0436話:2018年05月18日

◇「人類の進化を促す」学び

ライフチェンジの学びですね、まだ5月、6月ですか、あと2回あるんですね。ライフチェンジというのは、なかなか大胆なことと思うんですけど、その学びといいますか、ライフチェンジするための、ベースになる学びというのを駆け足、と言ったら大変失礼ですけれども。学問も、何百とあるわけですけどもですね。「人類の進化を促す」そういう学びをされているというのは、大変な好奇心といいますか、敬服するところでございます。
いろいろ、そういうさまざまな、世界、日本の中でもいろんなセミナーをやっておりますけど、普通は経営、経済的な、あるいは、それぞれの専門分野の研究というか、そういうものを聞かれるということが多いと思いますが、人類の知恵というものを統合して新しい時代に、進化の準備が向かうというのは、そのためにはやはり、一般的にはパラダイムシフトといいますか、枠組みを転換しなければいけないということがあって、なかなか勇気がいる学びだと思うんですよね。
そういう中で、5月12日号のダイヤモンドという雑誌に、プログラミングとリベラルアーツという、特集が組まれていましたけれども、まさに、皆さま方は、リベラルアーツの部分でございますね、それを学ばれているわけでありますけれども。

◇コミュニケーションのためのプラットフォームツール

たまたま日本で初めてのリベラルアーツ学部が、このすぐ近所の大学にありまして、山梨学院大学という駅伝で昔強かった学校があるんですが、そこにもう四年ぐらいになりましたけども、リベラルアーツ学部ができたんですね、私も二年ぐらい教えておりましてですね、特に神道の部分を教えさせていただいたんですけども、一応ワークショップ形式でさせていただいたんですけどね。その時、神道というものを外国人に教えて気がついたことは、人類というか、人と人、人と自然もそうですけども、人と神、というようなところのコミュニケーションプラットフォームなんだということが分かったんですね。
神道というのは、宗教でもなければ、単なる、民族、民俗学的な学問でもない、そういうコミュニケーションのためのプラットフォームツールといいますか、そういうものだと。人と神、人と人、人と自然とか、人と、生きとし生けるもの、そういうすべて自分以外のすべての存在と、どうコミュニケーションするか、あるいはしたらいいかということの、学びとしてあるものが神道であったということを学んだ次第でございます。
そういう中で、ライフチェンジの中に、なにか皆様方に、お役立ちできることが、役立てるようなことが、何かがあればその辺りを、お出しするということで今回は、協力させていただいているわけであります。

◇今のITは、欲望の肥大化した姿

リベラルアーツということは、これはひとつのキリスト教の前提になる学びといいますか、西洋の神学にいくための学びであります。そのために、数学や文学や音楽や様々な学問がありますけど、これがそういう哲学も含めて、神学というか、特にキリスト教神学を学ぶための基本となるような、そういう学びであったんではないのかなと。
日本には明治になって入ってきたわけですね、西周(にしあまね)さんがそれを翻訳されたわけですね、リベラルアーツというものを。自由七科という言い方で七科目あったということでですね。もちろん、メカニカルアーツという部分は翻訳されていないわけですね。
今、まさに、リベラルアーツの中のメカニカルアーツという技術が非常に進化して、特にこの七十年は、明治以降の百五十年の中でもこの特に七十年は戦後、一気に、メカニカルというところでは、コンピューターの部分が特に進化したといいますかですね。最初はIBMの弾道計算のための計算機だったんですね。それが今や、知識事務機といいますか、知識を入れて、それを使うITという人工知能の開発の極みのところまできたというかですね。
これはそこまでそういうメカニカルというものが進化したということは、人類の一つの欲望、もちろん、食欲も、性欲も、睡眠欲も、金銭に関する欲もありますけどもですね。そういう欲というものが、今や、知識というかですね、知識の獲得ということで、知識欲となりました。しかも、それが、貪欲といいますか、さらにそれが機械の中に置き換えられて、肥大化していったりする、欲望の肥大化した姿が、今のITの姿かもしれないわけでありますけども。

