0437話:2018年05月19日

◇日本のリベラルアーツ「和学」

昨日と同じことは言えませんで、論文は書けるのですが、答案は書けませんで、変な話ですが、昨日とは全然違うことを言うかもしれません。昨日言ったことを要約をまず言わせていただいて、今日、出てくる新しいことをお話しようと思っております。
みなさんがライフチェンジで学ばれていることは、リベラルアーツと言いますか、伝統的にはヨーロッパの神学を学ぶための前提になる学問ということで、いろいろな科学、文学から、さまざまな音楽、芸術から、いろいろありますけれど、みなさんも、この沢山の多様な学びをされていらっしゃって、敬服する次第であります。
それらを学んだあと、次に何を学ばれるかというのはですね、一昔前のヨーロッパでは、それは神様を学ぶ学問ということになるんですね。だからキリスト教であれば、キリスト教の神学を修道士や修道女の出家された専門の、あるいは牧師さんのための学びということになるのではないかと思いますし、イスラム教であればイスラム教の神官、ユダヤ教であればユダヤ教の神官、日本でいえば神官のような存在、そういう方々が神の学びをするということになるかと思うのですけれど。
日本ではそういう学びを「和学」と書きます。和の学びということになるのですね。もちろん古神道は和の学びの中心ですが、その他にも鎮魂とか、言霊というか。

◇自由七科の上に「お祓い」「鎮魂」「言霊」の三科がある

元々リベラルアーツというのは自由七科という七科目から始まったわけですが、五百年くらい前は、もし自由七科の上に、三科あるとすると、私はそれを日本の和学で言うと「お祓い」と、「鎮魂」と、それから「言霊」の三つではないかと言わせていただいているのですけれども。
実は、我々は、この三科目を毎日この祝殿で学んでいるというか、この学びは、元々、スメラミコトといいますか、天皇ご一人のための学問といいますか、そういう意味合いがあったと思うのですね。ですから、神道では、四魂の鎮魂は教えても、白川の五魂の鎮魂は、これは統合する魂の働きの精魂(くわしみたま)ですが、そのことはやんごとなき方以外には、教えなかったわけですね。
これは白川が、明治の大嘗祭以来、天皇家からお呼びが掛からないようなときが長くあったものですから、その一環で、秘密がようやく出てきたといいますか。天皇はスメラミコトと言うくらいですから、言葉を統合する、あるいはすべての教えを祭祀の中で統合する働きというのが、天皇の帝王学としてあったわけですね。

◇大祓は宣命、天皇が神から授かった言葉

宮中に仕えていた方々、百官ですが、その百官に天皇が宣命という形で、こういうふうに生きなさいと、一つの守るべき項目といいますか、神から授かった言葉が、大祓の言葉ですね。
これは日本の文学としても一番古い文学であり、非常に大切なものでありますけれど、それは天皇が神から授かった言葉で、これを百官として宮中に仕えていた方々に、年に二回、六月の晦(つごもり)と、十二月の大晦(おおつごもり)、今でいう6月30日と12月31日に、その言葉を宣命として宣るということをしてきたわけですね。
ですから、その内容としては、基本的には、天皇の言葉というか、後々にそれを神主さんたちが民に伝えることも、されるようになったということですね。後には、日本の国を守り、天皇をお守りする部族長(伴男)のためにも大祓をあげていたということもありますけれども。

◇鎮魂とは自然と一体になる行法

鎮魂ということは、五行という、自然と一体になる行法ですね。
たとえばよく、ローマ法王が大地に接吻しますよね。それは大地と一つになるというか、大地に神のご加護があるようにという意味合いもあるでしょうし、仏教でいえば、聖地を巡るときに五体投地といって、身体を大地に伏せながら歩むという歩み方があるのですが、そういう大地と一つになるという方法、帝王のためにある所作の一つというのが六種鎮魂ですね。
白川の入門から、次に進むときの作法が六種鎮魂ですね、荒魂・和魂・幸魂・奇魂・精魂と言って、手を組んで、ふうっと息を吹いて、大地に魂を鎮める。すなわち、五行、木火土金水の魂を鎮めるということは、神につながるということですね。土の神、火の神、木の神、金の神、そして水の神の魂を鎮めるというか。
レクイエムという意味の鎮魂は、亡くなった方で成仏できない方の御霊を鎮めるという方法もあるわけですね。それがレクイエムであり、もう一つが五行の働き、あるいは自分の五魂の働きが最高度に発揮されるようにという働きを引き出すことが鎮魂ということですね。

