでしょ。欲を操るというのも、おかしいんですけれどもね。だから、例えば、端的に言ってしまえば、情でもって、どうにもならなくなるというか、人生、あるいは、人との関係で、私は、絶対に、あの人を許さないということで、闘いになったり、痴話喧嘩になる、あるいは宗教上の争いになることも起こるわけですね。そういう意味では、自分の人生を、全部かけても、その感情を、どうしても、出していくという欲もあるわけです。

◇宇宙創造意志に出会いたいという大欲

もちろん、今、我々は、一番大きい大欲という意味は、毎日、宇宙創造というところから、意志を発するという、知情意の意ですよね。あるいは、お祓いで、皆が、あるいは、自分も含めて、「世界が平安清明であるように」と、色んな祈りもそうですけれどもね。
そういう意志を出すということですよね、祈りというのは、意志の表現ですから。そういうやって、一つの広がりを、欲を出す。
だから、欲が大きいほど良いというのは、最終的には、神の技である、宇宙創造というところに出会いたい、あるいは目撃したいというのが、鎮魂の極意であったりするわけですね。
鎮魂というものは、世界でも、珍しく、禅なんかもありますが、メディテーションが、盛んに牽伝されるということは、そういう役立つということは、欲求の中では、何が一番効果的で、それが役に立つ関係ということは、それは、宇宙創造の始まりの時を目撃するということであれば、宇宙創造の創造意志に出会うということなんですかね。
そういう創造意志場に、自分を組み入れて、そして、その神の創造ということの世界を、自分に重ね合わせて体験するというような意志にすることが、大欲ということになるんですけれども。

◇創造の場に身を置いて・・・

話が飛んでしまって、ドンドン違う方向に行ったので、この辺で、戻しますと(笑)。
要するに、人と物、物と物、あるいは、人と人の関係でも、より良い創造、クリエーションするということを、一神教では、神だけがクリエーションするということになったから、創造的なことというのが、人間が二番煎じであるということでしかなくなったわけです。
ところが、我々は、一神教的な方法ではないから、神の創造の瞬間に時空間を超えて、神の創造のちょうど中今、まさに創造せんとするところに、身を置いて、そして、関わるということは、神と関わるということの中での、神と人とのコミュニケーションの中で、そういうことをしようとするわけですね。
もちろん、人と人、それが、全て、創造ということに関わる技であると。物も、粘土で作るということは、そういう意味でもあると。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」ではないけれども、旧約聖書の中にも、そういうものが出てくるわけです。
伝道の書12章1節
ーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」
と言うようにならない前に、
ーーーーーーーーーーーーーーーー

要するに、創造主という存在と、自分との関係の中で、そういう一つの新しい創造を感じるということができるということ。
ですから、人と人、人と物の関係というのは、鎮魂ということに現れていますけれども、少なくとも、それは、創造ということが前提で、できる技であるというか。それは、正反合の弁証法でも、正分合でもない一つのクリエーションの始点なんだと。
要するに、人間の哲学的な思考の中で、そういうことを、いくらやっても、切りがないと。自分自身を、創造の場に置くというか、創造意志場というものがあるとすれば、その場に、自らを置いて、コミュニケーション、あるいは、物というものに対しての、あるいは、人というものに対しての関わりを持つということが、ポイントになるのかなということを感じます。すいません、今日は、そんなところで。
ありがとうございました。