◇宇宙創造を学びたい、というところにぶつかる

そういう中で、我々が、そういう欲望の、知識という欲望の中で次に起こってきているのが、「情」というか、そのものに関わる欲望といいますかですね。
これはもちろん、よりよい音楽も美しいものを見たいというようなことも、その時の感情というんですか、それを繰り返して、感じていたいという意味での音楽や絵画もありますけど。そういうものを高度化した情緒として捉えるというところの欲といいますかね、そういうものも含めての今、リベラルアーツというものの理解の中にあると思うんですけどね。
その、知、情、意ということでいいますと、意志というものが、少なくともどういうふうな人生の歩みになるかということを知りたいという意志をチェンジする、今回のライフチェンジという、そう「意志」というのか、どう生きたいかということを発することということで、そういう大欲ということですかね、そういうことに気づいて、その道を見てみたいという、あるいは、追求してみたいということで、様々なリベラルアーツという学問を学んでいただいたと思うんですけどもね。
そういう中で、われわれは、すべて創造されたという観点の中で命というものを感じた時に、それはやはり宇宙創造に帰るというところに、必ず、今、その知というか、その学問というものを学びたいというところにぶつかるわけですね。
天文学やあるいは物理学、数学や哲学を、そういう宇宙創造ということの中で捉えるというんですかね。ですから、宇宙創造ということがいったいどういうところで行われたかということを知るところが肝心な部分ではないのかと。それは今までは宗教的なそういう学びの中であったわけですね。

◇世界は日本の学び「和学」の全体像が見えていない

それが、リベラルアーツということの学びのその先にある神学というものを学ぼうとしたということになるわけですね。それを日本というものの、学びの中でいきますと、それは「和学」ということになるわけですね。
日本の学びというのは和の学問である。もちろん、和歌もあれば、古神道もあれば、「和算」という、日本の数学もあれば、中国から入ってきて、儒教や道教、インドからの由来の仏教も学問として学ぶ時期があって、日本化したものも沢山ありましたですけどもですね。
今、われわれが「和学」と言っているものが、いままで、世界に学びの全体像がまだ見えていないところがあるわけですね。それが、今われわれがリベラルアーツ(自由七科)の先に、あと三科あるんじゃないんですかと言っています。それを、祓いと鎮魂と言霊という言い方をしているわけですね。
今もちろん、我々は数学という、一番進んだ学問の中で自然科学というものを見ておりますけどもですね。少なくとも日本のはじまりの数というのは「ひふみよいむなやことだま」という言い方もありますけども。数と言葉が一緒になっている学びというものが、我々はそれを「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそおたはくめかうをゑにさりへてのますあせえほれけ」と10進法、25進法、50進法の数の音ですね、知覚の音で数を表現しておりますけども。そういう「数の学び」ということですね。

◇言葉の元にある「言霊」を学ぶ

そしてまた、今、自然科学ではなくて、人文科学の中では、我々は、一番中心になっているのが、一番進んだ人文科学の学問が言語学ということになりますけども。言語学はまさにその「言語で科学する学びである」ということからしますと、確かに言語も不確かな部分もございますけども、そういう言語をもって科学するという学びは、まさに、人類には今のところ、それしかないわけですが、その言葉の元にある言霊というふうなものを学ぶ必要があるし、そのことが一つの学びとしての言霊という概念は日本にしかないということもあります。
ホーリーワード、聖なる言葉というのは、世界の経典の中にもありますけど、そういう言葉が、「言霊(ことだま)」ということではなくて、「言霊(げんれい)」という表現に一番近い概念は、それが「ロゴス」というギリシャ語の中にかろうじてあるというわけですね。
それは日本語でわかったのは、西洋とのはじめてふれた、ギリシャ由来の、ギリシャ語から、旧約聖書を翻訳した時にヘボンが翻訳した時にはじめて「はじめに言葉ありき」という、ヨハネによる福音書第1章1節のところの「ロゴス」を「言霊(げんれい)」と翻訳したのが始まりになります。
これは明治の初めから二十年間ぐらい、日本の聖書の中では「ロゴス」を「言霊(げんれい)」と呼んでいた時期もありますけど、まさに言語の元になる学びというものが「言霊」だろうと思います。そのことも日本の和学の中の大事な学びで、日本では、それを一条家や天皇家の賢所(かしこどころ)の中の文書として残っておりますけども、そういうものを、新たに研究しようとしたのが、明治以降の「言霊学」となりました。