◇今日、この祝殿の中で皆さんと・・・

ですからこれも、天皇の行というか作法のところになるわけですね。
要するに、リベラルアーツが終わった後の三科というのは、祓い・鎮魂・言霊という、和学としての帝王学の学びがあるということですね。
ですからこの祝殿の中に入っていただいて、皆さんと今日やっていただきましたが、その祓いが今日ありました。祓いは天津神の祓い、そして大祓は国津神と言ったら失礼ですが、罪というもののすべてを清めるという、そういう働きですね。
これはキリスト教なんかでいうところの原罪まで含めた祓いというのが、大祓の言葉の中にすべて入っているということになっているんですね。
ですから、白川は宗教ではありませんが、宗教の目的とするところのものは入っているということですね。それが、祓いをあげる、大祓をあげるというところの役割の一つにあるんですね。

◇言葉と数に感謝する、一二三の祓

そして、一二三(ひふみ)の祓というのは、五十音ですけれども、五十の音(おん)というのは一つの言葉であるし、数でもあるんですね、言霊という。
白川では、「ひふみよいむなやことだま(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10魂)」ということを言いますけれど、十という十進法、それからフトマニという二十進法というのか、あるいは、ユキ・スキの二十五進法というか、そして、イズラという五十進法というか、25の3倍の七十五進法というか、25の4倍の百進法というのか、要するに日本の数、音の進化ですね。
今は、84種ほどの日本語の音、表記になっていますけれど、そういう音と数というものが、世界では、その進化の過程は、アルファベットに現れている数は26です。それが基本になって、二倍、三倍、四倍と進化していくわけですね。そう進化学的には捉えることができるわけです。
このように、これも我々は一二三という一音一音をあげる祓いがあるわけですが、これは白川に伝承されていますのは、一音一音を神様からいただいたから、人になれた、そして、すべての生活、文化というものを織りなせるということで、言葉と数をいただいたことに感謝するということで、「ひふみよいむねやこともちろ・・・」を三回唱えるということをするわけです。

◇デジタルに使える日本語の特徴

もちろん、言語からすべての文化・文明が発生しておりますから、当然世界に六千とも七千とも言われる言語がありますけれども、その中で、世界語になりうるような意味の言語というのは、最小単位に区切れて、しかもそれがデジタルに使える、そういう言語であるということが、非常に日本語の言語の特徴であるということでですね、そういうテクノロジーにも使えるような言語が発達していたということになります。

もちろん、リベラルアーツの中に実はメカニカルアーツといいますか、デジタルなものもリベラルアーツという学びであるということが、明治のときにあったんですけれども、それを西周(にしあまね)さんがその部分を翻訳していなかったということがあるんですけれども。
でも少なくとも、そういうデジタルに言語というものが、数学、あるいは物理学という自然科学にも役に立つ、そういう言語であったという幸運もあったわけです。それが言魂というものの本質が、言霊(げんれい)というもう一つ上の階層のものとしてあるというところが稀有のところだということですね。それもこの祝殿の中でお祓いをするということですね。

◇デジタルで学べる六種鎮魂法という悟りの方法

さきほどの荒魂・和魂・幸魂・奇魂・精魂、と鎮魂ということの意味は、世界の中で一番悟りということを主に実践してきた仏教国が日本であり、特に禅というものは未だに世界が注目しているものです。
この禅の難しい公案がなくても、それをデジタルメディテーションで学べるというか、この最初の悟りの方法が六種鎮魂法だということであるわけですね。
ですから、この祝殿に入りますと、鎮魂と言霊とそれから祓、大祓というリベラルアーツの自由七科の先にある三科が、すべて入ったものを我々はここでもって日々、研鑽しておりますけれども。朝ですね、共に公への意志の決意表明の祓いをあげて、一日を始めるということをさせていただいております。
それを、宗教ではないけれども、全ての宗教が本来果たさなければならない役割のところはすべてありながら、しかもそれを実践するために学べるというところが、この白川の特徴ではないかな、というように思うんですね。まあ、非常に自己宣伝で、あまり得意ではないのですが、言ってしまいましたが。

