0448話:2018年05月30日

◇神というものを、どう理解するか

ライフチェンジというのは、基本的には、リベラルアーツ、あるいは、メカニカルアーツを含めて、今までの科学、もちろん、芸術も含めて、あるいは、技術も入って、そういう今までの文化の最高水準という、疑似科学も含めてですね、何処まで、東洋のものや、占星術まで入っていますから。総覧してということですかね。
いわゆる、リベラルアーツ、あるいはライフチェンジを講義しているということは、科学するということを、人類の歴史の中で、ここまでやってきたんだということを確認するという意味だと思うんですね。
だから、何も我々だけが、それをやっているわけではないところもあるんですが・・・。
これは、ひとえに、西洋的には、神学というんですか、神というものを、どう理解するかということ、そこに至るための一つの学びであると。

◇転生を含めた科学を

これを、日本の古神道の文脈の中でいうと、その役割としては、確かに、世界から来た文明を純粋なものにするということで、特に、科学も、芸術も、純粋に他文明のものを、受け入れる必要があったと。
受け入れるということは、精緻に、あるいは、現代風にいえば、哲学的にもそうだけれども、科学的にというんですかね、絶対論理的に、取り入れるということで、芸術も、東京芸術大学なんかは、特に、音楽取調掛ということであったり、西洋のものを、そのまま学ぶ、模写というところから、どんどん、その技法まで正確に取り入れるということをやっていたわけです。これが、百五十年の日本の学びの歴史だと思うんです。
だから、そういう中で、一方では、取り入れた西洋のそういうものを、純粋に、科学した、哲学した、技術化したんだけれども、その先は、一神教の神学のために、やっているわけではないので、我々は、多神教という枠の中にも必ずしも入るわけではないけれども、世界というものの全てが、神の一つひとつの働きによって、全ての呼び方が出来ると、神の名前を付けられるような、いわゆる、神学ですよね。そういうものを、代々、受け継いで来たと。それは、一万五千年といってもいいかと思いますが。
そういう歴史の中で、我々が、今、また、リベラルアーツの今回のライフチェンジの先にあるものは、「リインカーネーションまで含めたところを、科学しないといけないじゃないですか」と、そういうことを問うてみると。そのことを、一つの総覧して、目次だけで、やるような、ちょっとセコいというか、薄っぺらな感じがしないでもないんですが、「今の世界はこうでしょ。この後は、どうするんですか」ということを、五回、あるいは、六回の中で、いよいよ、問うわけです。その時には、”転生自由七科”というものから、”お清め三科”じゃないけれど、あと、三科、十が天(てん)だったら、あと三つあるんじゃないですかということで。
という、日本の今まで隠されてきた文化として、一度、問うてみるということをするということで、この六ヶ月のコースということなんですね。

◇本来の日本神学

そういう意味で、我々が、毎日やっている中で、それを少しずつ、本来の日本神学というのも、おかしいんだけれども、そういう全ての学びの先にあるものを、どういうふうに、世界に、知らしめるか。
それは、今の社会全体が、日本の努力によって、ある面では、科学を純粋に成立させたというか、そういう役割が合ったと思うんですね。その結果、それを使う人間、社会というものが、結局は、その科学、技術の使い方が、曲がってしまったというのも、おかしいけれども、少し意味がズレてしまったと・・・。
今の社会、国際情勢も、経済も、金融の問題でも、政治の問題でも出てくると思うんですね。それは、まだ気が付いていないところもあるかもしれませんけれども、大方のところでは、今までの科学というものがあっても、それがどう使われるかというところで、まだスピリチュアルな部分というものも、残っていたわけですね。「それも、日本では、もう用済みでしょ」ということを言っているわけですが。
一方では、神学の中では、我々が、しっかりと神の掴み方というのも、失礼ですが、あるいは、神様の使い方といったら、もっと失礼かもしれませんけれども。そういう宇宙全体が神だとしたら、我々も神なんですけれども、どういうふうに、人という存在としての神が、より良い自然と、あるいは、神と、そして、人と人、人ともの、人と機械のより良い関係を作っていくかと。その為の一つの実証実験ということを、いつも言うんですが、それを、やらせていただいているんだと。だから、我々はそのために、毎日、神を迎えて証明しようとしているわけですね。それを、言魂で、言霊でいうと、一音一音でもって、神を呼んでいるわけでしょ。

◇人と人の関係で起こることが、神と人の中にもある

イエス様なんか大変ですよね。十字架にかかる時に、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(なんで私を、お見捨てになるんですか)」という、おつらい会話をしなければならないわけですね。
神の世界と言っても、一神教の人格神的な神の世界もありますけれども、一方では、最初から、高濱浩先生が言っておられたけれども、「とほかみの『と』でもって、神を呼んじゃっているんですよ」と、よく言われていたんです。
今日、感じたのは、我々も、そうではないのかなと。「とほかみ」という神、「と」の神か、遠津御祖神か、あるいは、造化の十神なのか、色々な意味表現はありましょうけれども。「とほかみ」と呼んで、その後に、「えみため」「えひため」と色んな言い方がありますけれども、一種の祈りといっても良いんですけれども。
これは、「とほかみ」を呼んでいるわけですね。神様を、端っから、呼び出しちゃっているというか。そういう観点で見た時に、この「とほかみ」というものの、昔は、”とほかみ講”というものも、江戸時代にあったんですが。「とほかみえみため」だけを言うという、差にあらずではないけれども、そういうことも有り得るということは、「とほかみ」という神を呼ぶんだと。
我々の祓いの言葉というのは、全て神を呼んでいるわけでしょ。八十禍津日神、大狂津日の神と、それは、不用意に呼んでいるかもしれないけど(笑)。神様を、呼んじゃって、その働きを、どうぞお働きくださいと言っているわけです。あるいは、「我々が、いつも呼び出して、大変だから、どうぞ、神様、お休みください」と(笑)。
そんな人と人の関係の中で起こるような、そういう関係が、神と人の関係の中にも、あるということが、ここが一つの日本神学といいますか、古神道の持っている、空恐ろしい部分でもあろうかと思うんですね。

