0438話:2018年05月20日

◇十字と✕で八方に繋がっていく

今、お祓いの終わった後の空が、深い青で、鯉のぼりの子供の色みたいな青でしたけど(笑)とても綺麗な空に、雲が浮いていました。
田植えの田というのは、音としては、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の「た」で、記号でいうと、十字で、神産巣日神(かみむすびのかみ)の神が、✕(ばってん)になります。ヨーロッパのほうでは、両記号共、十字ですから、キリスト教の印ですけれども。口(くにがまえ)の中に、十字というのが田となります。
高御産巣日神の「た」と田んぼの「た」というのが、たぶん、同じ意味だと思うんですね。我々は、それを、一つの「とほかみえみため」の連続的に唱える時に、十字と✕で、八方位になるわけですが。要するに、これが、高御産巣日神と神産巣日神で、末広がりというか宇宙が、八方に繋がっていくんだと思うんですけれど。
それを、十字になる時は、その時というんですかね。✕(ばってん)の場合は、処(所)というんですかね。真ん中が、位置というかですね、存在、あるいは、発生もそうですけれども。たぶん、時置師神、所置師神、それから、位置師神というものが、最初に、祓いをする時の「とほかみえみため」という八の言葉になっていて、真ん中を自己存在の起点にして、後ろから一音一音を意識して置いていくことをしますが。
四種の場合は、こういう拍手があって、真ん中の拍手が、最後、五、五になるんですね。
これは、魔法陣というか、数も、一と九、二と八、三と七、四と六、五と五というふうに、足すと全部で、十五になる基本的な魔法陣で、柏手も打ちますが。

魔法陣の例
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492
357
816
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それも、結局、八方位と真ん中の五の位置で、15で、時間と場所と位置というふうなもので、きっと、描いてると。だから、最初に、高御産巣日神、神産巣日神という宇宙の始まりを、天之御中主神からですが、高御産巣日神と言った時の「た」というのが、一つの存在、時間の存在ということを、最初に表明したのではないかということを感じたんですね。
言霊で言うと、ス→ウ→タ(子音の始まり)→カ(マナコ:真名子)。ですから、水を蓄えるという意味の代(しろ)を掻くというかですね。

◇生きることの一番の基本を振り返る

ここの場所は、元禄時代に、田んぼを、新たに作り直したというか、その時に、粘土を下に敷いて、それで、プールみたいなものを作るわけですね。その中に、土を入れていたんだと思うんです。そういう畑から田んぼになるような所の、ちょうど境目が、今日の場所なんですが。その所を、三嶋神社というか、三島明神という江戸時代の七沢家の地図には書いてあるんですが。
その参道の土に、畑の土を持って行った経緯がありまして、この場所というのは、ちょうど、田植えをする場所の北側は、全て、この地域の苗代であったんですね。私が子供の頃までは、苗代というものがあったんですが、その後、田んぼに植えるというか、田植えをしていたんですが。ちょうど、苗代のところで、苗代は、もっと西の方にあったんですが、それは、弥生から縄文のもので、身延線を越えた辺りは、縄文の遺跡になるんですが。
縄文時代から、だんだんと甲府湖が、干上がって、稲を植えやすいようになっていったというか。そういう経緯があって、江戸のところは、ちょうど、この辺りが、畑から田んぼに変わる場所であったということで、弥生式土器が、いっぱい出てくるんですね、田んぼの跡から。
ふとまにの里のちょうど西側からは、発掘調達をしないと開発許可が降りないんですね。
だから、相当、西側の方には、遺跡というんですかね、縄文と弥生の遺跡が残っておりまして、それを発掘して出たら、緊急発掘になるので、暫く、何も使えなくなるんですね。なので、ちょうど建物を建てることがなかったので、田んぼで良かったんです。
これは、金山先生にやっていただいているわけです。そんなことがありまして、時代を超えて、もう一度、きっと思い出すというか、日本の、あるいは、縄文からの流れでいうと、やっぱり、狩猟と採集と栽培という生きるための基本のような、特に農業というか、生存のための基本的なことで言いますと、稲の栽培ということになりますが。
その前は、栗とか、そういうものを、縄文人は、栽培していて、どんぐりとか色々とあるのかもしれませんが、特に、栗の木を植えて、そこから、栄養を得ていたんではないかと思うんですが。
そういう一万年という単位の中で、日本の縄文文明の中で、生きるということの一番の基本にあったものを、ちょうど、もう一度、振り返るという機会というか、それがどういうふうな持続可能社会ができていたのかという、これからの人類の社会が、平和な社会に行った時に、どういう形で、より良い暮らしが可能になるのか、あるいは、人と人との関係というのが出来るのかというところが、やはり、緊急な人類の課題としてあるんじゃないのかなということでございまして。

