0442話:2018年05月23日

おはようございます。
何か、ありますか。

●Sさん
今朝、お祓いを上げる前に、「七沢研究所というのは、私にとって、どういうものなのだろうか」という、哲学じみたというか、そういうことを少し考えていたんですが。僕にとって、七沢研究所グループというか、この会社というの、”種蒔きの会社”なのかなと思いまして。色んな人の捉え方もあるので、違うという人もいると思うんですが、僕にとっては、何でしょう、創造というか、創り出すための、種蒔きのための会社といったら、あれですが、色んな人に影響を与えているようなものだと感じました。先生にとっては、七沢研究所グループというのは、どういうものですか。

【七沢代表】

◇和楽をみんなで追求したい

種蒔きというか、好奇心の種を蒔く、あるいは蒔いている会社というか(笑)。要するに、今の時代が、様々な軋轢から解放されて自由になる時の最後の漆黒の時代というか、だんだんと人類が、例えば、食料とかエネルギーとか、情報とかから解放されて、今、知というか、そういうディバイスのところも、今は、知も飽和してきましたけれども。
知も、いよいよ、シンギュラリティというか、人工知能というところが、知の事務的なところは装置が代わりをする様なところまで来ている時に、色んな芸術や音楽の世界でも、本物の志向としての探求が始まっていると思うんですが。その中に、それ以外でも、どういう生き方をしたら、一番楽しいことなんだろうと。
私の先生の奈良毅先生も、長らく、「宇宙並世界平和、人類和楽、真道即生、祖国安穏、天命完遂、神仏霊人物御感謝」とよくおっしゃられていたんですが。和楽というのは、和して楽しむというんですかね。その楽しむための和学という意味合いもありますしょうけれどもね。
ですから、そこに、本当の楽しみというところを、みんなで追求したいと、これは、単なる快楽主義ではないのですけれどもね。そういう楽しいということを、追求するということが出来なければ、しょうがないわけです。今の会社や組織とか国とか、世界が、和楽を追求しているか、どうかというところが、ちょうど問題になるわけですね。

◇自分が本当に何を求めているか

たいがい、宗教というのは、理想社会ができていないのに、その中で、理想社会ができているかの様に振る舞おうとする。必ず、軋轢というんですかね、一個人間、組織の中で、社会との軋轢とか、チグハグなことが様々起こってくるわけですね。
そういうことを回避して、なお、新しい時代の楽しいことを実現していくと。ですから、当然、楽しいことが、だんだんと多くなるということでないと、必ず、矛盾が吹き出す。こんなはずじゃなかったということですね。
ですから、「自分が、本当に、何を求めているか」ということを見据えておかないと、これからの時代は、大きく変化、進化しようとしているということは、間違いないと思いますので。その進化にするために、今までの知識や、知情意でいうと、そういうものを、綺麗に整理して、もちろん、知識も整理するわけですが。人間関係も、自然との関係とか、それが、宗教になっているわけですから。そういうものを整理していき、ある面では、それを統合するというんですかね。
そのために能力を発揮することが必要になってきていると、一方ではですね。突出した能力が、いっぱい出てこないといけないと思うんです、天才の出現の時ですね。ある面では、人類が意識進化する時に、それを引き上げてくれる天才が出てくると思うんですが。
要するに、それも含めて、コンカレントに、みんなが行けるようなところ、ある人達だけが修行して、その世界に行ける、あるいは、努力していければ、いつか行けるというのんきなことではないんですね。
これは、みんなが一緒にという大乗仏教的な、「共に行きましょう」ということが、楽しいことでないといけません。

◇共に生きるということを、一つの事業としてやる

少きところから始まる、ということもありますけれども、これは、また長い時間を要すると。せっかく、沢山の人類が共にいるんだったら、みんなと共に行こうというか、その時に、みんなに共通するもので、共に行くというのが出来ないと、これは、楽しくないわけですよ。その時に、どういう能力が必要になるかというと。
特に、統合、インテグレートというのか、結合というのか、”共に”手を繋いでという意味ですよね。そういうことを、一つの事業として、あるいは、論理、理論として、あるいは、芸術として、そういうものが統合するための要素開発をして、それを学んでもらうと。もちろん、そういう難しいこといっても何ですが。
要は、その時代の誰にでも、通用するような、共振、共鳴、同調というのか、そういうことができることを前提に、人類というものの種も、生きとし生ける物も、ということで、そういう世界というのは、欲張りでもあるけれども、そこに行かざるを得ないと。たぶん、一番楽しくやるには、そういうことが要求されるんだと。最小公倍数を言っているわけではないんですよ。
少なくとも、そういう世界に向けて、我々が生きるということを、まあ、一つの事業としてというか、やるという意味で、そういう学び、あるいは、研究開発、あるいは、そういう事業計画とか、実際にやってみるということですね。
だから、虻蜂取らずというか、あっちもこっちも、やってどっちも受け取れないように見えるけれども、要は、そういうことを一つの実証実験ではないけれども、やるというこの中で、自分が、どのところに興味があるのか、まさに、好奇心ですよね。それを、引き出して、それに基いて、自分はこういうふうなところを引き出したら、非常に、楽しいとか、そういうことが言えるようなところが、課題としては絶えず、一人ひとりにあると思うんですね。