◇罪という罪はあらじと「祓い」清むる

もちろん、今、あげさせていただいた「大祓」なんかも、日本の文学の中の一番古いものの学びでもあるわけですね。一方で、「祓い」の宗教的な意味では、すべての病と、すべての人の罪というものを、「罪という罪はあらじと祓い清むる」というかですね、そしてそのすべての罪と汚れから起こるそういう人の悲しみといいますか、難儀というものが消えていく、あるいはそれを目指していくというのが世界観といいますか、神の世界の消息であるといいますか、そういう実践のための方法をもっているというんですかね。
もちろん18世紀、19世紀に神智学という学問があって、神を知るということの学問までも出てきた、一つのスピリチュアリズムから出てきた経緯もありますけど。わたしはその日本の、和学の中の神との関わりは神を知ることだけではなくて、神を知覚するというんですかね、覚えるというか自覚にのぼらすということですね、そういう学びが、白川の大祓に残っている学びではないかということで、この部分も大切な、我々は神をこの手で掴みなさいと言われてきたんですね。
一神教で言う、遠くにある創造の神を信仰することではなくて、創造の神を含んで、それを手に取って迎えるという、そういう大胆なところがあるわけですね。

◇宇宙創造の瞬間を目撃する「鎮魂」

そしてもうひとつ、三番目に鎮魂ということがあるわけですけど、これが白川の学びの中に、六種鎮魂という作法がありますけども、その作法も実は、世界で仏教なんかの最後の宝といいますか、禅の中にあるような「悟り」というところを、人が人生を「悟る」というところで手段としての禅という世界の中にあるように我々はそれを鎮魂法という方法として伝えられてきているわけですね。
それも和学の一つでございます。これは、端的に言いますと、神の宇宙創造の瞬間を見据えるというか、目撃する、そういう意味での学びが鎮魂法のなかにあるのではないかということがありまして。

◇「祓い」と「鎮魂」と「言霊」という三科目

「祓い」と「鎮魂」と「言霊」という、神を掴むための学びを言葉として学びをできる源の、もちろん数も言葉でして、そういう点では今の自然科学、数学、物理学もそしてその言語、文学も、詩もすべて、ある面では言葉の源である言霊という「布斗麻邇」というようなところに大きく関わっているとはいえるわけですけども。
そういうものを、三科として、三つの学問として学ぶということが、今、我々がやろうとしているところですね、その学びを提案するというかですね。
神学は修道士や修道女の皆様方が二千年の長きにわたって、あるいはユダヤ教のあるいはイスラム教も含めてたくさんの学びの学問として神学としてあったんですけどね。我々が今、古事記というものに残された暗号といいますか、そういうものを、「祓い」と「鎮魂」と「言霊」によって、その神話を神話知として明確にして、世界にそれが本当に役立つのかどうかということを試しながら実験祭祀学という言い方がありますけど、そういうことでやらしていただいているわけです。

◇民族の歴史の中での天皇の役割

その中で特に、ちょうど、三十年という月日の中で、平成の時代から今度は何と呼ばれるかわかりませんが、来年ですね新時代になるわけですけども、そのときに鎮魂祭に次いで大嘗祭が行われるわけですね。そして新しい125代目の天皇をお迎えすることになるわけですけれども。少なくとも、ちょうど縄文から弥生と言ってもいいと思うんですけど、歴史を追って、三千年といいますか、その時代を経て、今天皇の世紀が125代のという一つの大きな進化の節目を迎える時ですね。この伝えられてきた日本の社会というのは、やはり天皇という制度によって、すべての我々の精神遺伝子、体遺伝子、DNAをですね、伝えていただいたということになるんですね。
それは縄文、あるいはもっと昔からいえば、ネアンデルタール人のDNAの一部を受け継いでいるかもしれませんけどもですね。そういった何万年という単位の人が神と、あるいは、自然と触れ合った中で民族として一つの形成されてきた歴史の中で天皇の役割というものが非常に大きな意味を持ってくると思いますけども。
その天皇を続ける道を立ててきたのは少なくともそれが、白川の発展ですね、古神道であったということでそのことも、それを明確にお出ししなければいけないという時にきているということもございます。