◇共生の方法論を、世界が求めている

その内容を突き詰めていく時に、やはり、文明の一番の根幹にあったところの生きる道といいますか、それが、古神道であるということで、それに、一番のポイントになる祓いの言葉や言霊や鎮魂というような、全て、日本の縄文期から伝わってきた、共生(共に生きる)という生き方ですね。
当然、自然というものの猛威にさらされたら、一溜まりもないわけですから、その中で、様々な生き物や、あるいは、自然と共生するということを通じて、一人ひとりは弱いけれども、皆でもって生きるということで、共に助け合っていくということが出来たからこそ、今の我々があると。そういうDNAとしての、精神遺伝子、体遺伝子として残されたからこそ、今、この様な一つの時代の転換期を迎えることができていると。
今や世界全体でもって、平和に暮らすということを、求められている時に、兵器類も、原爆とか水爆とかがあっても、平気で、それを恐怖に感じないような時代で、一方では、非常に追い詰められているところもあるんですが。そういう中で、今、共に、助け合って、生きないといけない時の方法論というものを、世界が求めているということになると思うんです。その時に、どう人と人、あるいは、人と動物、あるいは、人と自然、あるいは、人と神と、どういうコミュニケーションをしていけばよいかという中で、特に、人と神の関係の中に、たぶん、解答があると思うですが。
それを、我々は、今までの遠津御祖神として、そして、より良い生き方ができる働きとしての国津神として、あるいは、自然の神、五行の神の働きとして、そして、天津神という神は、一体、どういう存在なのかということを含めた、そういう学びが、今こそ必要になっているというかですね。

◇六千年を生き抜いた稲穂の栽培を通じて・・・

その中で、特に、我々の民族が、六千年くらいの中で、様々な自然と向かい合った生き方ですね。その中での狩猟と採集、それから栽培という中で、特に、稲穂の栽培というのは、北海道でも、六千年前の遺跡もありますから、以前から、稲穂の栽培というのはあったのではないかと思われていますけれどね。
豊葦原の水穂の國、稲穂の実る場所になっていく、その過程というんですかね。それが、少なくとも、六千年というふうな範囲の中で、ということは、当然、縄文ということの中にあるわけですが。その間を、生き抜いた稲の栽培ということを通じて、社会というものを構成していく時の一つの生き方というんですかね。これが、大祓の中に残されているわけですね。
「畔放ち、溝埋、樋放ち、敷蒔、串刺、生剥」というのが、天津罪、最初に出てくる罪、それが、非常に稲の栽培に関わるようなテーマですよね。畔放ちというのは、田んぼの畔(あぜ)というのは、一つの区切りであって、一つひとつその中で、責任をもって作っていくというか。要するに、自己の範囲を、勝手に、広げたりしないということを、一つの規則にしましょうということですね。あるいは、溝埋というんですか、勝手に、田んぼを違う目的でもって、埋めないということとか、あるいは、敷蒔ですね、種を、何時でも、蒔いたら実りが保証されませんから、しっかりと、暦というか、季節というものを見据えて、しかるべき時期に、蒔く、あるいは、しっかりと水を張った田んぼに蒔くということですね、あるいは、それを植えるということ、あるいは、水をちゃんと引くということを、しないといけないよと。また、水をしっかりと引いている所を、勝手に、水を取ってしまって、こっちに渡したり、向こうに渡したりしないというんですかね。中国のミャオ族ではありませんが、山のだんだん畑、全てに、水が行き渡るように、水路を作っていくということですね。だから、勝手に、水路の流れを変えないということが、後には、水利権というところにもなりますけれども。
最初に、稲を作るための規則を決め、それを守るために祓いとして宣言するためにということを、していこうということが、大事な生き方の中に、最初に、大祓の中にあるということは、そういう意味合いになるのではないのかなということでございます。その辺りも、しっかりと、心しないといけないとところではないのかなと思うわけです。

