0449話:2018年05月31日

◇輪廻を抜いた仏教が始まった

仏教学や、哲学論争みたいな難しいことですね。
カルマというと、結局、”リンカネーションリベラルアーツライフチェンジ”というのは、今回リベラルアーツの中で輪廻転生、再生して、もう一度、命を元に働くというか、そういう生命の働きのことを、テーマでもってやっているんですが。
これは、インドには、カルマということがあることで、結局、不平等を是認する哲学になっているんですね。カースト制度の下の所で生まれると、なかなかいくら生まれ変わっても解消しないですね。だから、八一回とか、転生しないといけないということがあるんですが、かかるということがあるんですが、それでは、なかなか救済できないということで・・・。
仏教も、戦前から戦中にかけて、ガンジーも集会するときに「ナム・ミョウレンゲキョウ」と唱え始めたと言われています。
そのころ、ビームラーオ・アンベードカルという方が居たんですが。その人が、仏教の中で、そういう輪廻転生というんですかね、リンカネーションを抜いて、仏教を新たに始めた。「新仏教」が起こった。その頃は、まだ、何百万人かわずかだったんですね。元々、日本山妙法寺の藤井日達さんが、戦前から仏教を、ガンジーさんなどに伝えていたんですね。ちょうど、奈良先生が、インドに、教えて行っておられた時に、その辺りのことを私が、東京の国会図書館で調べていたこともあったんですが。
要するに、そのころから輪廻というものを抜いた仏教が始まったんですね。その後、結果的に、継いだ人が、佐々井秀嶺(ささいしゅうれい、本名:アーリア・ナーガルジュナ)さんという日本人で、アンベードカルの考え方を受け継いで、それが、今のインドにピッタリと合ったんでしょうね。
今、インドで、一億人くらいに増えて、今、インドの総人口が、十二億なのか、中国と同じくらい居るのか分からないんですが。その内の一億人が、仏教に帰依していて、今、佐々井さんを、中心にして、インドでどんどん広がっているです。それは、やっぱり、輪廻をしないというか、カルマから逃れられると。

◇因果関係があるということが、DNAの発見で見えてきた

仏教というのは、輪廻があるから、仏教なんですけれどもね。元々は、バラモン教とかヒンドゥー教の流れにあるんですが、私が思うには、そういう輪廻やカルマを解消する道ということですね。
だから、カルマの概念を何処まで、使うのかというと。徳をたてて、カルマを超えていくというか、それが一般的な捉え方ですが、私は業(ごう)というか、徳と業の両方を、カルマと呼んでもいいかなと。凄く、概念を上下に広げているんですけれどもね。
それくらい、徳という良いことをすることも、結局は、それは、良い結果を生むから良いんだけれども、因果論でいってしまうと、結局、良いことをしたら、後々、良いことが起こる、自分の亡くなった後も良いことが起こる。そういう事と同じ様に、悪いことをしたら、悪いことが起こる、業が続いていくと。だから、徳が続く、要するに、続くということが、基本的に、カルマというか、そういうことも言えるわけです。
でも、宇宙というものは、続いているということで、その中の世界を、お釈迦様にいわせると、「全て、幻なんだ」という言い方があって。その説だけ取って、全て、起こっていることは、幻だということを、強硬して、そういう説にも出来るわけです。
だから、因果関係というものがあるということが、要するに、宇宙というものの存在物には、全て、そういう因果関係があるということが、論理的あるいは、物理的に、階層は違うけれども、それが確かに、そうあるということが、ようやく、最近、DNAの発見でもって見えてきたわけですね。
一方では、続くということが、命というものを繋げる一つのもちろん、それは、個々人はバラバラに生命は終わって切れているということでもあるんですけれどもね。だから、瞬間には、命というものは、みんなバラバラに、伝わる方法が、一回切れて、だけれども、種としては繋がっていると。両方の概念が働いて、しかもそれを使っているということですね。
ずっと繋がっているということと同時に、一つひとつが切れている、切れていくという、ややこしい連続性というか、数学的に言ったら、フラクタルじゃないのかという色んな論は出てくるんですが。

◇良い業もカルマだという考え方もある

基本的に、徳は良いことをして、転生しなくても良いようになっていくのだから、それは、カルマじゃない。そこのところの論争は、ヒンドゥー教の中ではあるんですね。
ですから、良いことをした本人はもとより、相手が感謝しても、カルマになるから、それを認めてはいけないなんていう解釈もある。
インドには元々、有難うという言葉が無かったというんですね、イギリスの東インド会社が入ってきて、「Thankyou」という言葉とその概念ができた。インドの中には無かったと言っているんですね。
私は六年くらい、ベンガル人と一緒に住んでいたんですが、何か、良いことをしてあげても、首を左右に振るだけでした。そういうこともありましょうけれど、要するに、自分が、積極的に、有難うという言葉を言わなくてもいいという理由を説明するんですね。
それは、要するに、良い業もカルマだという考え方を根拠にしているんですね。ですから、それがまた、良いか悪いかは別にして、日本のように、有難うということが、”ありがとうおじさん”ではないけれども、それが、一番良いフレーズだと考える人もいて。
最初に、ロゴストロンを一日に十万回くらい、再生できる機械を作った時に、最初に、入れた人が、8万回有難うを毎日聞いていたら、頭が痛くなったと(笑)。そういうこともありましたけれどもね。有難うという言葉を言わないということで、相手に、良いことも業にしないというカルマの考え方もあるんですね。
要するに、それも含めて、囚われないということが、一つの大事なところかなというふうに思います。