◇ご先祖様に申し訳ない

そんなこともございまして、ちょうど大きな節目を迎えて、日本の文明といいますかですね、世界の中で日本文明はですね、七大文明といったりしてもいい、そのうちの一つだと思います。
それがいままで、世界にどのように表現したらいいか、わからなかったところがあって、表現しきれなくて、まだ理解されていないところを、それを一番、今の時代の進んだ学問といいますか、そういう科学も含めて、自然科学、人文科学、社会科学の中で、それを提案して見ていただくということは、この時代の日本の役割なのではないかなと。
もしそれが世界の人々の平和や安寧のために役立つならば、どうぞお役立てくださいという意味の、俊敏と公開という、意味合いでそれを提案して、世界に見ていただくということをしなければ、これは、我々、日本のこの一万五千年という、少なくとも縄文期からの中で培った学びというもの、あるいは芸術というものをお出しして、そして見ていただくということをしないと申し訳ないというかですね。先祖に申し訳ないのではないかというふうなことを感ずるわけですね。
そういう意味では、皆様方の一人ひとりの家々の遠津御祖の神、すなわちご先祖様のすべてを、どうぞ、心開いて、日本の神々に、あるいは、宇宙の神々に、どうぞお繋げくださいというような意味合いのそういう中取り持ちをしていますからね、そういう意味で皆様方のご先祖を表現させていただいたわけでございます。少なくともそれは一つの始まりだと思うんですね。

◇神として神を学ぶ

あと、自然というものの、もちろん木火土金水のですね、ひとつのわれわれは縄文時代からそれを神とする、そういう道を長らく歩んできた民族として、自然というものが確かに、我々がこの身も自然の中から出てきていますからすべてひとつだと思うんですけども、そういう、自然との一体感というものを、五行という形で学ぶ。
そしてそれが確かに、土の神、木の神、水の神、であるということを確認するということですね。そして自然というもの一体となることによって、自然というものを大切にというところにいられればいけるんじゃないのかなと、そういう意味ですね。
これは何の宗教でもないわけですけども、あとですね、あるのが、我々はそれを「国津神」という言い方をします。これは、人と人が楽しく、明るい社会で暮らしていけるための、その働きというものを神とするわけですね。その一つひとつの働きですね、それは家というものを建てるには、家というようなもの、そういう神ですね、家もまた神である、食器もまた神である。もちろんそれを食べる存在も、酒も神であるし、お米も神である。そういうことの、国津神という世界を学ぶ。
そしてその上にさらに「天津神」という、宇宙を創造したそしてそれを働きというか、それの神々を学ぶという、そういう階層性になっているわけですね。神というものですね。
皆様方一人ひとりも神なんですけども、それは遠津御祖の神という生きた遠津御祖の神としての一体ではありますけども、その神が自然と交わる。そして、それが生きるということの社会というものを作っていった時のその神の働きがある。

◇リベラルアーツ、メカニカルアーツ、その先にある自由三科

その全ての神々につながるような学び、そしてその一つひとつを手で掴む、神を食うというような言葉を高浜清七郎先生という孝明天皇を教えられた白川の学館もありますけどね、そういう学びがあるんだということを、今回ぜひ知っていただいて、もし勇気のある方は、それも学んでみようという、このリベラルアーツ、メカニカルアーツ、そういう科学の技術の先にある自由三科といいますか、その中にぜひとも加わっていただいて、学びをしていただければ、その内容については余すところなくお伝えしていく所存です。
その用意も着々と準備しておりますので、またお越しいただけましたら、非常に嬉しいかなと思っております。そんなことで、今日はなんか宣伝みたいなですね(笑)すいません。申し訳なく思っておりますけども。どうぞ頭の隅にでも入れておいただいて、6月またお会いしたいと思っております。
今日はありがとうございました。