◇労働から解放されて、どういうふうに自己実現するか

もちろん、今は、自我も拡張して、生きるということの中で、その道が、自己実現を図るという意味の欲望というんですかね。その道が、開けてくると。
そういう今までは、人間が人力でもってやっていたこと、あるいは、馬や牛が手伝ってくれて、やっていたものから、次第に、農業も、そういう意味から解放されてくると、労働からの解放の中で、自己自身を高める、あるいは、自己自身を実現するというところに意識を向けていく、ちょうど、境界の時代に来ていると。
また、そういう時に、機械が労働してくれた時に、自分自身が、どういうふうに、自己実現をするかということは、確かに、大きなテーマになるというかですね。その時に、どうしたら、人に迷惑かけないで、自己実現できるかというところは、自己実現する内容もそうですが、非常に大切なことで、考えないといけないところが、たくさん出て来るということになると思うわけですね。
もちろん、それは、エネルギーとか、食料という問題が、次第に、解決が付いてきた時に、次に、何を欲するのかという意味の欲というんですかね。欲が出て来る時に、やはり、それが、芸術であったり、スポーツでもあるかもしれませんけれども、そういうものを、どの様に、実現するかというところが、次の時代のテーマになると、今もテーマになっているのですが。

◇その先へ行く道は、人生の大きな楽しみ

それを、一つのアーツというんですかね。アーツアカデミーというか、その学びが前提になっている。その中でもって、人が一番欲するものというんですかね、それは、きっと神という世界を、どういうふうに掴むか、そのことが出来れば、それが人生にとっての大きな楽しい部分になるのではないかと思うわけですが。
その辺りを、どの様に、掴めるかということが、大事な道というか、これからのアーツの先にある世界といいますか、それが、我々が、今、祓いと鎮魂と言霊ということで、神というものを掴むというか、縄文期もそうですが、それが、ごく普通に行われていた時代も、あろうかと思いますが。
今、また、機械が進化して、装置化した時代に、ITだけではなくて、そういうロボットだけではないわけですが、そういうものによって、余った時間を、これから、どういうふうに生きるかというところの大事な部分としての祓いと鎮魂と言霊というところを、もう一度、縄文期から、当たり前にあったであろう世界も含めて、今の時代も、それが科学というか、ちゃんとした論理性をもって、神というものを掴める手順というものを、我々が、命というものを存えた(ながらえた)方法としてもありますが、そういうものを、土台にして、今一度、歴史を超えて、神というものを掴むための道を探ること。
たぶん、その先へ、行く道が、楽しいこというか。公にも繋がる楽しさがあって、そこに行ける道を共に、行こうではないのかということをベースにして考えると。もしも、それが可能でなければ、また、原始に戻るという考え方もあるわけですね。そういう歴史もあったのではないかという言い方もされますが、ここはやっぱり人智を超えたというか、その神智というか、そういうものを使わせていただいて、しっかりと滅びないで、一番喜びのある世界に共にいけるような時代を迎えたいということを思うわけです。
その辺りを、しっかりと確定するには、それは、やはり我々一人一人が、神を掴むということを、社会の大切な科学として実証したいです。そして、昔でいうと、宗教ではない、また、それが、テクノロジーでもあるようなところまで、落とし込まれたものとして、皆が、一人ひとりの違いを大切にしながら、より良い社会にしていくということが出来れば、一番良いんじゃないのかなと。