◇両建ての枠組みの中で縛られて

ですから、言語というのは、必ず、そういう代表的に、禅の考案もそうですけれども、「これは、どうか」と聞けば、「どうか、こうか」というか、必ず、反意語みたいなものが出てくるんですね。「イエスか、ノーか」「白か黒か」というように。それに、縛られて、結局、その両極を行ったり来たりして悩みに入っていくというか。
言語学というものの中にある、基本的な表現の二項対立とか、この相反する二つが、だんだんと増えたのではないか。
単純に二つに分けて、考える方法を両建て法といいます。社会学的には、人間が縛られる、洗脳される方法の代表として、両建て法というのがあるんですね。それによって、出来る出来ないという枠組みの中で論争させられ、結果思考の範囲を、閉じ込められて、その上でもって、支配するという方法が出てくるんですね。
それは、哲学的にいうと、正反合みたいなもので、ヘーゲルによって定式化されて、マルクスやレーニンなどが独自の弁証法に用いたんですね。説得のための詭弁に陥りやすい、哲学的作法とでも言いますかね。そういうことで、両建てになるということは、自分がその中で、悩んでしまうと。
言語を使うから悩むんですね、両方の意味の中を行き交って、それが次第にグルグル回っていく、あるいは、その生み出した言葉でもって、「所詮、どうにもならない」とか、そういうものが、一杯、脳の中に書かれると、鬱になったりですね・・・。色々な精神作用が起こるわけです。それで、鎮魂の中にも、考えない、思考しないという一番単純な方法で、黒曜石と向かい合うということが、最初にあったりして。

◇人間は、絶えず考えている

人間というのは、絶えず、考えているんですね。絶えず、追っていく、あるいは、自分の思考を止めることが出来ないで、夜も、止めれなくなると、本当に、命が短くなっちゃうんですね。脳が、動き出して、ずっと一晩中止まらなくなると、これは、もう死にたくなります。
欲も、一番強い欲は、睡眠欲なんですね。九日間、食べない上に、飲まない上に、不眠不休の行が、大阿闍梨(だいあじゃり)になる時の千日回峰行の最後の行ですね。そこは、殆ど耐えられないんです、脳が、本当に、ギブアップしちゃうと。たぶん、重力との関係で、仰向けになるということの動作と同時に、目を瞑って、重量を1にしないと、たぶん、ダメなんだろうと思いますけどね。
ですから、重力1が、眠るという時は、脳は、寝なくても良いんですけれどもね、動いていても良いんですが、少なくとも、立って、重力2でやると狂ってしまう、死んでしまうんですね。そういうこともありますけれども、その睡眠欲というものは、どうしても難しいと。
では、考えないということが、瞬間でも、出来るようになると、非常に、楽になるんです。それは、一度止めると良いんだというところから、始めるというか。
ですから、思考というか、言語を使って考えるということで、進化したけれども、実は、諸刃の剣ということで、考えたり言語を使うということが、逆に、カルマというものを概念として持つことになり、苦痛を味わうということにも、なるわけですね。だから、言語を持つという進化の一番の道具といったら、なんですが、それが結局、自分を苦しめるというか、それで、様々な行が、言葉を忘れるという行が、起こったと思うんですね。

◇祓いの働きとして、カルマが消える

話がだんだんと長くなっちゃうから、そろそろ、結論に(笑)。
要するに、お祓いも、自分の言葉であげるんですが、働きというか、神を呼ぶというのか、あるいは、神の働きが起こるということがカルマを消す、一つの方法になっているということですね。
今までが、西洋的な、あるいは、東洋的な哲学の話だったんですが、今度は、いよいよ、お清め三科になりますと、皆さん、お分かりのように、その働きですね。もしも、それが、大祓の内容が、言葉に関わる罪でもあるんですが、そういうカルマになるような、DNAのカルマにもなるような事というのは、やっぱり、その祓いの働きとして、消えると。
そういうところが働きにくくなる場合というのは、それが、基本的には、信仰的なものであるからです。
「信じれば、そうなる」となっていたものが、それを、実感すると。いつも言っているように、神智学が、神智覚学でいくとよいと。それを、五感で感じたり、確認したりするというのは、実は、まだ不確かな部分であるわけですね。科学的にいうと、データ的には、ビックデータが科学的かどうか知りませんけれどもね。曖昧なデータ、どうもありそうだと(笑)
その我々の五感のデータが、何処まで、正しいのかというのは、絶えず、そこに注意深く、留意しながら、その認識のところを進めるというか。そういうことも含めた感覚の中でやるには、科学的な見方を、自分で掴まないと。

◇”ほれけ(解け)”

少なくとも、最初のカルマというものを超えたという消息は、自分自身が掴んでいくと。お祓いというものは、ずっとそれしかないんですね。
だから、それは、カルマを解いていくというか、「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそおたはくめかうをゑにさりへてのますあせえほれけ」で、”ほれけ(解け)”という言葉になっているように、きっと解けほどけになる。
まあ、そういう歌もありますよね、糸が絡みついたような今の時代ではあるけれども、それを、きれいに、一本の糸にする。それが、超ひも理論ではないけれども、一本にするのはやはり祓いを行うということを言っていますから、そういう紐の縺れや乱れを正すということですね。まあ、一本締めもありますけれどもね(笑)
そんなことでもって、今日は、お許し願いたいと思います。
ありがとうございました。