◇みんなが繋がり同調して、自然の中にあると感じる

毎朝、共振、共鳴、同調を、このお祓いの中で、実証実験しているとも言えるんですが、それは、全ての罪という罪を、「あらじ」と言うんですけれども、そういうものを解消していくということを、テーマにしているから、決して、いわゆる、個人や組織や、みんなが深刻化しないというか、崩壊しないように、絶えず、更新されていくということが、出来ないといけないということでもあるわけです。
そういうものをしながら、共に出来る道を図る時に、一つの同調するものは、何かといった時に、人類が、色々と自然というものを、対立関係で見た時もあるけれども、少なくとも、それでは、統合できないんですね。
だから、統合できるということが、その一つの自然という五行、あるいは、それを九行とも言ったり、色々と表現するんですが、その自然というものを、魂にして、神として、五行として、要素として、それを一つひとつを、一致させていくというか、統合していくという感覚を、お祓いの中でも、得ようというか。
それが判るのには、やはり、何で繋がっているかということを考えると、良いんですよね。音というのは、もちろん、信原さんも、やっておられるけれども、ポンポンポンポンと出てくるんだけれども、その一つひとつが、やっぱり、繋がっていくんですよね。だから、木火土金水というものと、一つひとつが繋がるんですね。それと同時に、この全体も繋がっていくと、自然を、我々は、「あいうえお」という母音というものと同じだと言っているんですね。母音の「あ」は、ずっと「あ」ですよね。「い」は、ずっと「い」で、「う」も「え」も「お」も変わらないんですよね。「あいうえお」と、「わゐ(う)ゑを」という半母音もありますけれども、それらは、ずっと繋がっていくというか。
最後に、ゆっくりと「とほかみえみため」、最初もそうですが、「とほかみえみため」と言っていく時に、響きが、みんなが繋がるというか、同調して、自然の中に、あるという存在を感じるということが、それを音楽ではないけれども、言葉として、それを発生して、実感するということをやるというか。そういう世界を、今、我々は、かく得ようとしているわけですね。
ですから、七沢研究所、あるいは、白川学館というのは、今、やっていることが、どういうことなのか明らかになるかということですね。一つひとつが、きっと、そういうメッセージを含んでいると、私は、思っているんですけれどもね。それを、暫く、やっていくと、見えてくるし、自分の中から、自分の好奇心として、これは一体何だということが、だから、今、七沢研究所を好奇心の対象として、観ているというふうに、良く解釈しているですが(笑)

◇困った時にもみんなで笑うという神話が残されている

有り難いことだと思います。そんなところで、何処に、カリスマがいるわけでもないし、みんなが神だと言っているわけですから。
高天原というのは、そういう神々の共演というか、天照大神が隠れた時も、みんなでもって、演技であっても、ドッと笑うということを、天宇受売命のストリップといったら失礼ですが(笑)それで、みんなでもって、笑っちゃうという世界が、日本の中に残されているというか。
そういう困った時にも、共に、楽しむという世界を、瞬間でもあるということが、日本に伝わった良いことではないかと。そんなことを、共に、また、出来るということが、この神話を、神話知にしていこうという意志ですね。

◇「これが、やりたかったんだ」

知を、楽しいという「あ、そういうことか!」ということに変えたり、あるいは、その中から、良い音楽が出てくるということは、非常に、心地よいことなんですね。そういうことを、今、既に、やっているわけです。
だから、自分の中のSさんのやりたいような世界や、そのことを実現するという事業企画、事業計画を、どんどんやってくださいということを言っているわけです。それは、今の時期に、ピッタリと合うかどうかは、分からないけれども、少なくとも、そういうことを通じて、自分の好奇心を満足するというのか、「これが、やりたかったんだ」ということが納得の内に訪れたら、良いんじゃないかというふうに思います。
そんなことで。