◇「神学」として科学的に出来るか、問われている

我々も、斉藤さんが、一生懸命に、祭祀の時には、しっかりと祝詞で神様をお迎えしているわけです。蒙古が襲来した時には、それを防げたけれども、アメリカとあるいは、世界と第二次大戦の時に、どうして、それが出来なかったのか。火の玉となって、大和魂となって、神様に一生懸命にお願いしたのに、どうして目的が完遂できなかったのかということは、もちろん、出てくる問題ですね。
これも、一つの神学的な問題で、これも、十分に、そういうものを理解し、言向け和すというのか、あるいは、そういうテーマに対して、ちゃんと答える方法は、あるんですけれども・・・。もちろん、一音一音が、神なんだというところまで、言霊というものは、落とし込まれているんですが。少なくとも、神と呼んで、その働きを、存分に働いていただくというところまで落とし込めると、それは、スピリチュアルということはいいませんけれども、まだまだ、神学の中で、「学」にするということの中で、その方法論が残っているし、それが、一つの言霊というもの、あるいは、鎮魂というもの、祓いというものの学びの中にあるということなんですね。それは、もちろん、我々が、これから、それを実証するということを通じて、その結果を納得して、生きる確信の道に至るということは、当然なんですが。その辺りを、いかに、学びとして、科学的に出来るかということが、今、問われているというかですね。
世界に向かって、「真実があるんじゃないのかということ、また、その道を共に、やっていただけませんか」ということを、お話しているわけですね。もちろん、我々が、出来ちゃって、そのまま、お渡しするということも、良いかもしれませんけれども、それでは面白くないですよね。まだ、十分に、出来ていないところで、みんなでもって、それを、やったという喜びを共にするというところが、やっぱり、あったほうが更に良いのではないかと。

◇今、ちょうど一線上に並んでお祓いをあげて・・・

今、皆さんが、ちょうど、スタートラインにつく、一線上に並んで、それが、平安清明というか、平けく安らけく清らけく明けくということが一緒にできるということの表明ですよね。その一線上に立って、やってみましょうということでの共有場であるし、そういう会社、あるいは、そういう事業になると思うんですね。
ですから、単なる、営利的な事業というか、ビジネス活動だけでないんですけれども、そういうものの元にあるところで、「さあ、一緒に行こうよ」ということで。
まだまだ、毎日毎日、それを更新していかないといけないところが、あると思うんですね。ですから、それが、今、分かるし、それを共に、考えるということが、可能なこと、それで、何も考えずに、朝、皆さんとお祓いをあげて、疑問にあることなどを、共に、言い合いながら、中今に、それを、表明していくと。
それが、そのまま、世界の役に立つようなことに、成り得るんだということを、お願いしてやっているわけですね。
ですから、そういう点で見ると、今日の話のまとめというわけではないんですが。
我々、一人ひとりが、毎回毎回、神を迎えるという所作と言葉と、そして、実感というものを、これから、更に感じていくということは、これは、なかなか、得難いことではないかな
ということを思うわけです。ですから、その辺りを、色んな仕事の中で、そういう働きの神を、迎えるということも可能になるわけですね。

◇リベラルアーツの先にある神の学び

全てが宇宙に充満しているというか、この宇宙にも神々が充満しているんですから、使えないなんてことは、有り得ないというか。そういう観点から、自然も神だし、人も一人ひとりが神だし、そして、宇宙創造の神も神だし、ですから、一神教の人格神も、それも、使い勝手といったら、失礼ですけどね。アラーの神様や、キリスト教のイエス様やユダヤ教のエホバの神様も、そんなことに使ったら、とんでない奴だと思われかねませんけれどもね。それは、黙って、その神様に通じて、ご厄介になられたらいかがかと(笑)。奈良毅先生なんかは、エホバの神を迎えて、結婚式をしたことも、ありましたけれどもね。
神学的には、新しいリベラルアーツの先にある、神学というか、神の学びは、まさに、その辺りが、真骨頂といいますかね。神々と一つになる、掴む、食べちゃう、なんていうことを、何千年も、あるいは、何万年も、そういうことを実践してきた民族として、この先には、一神教の神々様にも、働いていただくという神学でいったほうが良いんじゃないかなと(笑)。そんなことも考えておりますので、その使い方を、更に、研ぎ澄ましていくということが、我々の今のリベラルアーツ以降の神学の学びなんであると。
六月で、もう一回で終わる頃になって、そんなことを言っても、「どうしてくれるんだ」ということにも、なりますけれども・・・。その時には、皆さんに、提供できるように、その用意をしておきましょうということになろうかと思います。
そんなことで、今日はありがとうございました。