◇欲望とともに人類は進化してきた

また、今の時代の一番のテーマとなっているのが、メカニカルアーツ、ITという部分で、いよいよ2045年には、人工知能が人間の知能を上回ってしまうというシンギュラリティーが起こるのではないか、ということがすでに言われているんですね。
そういうところに至って、それでも人間が進化できるのかというか。
ある面では、欲望とともに人類は進化してきたとも言えるんですね。人工知能というのはある意味では人の知識に対する欲望ですね。ITは、知欲の一つの結節点といいますか、知の欲が最高度に肥大化したときに、それを自己を超えて、自己の外にある機械として、装置として欲を実現するというところまでいく。自分のアナログ的な、脳の中では十分ではいかないからですね。それはある面では並外れた天才、あるいはたとえばサヴァン症候群の方のように、瞬間に見たものを細かく描けるとかですね、計算ができるというような、天才というか、そういう存在は、相当DNAを大転換させないと難しいところもありますね。そういうふうに、アナログ的には行けないところも、機械装置ではいけるというもので。特に、この七十年間はですね、コンピューターというものの進化で装置化を図ってきたんですね、それはある面では知の欲ですよね。
知に対する飽くなき追及ということが、もちろんそれは科学でもあるわけですけれども。
そういう知の欲を満足してですね、そして特に脳の中に機械を埋め込んでも、それほど、楽しいかどうかは今の我々の情緒では分からないところですよね。
もちろん、食欲や、睡眠欲というのはですね、どうにも我慢できないと。千日回峰行を終えて大阿闍梨になるときの最後の行は、九日間不眠不休で飲まない食べないということを実践されるわけですね、強靭な精神と肉体を持った人がやってですね、酒井さんでしたかね。なかなか達成できる人がいない。体の欲の中で特につらい睡眠欲という、そういう中で、やっぱり難しいですよね、絶えず鈴を鳴らしながら、起きているということを九日間示さなければならないという、大変な荒行どころか、苦行をされるんですよね。

◇生きとし生けるもののために役立つ「大欲」

まあ、欲もいろいろあると思いますけれど、知の欲というものの先にも、欲はあるわけですね。カント哲学でいうと、知情意のところから見れば、情の欲というか。これはいろいろな意味の、情も絡んでですね、愛も絡んだ、いろんな変形した欲になったりすることもございますけれど。
まあそういう欲もあろうかと思うんですけれども、その点はまた、一つの芸術の世界も、ある面ではそういう欲かもしれませんですね。よりよい音色、あるいは美しい絵画、あくなき美への追求ということも、これもまた大変な欲であるというふうに思います。
また、意の欲というのは、形の見えにくい、こうありたい、ということの欲であるかと思います。これは私的な意志の欲から、公のところの意志の欲まであるというところでですね。今日のところでいえば、菩薩行というのは愛業とも言いますけれども、奉仕行というか、そういうみんなが幸せになるために、自分の意志をそこに向けて生きるという生き方もございます。これは非常に大きな欲だと思います。
私はこの欲を「大欲」と言って、公の欲に分類しております。これは生きとし生けるもののために役立つ大きな欲だろうと思います。

◇公のことをするのがとても楽しい

これも、天皇というのは公のことをするのが楽しいという、そういう教育を受けるわけです。これは白川がお教えする、修行方法があるわけですね。それは公というのが、とても楽しいというところを修行によって、もたらすというかですね。ですから、今の時代が公のところにだんだん人類も、日本の人たちも、ある面では私欲と公欲が分かれる、そういう転換点が訪れていることもありましょうし、そういう、時代の進化するときには私欲と公欲が分かれることがあろうかもしれませんが、今までは日本では、そういう公を、大名さんとか、天皇陛下あるいは、その意を受けた政治家にお任せしてですね、公の欲をしっかり持っていただくということで、済んでいたかもしれません。
今は、それを皆さんで担っていただくことが必要な時代というか、そういう方々が増えれば増えるほど、よりよい社会になることが分かってきたということがありますから、公のために尽くそうというそういう思いを、今日も祝詞の中で先ほど、斉藤神主がそれを表明してくださったわけですね。
もちろん、我々は、そういう公ということを目指す中でまさにそれは天津神、国津神の祈りというような、そういう社会の平安清明ですね、平らけく、安らけく、清らけく、明らけき社会にするための働きが、まさに神の働きということになるわけですね。ですから、その神を迎えて、共にそういう思いで生きるということ、そういう神を迎えられる存在になるということが、一つの大きな修行であり、それがまたリベラルアーツということの、最後の三科ではないかと思うのですけれど。