◇「一が百である」という世界を神話としていただいている

今、我々は、それを三百年とか五百年とか、千年とか、二千年とか、三千年とかいう悠久の歴史も含めて、あるいは、宇宙が出来上がるというのは、百三十七億年とか、そういう時間を考慮できる世界の中に身を置いたりして、今、命というものを考えると。
特に、この三千年、あるいは、六千年の中で、日本人が、あるいは、人類が、特に、お米というもので、いただいた命というものを確認する意味でも、あるいは、それをどの様に、栽培し、そして、それを皆の命の基本に据えていたかと。
今、”命の音色”という意味で、それが、「稲(命音:いね)」と、一番言ってはいけないことを言ってしまって(笑)。そういう稲の元というか、そういうものを、もう一度、掴んでいくと。
それが、久米(九目:くめ)といいますか、ちょうど、田んぼの九つの点といいますか、目であるといいますか。それが、田に、高御産巣日神、神産巣日神で、その点が、九つあって、自分の位置を知るというか、そういう技も白川にはあるわけですが。
たぶん、人類としての、一人の人としての命を、そこで知るということを、稲というところから、もう一度、また、その稲を、一つ一つの粒を、最小単位の粒を潰していくと、今度は、餅(百道:もち)という、百という道になることを、お餅で、それが、百神、言葉として、それが言霊百神であると。
一つの餅が、百神であり、一が百であるという意味ですね。そういう世界を、神話としていただいている我々は、もう一度、確認するということが、今日の御田植祭というものの形而上学的というか、哲学的な意味かなと感じるわけですね。早く楽しく田植えをしたら良いのにですね(笑)

◇「あいうえお」は「愛(あい)を植え(うえ)る」

それで、思い出したんですが、泥魂、泥と書いて、泥魂(ぬるみたま)と呼んでいますが、精魂のことですね。泥の中から生まれるというか、これは、五行というものの全てが、その中に含まれて、そして、そこから命が出るというか、命が生まれていくという働きですね。
この泥魂という、自然の中の一番、統合する一つの魂の働きというものが、泥で、そこに植える。これは、私の勝手な説なんですが、アイウエオは母音ですよね、五行、五魂も同じ、ですから、母音というのは、「あいうえお」ということであり、それが、五行であり、五魂であり、ということがイコールに考えるのが、白川なんですが。
どうも、泥というものが、精魂、泥魂のことなんですが、江戸の頃までは、泥のことを「ぬるみたま」と言っていたわけですが。これは、やはり、土も水も、それから、金も火も木も、全てを使って、稲が出来るんですね。たぶん、火も、ある面では、もう一度、再生する時に、畑は焼きましたけれどもね、焼き畑ですから。だから、全て、五行は統合されているんですが、それが、泥も水も土も、全てが、統合されて、それが、更に、その中から、命が出てくるというか。
ですから、田植えというのは、これは、また笑われるかもしれませんが、「あいうえお」だと。だから、「愛(あい)を植え(うえ)る」と。今日は、恥しいことばっかり言っていますが。それが、食べることで、身体に、お米が入るということは、まさに、一番大切な活動するための栄養ということですよね。
それが、任されているということで、身体に愛、子供にも、お母さんのお乳が出ない時なんかは、お粥にして、赤ちゃんにあげますが、それは、まさに、愛じゃないですか。あるいは、家族を養うという意味で、お米が養っていた時代が長くあるわけですね。そして、社会もそれでもって、みんなが一緒に暮らせるということの愛行、公の一番具現化した姿というもの、お米の稲が、それが広がり、五十倍になるわけですが。
それが、一つひとつの種というか、言葉と同じ様に、それが、言魂と同じ様に、生命の種になって、それが、編み出していくというか。そういう編み出しいくものが、ちょうど、愛を植えるというふうに、母音を捉えたら良いんじゃないのかなと。これは、言わない方が良かったなと思いましたが、最後に、付け加えさせていただきました。
今日は、ありがとうございました。