0450話:2018年06月01日

おはようございます。
Aさん、何かどうぞ。

●Aさん
「マインドフルネス瞑想を超える、デジタルメディテーション」という冊子を、今、作っているんですが、マインドフルネス瞑想が、<無を目指している>という説と、<気付き>を目指しているという二説がありまして、先生のご存知のところがありましたら、教えていただきたいな思っています。
マインドフルネスでは、ヴィパッサナから宗教的要素を排除したものだといわれていまして、宗教的なものを排除する段階で、無というものを目指すということも排除されているとも、言われているんですが・・・。私も、そこをどう捉えていいいか、今の段階で分からなくなってしまいました。

【七沢代表】
宗教的なことというところのものは、仏教のことですね、最終的には、禅なんかのものと違いを明確にするというか、ヴィパッサナも、ミャンマーで発見された原始仏教だと言っていますが、一番古い小乗仏教の修行法の一つではないかと思います。随分と、私の会社では研修に行ってもらったこともあるんですけどね、二十年くらい前ですかね、社員に十日間、合宿で。本日、その時に行った人が来ていますので、Bさん、お話をお願いいたします。

●Bさん
ヴィパッサナ自体が、感覚的に神秘体験ができて、スピリチュアル的な感覚として掴みやすいように思います。ただ、そういう感覚的なものなので、「掴んだ」と勘違いが起きやすいなと思いました。多くの人が、感覚的に分かるというところで、ヴィパッサナというものを捉えているように見えました。なので、自分の感覚のみで、そこに客観性がないので、勘違いが起きやすいのかなと・・・。
感覚的に10日間やっていくと、一瞬スピリチュアル体験みたいなものをして、掴んだと勘違いが起きたりする。自分は「悟ったんだ」「無になったんだ」というような勘違いや慢心が起きやすいのかなと。傲慢になって帰ってくる場合が多いような・・・。一緒に行った方で、そんな方も何名かいらっしゃいました(笑)それで賢治先生は、止めにしたんですね。

【七沢代表】
ありがとうございます。

◇心理学は、気付きをどうするかというテーマで一般化した

無というか、ヴィパッサナは、身体の感覚から、無に入るという方法ですけれど、身体感覚を導入口にして修行に入ります。どんな修行法でも、宗教的な方法ではないかということを言われる場合が多いわけです。結局、学問としては、心理学、あるいは、宗教心理学というものも、途中の学問としてはあるんだけれども。
科学的な要素で、心理学というと、まだ百年くらいの歴史しかない学問だけれども。心理学やっていた人には、申し訳ないですが、心理学的方法というか、それは、気付きということに、的を絞ると、トータルでいうと、分かり易い表現だからということもありましょう。そして、その気付きをどうするかというテーマにして、普遍化というか、そのために、一般化したんじゃないのかなと・・・。方向性としてはね。
要するに、ウォッカも、七十度は飲みづらいし、かといって四十度のブランデーのようにしても、まだ濃ければ、やっぱり焼酎のようにね。なんだか、私がいっぱい飲めるようなことを言っていますが(笑)。二十五度とか、段々と度数を下げて、作りますけれども、あるいは、水を薄めて、原液を飲んだら、アルコールですから焼けて、それこそ、本当に、大変なことになります。

◇無(む)という最後に残った言葉を消すということ

宗教も、ファナティックというんですかね、狂信的な部分というか信仰になる時というのは、そういうことが起こる可能性もあるんで、無というのも、日本語で言えば、無なんていうのは、無視して良いなんてことは言っていないんですけれども。
無というのは、やっぱり、昨日、一昨日の続きでいうと、無(む)という最後に残った言葉を、消すということをするためには、今度は、数息観の後の処理が出てくるんです。息を音(おん)に、変えようとするんですよ、日本人は特にね。吸ったり、吐いたりとかが「ス」音で統一しようとしたり、息が出る時も、「ム」という発音すると、無(む)と。「オーン」(サンスクリット語のチャンドラビンド)もそうでしょうけれどもね。
言霊も、ス(静、素、州、巣)なんていうのが元にあって、そういう意味論的な言霊学もあるんですが、どうしても、無というものを、音にすると、その音に囚われるんですね。頭の中が、無、む、無、む・・・と無だらけになっちゃうというか。
だから、ヨーロッパの人は、無というか、考えないということや、言葉や論理にしないということが、一番苦手ではないかと。また、そういう批判をするとね、文句が出てしまいますから・・・(笑)構造的な違いが若干あるのかなと。日本語を使う人達と、脳の使い方に違いがあるんでしょう。日本では、禅なんかは、たぶん無で引っ掛ったと思うんですね。そういうことを、お釈迦様は分かっていて、「数えろ」ということを言ったのかもしれませんけれどもね。どちらかというと東洋のものなんですよね、瞑想というものは。
ヨーロッパでも、岩屋の中で、瞑想した、フランチェスコとかいますけれども、たぶん、元は、磐座の上で、あるいは達磨大師みたいな、人類が、発生したような場所で修行を、あるいは、共生ということを知るというか、黒曜石も、「人類が二千人になって滅びようとした時に、この黒曜石で助け合ったということを、共に、もう一度、思い出して生きましょう」ということを言っているわけですが。
たぶん、修行すると、西洋人もいっぱいやったんですが、やはり、磐座のようなところに入って行ったり、そういう修行が、若干、日本人と違うところもありますが、ほとんど、似ているんですね。

◇マインドフルネスとの違いをどう伝えるか

自然というものに対する捉え方が違うから、たぶん、無という捉え方も、磐座の中でやる時に、何か違いが出たんだと思うんですけれどもね。その辺も、これからの一つのテーマですよね。
どういうデジタルメディテーションや、マインドフルネスとの違いというものも、どういうふうに、それを伝えるかというのは、非常に、大事なところだと思うんですね。ですから、本当の意味で、一音では、やっぱり、解体できないというんですかね。
無というところに、無もMuだから、Mとuを分けるというところから、父韻、母音、子音という言霊の学びが必要なんですが。
それを、解体するというか、そうすると母音としての五行の「あいうえお」だけが、ただ鳴っている静寂(しじま)という音の概念になるわけですよね。ですから、そういうところに、分離することが出来るんですということを、学ぶのには、五行と、あるいは、「あいうえお」と一つになるというか・・・。そういうところが、大事な修行というのか、それはだから、五行と一つになるということであれば、今度は、苦にならないわけですね。
その響きが、「あ」とか、「う」とかいうところの悩みが、どう解決するのかというのは、ある面では、阿字観(あじかん)とか、吽字義(うんじぎ)とか、そういう真言の空海さんの色々と工夫したところで、そういうものを経典で書かないといけないから、あるいは、正法眼蔵みたいに、道元さんが、それを、色々と学問にしないといけないという悩みがあったんですね。

◇日本語でやるという技

ですから、きっと、人間の瞑想も、心理というところに、一旦、落としこんでやろうという方向が、結局、世界に、広める時には、そういうふうになったと。
我々は、それを、「あいうえお」というもの、五行というものを掴み、その上で、言語も、一旦、父韻と母音に分けていくと。
それで、また、お祓いで、一つひとつの母音をつけている日本語で、やるという技なんですけどね。そういうことを理解しながらやったら、更に、ご修行も進むのではないかと思うんですけどね。今日は、そんなところで。
あと、今日は、金大偉さんの鎮魂コンサートがあるので、行ってまいります。また、宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。