◇まずは生きた遠津御親神という自覚に至る

その辺りを、どうしたらできるかというと、それはやはり、神というものをつかむということをするための、一つの階段がしっかりないとそれはできないわけですから、その階段があるかどうかを、それが信仰という形ではなくてですね・・・。信仰になると、その期限がいつになるか分からないからですね、すぐにでも神様を迎えられる場合もあれば、一生かかっても、亡くなった後になる、あるいはまた生まれ変わっても、となると六道輪廻ということになりますからね。
それで今回は皆様は、リインカネーション・ライフチェンジを学ばれているかと思うのですが、それはやはり神をつかむというところに、どうしたら行けるかという、その正確な鳥瞰というか見取り図というか、過程がしっかり描かれているか、あるいはそれが実践できるものであるかというところが、たぶんポイントになろうかと思うんですね。
そういう意味で、今日は皆様方に、皆様方の家々の遠津御親神をお迎えしてですね、口はばったいようでございますが、まずはご自身にお迎えなさり、皆様一人ひとりが、生きた遠津御親神という自覚に至るというか、その存在であることを感得することです。
DNAで見れば、お父さんお母さんという別々のDNAがありますけれども。その二つを受けて、お父さんでもお母さんでもない、そういう存在になるけれども、それはお父さんからも繋がっているし、お母さんからも繋がっているというような、そういうところで精神遺伝子、体遺伝子を受けている存在として、それも神だという認識ですね。もちろん、亡くなった先祖も遠い神ですけれども、自分自身も一番先頭に立った遠津御祖神である、というのが白川の神というこのの始まりの認識なんですね。

◇木火土金水という存在を迎え一つになる

その上で遠津御祖神という自覚に立って、今度は自然という木火土金水という存在を迎え、一つになる。もちろん我々のこの体すべてが無くなれば、すべてこの自然というか、天然というか五行に還っていくわけですね。
もちろん、魂(たま)はまた、別のところに還る。元つ御座(もとつみくら)に還ると言いますけれど、そういう存在として、すべての命というものを、働いているもののすべて、大地というか、五行と一つになるという技を、五行の修行といいます。それがまずあるんですね。
これはどんな感覚で神を迎えるかというか、自然を迎えるかというところは、特に縄文以降ですね、一万五千年もそういう学びをした民族としてその方法を持っていると思うんですけどね。この五行の中でもまず、水と一つになる、そして、土と一つになるという・・・。人間の身体は70%は水ですね、脳は92%が水ですから、水そのものであるわけですけれども、そういう存在が弥都波能売神(みづはのめのかみ)というんですね。水の神様と一つになるための修行があるわけですね。そういうことを通じて、ご修行する、ということもありまして。

◇今度は国津神を迎える

五行の修行が一段落すると、今度は国津神という、みんなが仲良く暮らせるような、そういう社会のための働きというのが国津神という意味なんですね。それは当然、みんなのための公のために一緒に生きる方法というところが神の働きの目安になっていてですね、それは仏教でいえば菩薩ということを行う存在、我々はそれを神道でいうと国津神の存在と、一つになると言います。国津神を迎えるというのは、その神と一如となって、その働きをする。
これが、社会のために生きることだし、家族のために生きるということも同じことでありましょうし、地域のために何かをする、ボランティアをするということが、少なくともそういう働きを共にするということに繋がると思うんですけれども。

◇「公のために尽くさんとするそのあかき心」

そういうことを、共にできる道を白川では言うわけですね。ですから今の時代がそういうところまで来て、学びを進めていくというところに、今、それが前提となる、芸術や音楽も含めた、科学も含めて、「公のために尽くさんとするそのあかき心」ということを言いますけれどもですね。
そういうところに繋がれば、生きていて、それがまた楽しいというところに繋がれば、生きた甲斐があるという、そういうところが、新しい時代の一つの生き方と言いますか。
知の欲が限界まで来たとしても、さらにその先にある情緒という世界ですね、情緒というのは他の言語にはないものですね、感情というのは他の言語にもありますけれどもですね。
情緒というのは岡潔先生が、紫色をしているというようなことを言いましたけれども、そういう情緒というところも探るというかですね。
それは多分、菩薩の情緒ということになるでしょうしね、国津神の情緒といいますか、神の情緒というところにも繋がると思うんですけれども。
そういう、神というものを、少なくともそういうところにしっかりと行ける道が開いているかどうかというところがですね、これからのすべての学びの大事な部分ではないかと。その神を場合によっては食べてしまう、あるいはこの手でつかんでしまうというような、そういう世界に至ることが前提にあれば、これからの社会というものがよりよい社会になっていく道になるのではないかと、その辺りを今度、六月に皆さんに詳しくお伝えできればなと思っております。そんなことで、また、お会いしたいと思います。またよろしくお願いいたします。
今日はありがとうございました。