0455話:2018年06月04日

◇古神道の神学

今、テーマは、というか、このふとまにの里も、結局は、ある面では、人工の装置みたいな、自然の概念を装置化したような、自然を、我々の自然観にしたと言いますか。自然観ということは、人間が観た自然ということで、それは既に人工になっているんですね。その辺りは、昨日、話したので、文字で見ていただいて(笑)
人工というのは、それでもなお、美しいというか、あるいは、意味があるということを、何というか、証明する技というようなものになるのかなと思っております。
今日は、我々は、神というものを、一つの神学として、リベラルアーツからの「一神教の神様とは、何か」ということを知るように、我々も、リベラルアーツから、「日本の神様とは、何か」ということを知ろうという古神道の神学とも言えることをしているというわけです。
これは、意外と、神道というのは、神学というか、神道神学というのは、有るようで無い、無いよう有るというか、長い時間を経ているから、神を色んな言い方をしていて、そういうものの歴史的な影響を、受けているわけですね、あるいは、そういう表現があるんですね。特に、白川でも、江戸時代なんかは、垂加神道という神道の説明知を、随分と利用しているところがあったので、「白川神道というのは、垂加神道から来ているんです」と、研究者から言われていたこともあります。
白川はその時代時代で、白川を納得するのに、新しい解釈を受け入れるということで、現代では、科学的な解釈や、学問的な解釈を、いわゆる、スピリチュアルな意味の神の説明ではなくて、それを、一つの証明できるような科学というところに、落とし込んで学ぶということをやっているわけです。それが白川の知へのスタンス(態度)とも言えると思います。

◇垂加神道流に言うと・・・

普段、よく我々が、神直日の神、大直日の神、八十狂津日の神、大狂津日の神というふうに祓いの詞でいっていますが、この大変な神様も、垂加神道流に言うと、たぶん、それが、元の教えにも繋がっているのではないかと思うんですが、要するに、神直日の神というのは、太陽が上がってくる日の出の時の神様の名、あるいは意味で、中天というか、十一時、十二時くらいの一番日差しが強くなる正午の時を、大直日の神というふうに、江戸時代なんかでは、普通に言っていたんですね。
今度は、それが傾いていく時に、午後のときですかね、八十狂津日の神で、夕日が沈む日没の時は、大狂津日の神というように分けて、日の働きを分類しているんですね。これを、一年に配分すると、春分が神直日の神、夏至が大直日の神、秋分が八十狂津日の神、冬至が大狂津日の神ということになっているんですね。
ですから、昔の大化の改新のころの制定された「舒明記」によりますと、宮中に出仕するというは、卯の刻ですから、今の朝の五時くらいで、神直日、大直日の太陽が、一番元気な時に、宮中に来て仕事をすればいいと。だから、仕事は巳の刻の朝十一時退出、あとは休みなんですね。改定されても前後一時間ずつ増やすくらいで、まあ、結局、八時間くらいは仕事しているんですけれどもね。そういうことが、長い習わしだったと。そういう太陽の力を中心として、生活していたと。
その太陽は、それは、また、地平線から上がってくる時に、神直日の神になる時、その元の神は、天之御中主神なんですね。水の中からお出になるから、そこから生まれてくる神が、天之水中主(天之御中主神)で、それが、更に、上がってくる時から沈むまでに、それを四つに分けて、それがまた、荒魂と和魂という呼び方になるんですね。
ですから、大祓で祓うときの神は、四柱のお祓いの神があって、その先頭の瀬織津姫神は荒魂なんですね。神直日の神が、和魂ということになるんですね。そういうことで、神から魂に、だんだんと落とし込んで、人の働きにしていただくということになると。
ですから、それを、日の五色というか、五つの色に分けるのが、神道の色の分け方ですね。黄色とか、赤とか、よくお祭りする時に、五色の旗を立てるんですが、それは、やっぱり、太陽があがってから、沈むまでの間を、色で分けて、その日の色が、五色と。

◇光と風、二つで人間が世界をクリエイションしている

それに、合わせたかどうかは、知りませんけれども、五音相通(ごいんそうつう)という言い方で、音があるわけです。
金大偉さんの芸術が、「光と風のクリエ」という名前を、今度付けたんですが、彼は、まさに、”光”という色ということは、映像ということですね。白黒というモノトーンとカラーとありますけれども、その映像という光と、そこからくる色ですね。その美術の世界と、”風”というのは、音ですね。その二つでもって、人間が世界を、クリエイションしているんだということを、金さんは、「光と風の統合」だといっているんですが、それを、私は、クリエ(クリエーション)というふうに呼んだんですけれどね。それで、そういうふうに名前が付いたんですけれども、六月に、いよいよ本が出るんですが。

◇神の創造の再現

自然に人間が関わることで、それが神の創造の再現を行うということになることが、ポイントですね。
ただ、神が、宇宙を創って、人を創ったということでは、面白くないと思うですね、神様もね。やっぱり、創られた人が、神と同じ様に、働くというか、動くというか、生きるということが、たぶん、創造に関わることの一つをさせていただくというか、そういう世界があるのではないかなと思うですね。
その世界が、神の自然の創造と、人工という、人がその自然と関わっていくこと、それは、動物や生き物の全てに関わるわけですが。その関わり方の有り様が、一つのコミュニケーションということになるんですね。そのコミュニケーションを通じてできた、一つの概念とか、そういう生き方のようなものまで含めて、それが人工というか、そういう理解ができるということですね。人が介在して、そして、自然が、その姿が美しいかどうかということが、感じられるか、そこが問われるということになるということですね。
ですから、このふとまにの里というものも、まことに、人工そのものといえば、そのものですけれども、自然という素材を使いながら、水とか土とか木とか、そういうものを使いながら、一つの創造する雛形、景色というか、風景というかを真景にするという意欲で、そこで、子供たちが、その中に入れば、その中で、自然の要素の原体験ができるようにするわけですね。

◇子どもたちは、ただ泥だらけになる

子供はいちいち思考を巡らせないで、「この泥には、どういう、ばい菌入っていて」とか考えないと思うんですね。どろどろになるということをするわけです。それは、動物もそうで、白鳥が、子育てする時には、泥だらけになって、あの綺麗な姿が泥だらけになって、子育てをするということをやるわけですが。
そういうことを考えずに、自然の要素の中に入り込んで、しかも、田んぼというのは、泥ですけれども、その泥が、泥魂であり、統合の象徴であり、その全ての栄養の源というんですかね。そういうものになっているわけですけれども、自然の中の泥というものも、化石水というものがあって、それが、何万年も、何十万年も経った泥もあるんですね、もちろん水もあるんですね。
そういうものが、ものを生み出す元になっているということもあって、そんなことが一つの自然からの便りとしての天文、地文というんですけれども、天の動き、地の動きを感じさせて、使わせていただいて、そして、自分たちのより良い生き方が出来るようなあり方にしていくというところが、古神道の真骨頂といいますかね。
いわば、神と人のコミュニケーションのハイライトの部分ではないかと思うんですね。

◇祓いの言葉は神からいただいた

そういうことを、我々が、祓いという言葉も、神からいただいたという想いで、一二三祓をあげるわけですが、その中で、学べるということも、言葉というものを、まさに、人間のもの、まさに、道具としては、言語学的には、フェルディナン・ド・ソシュール以降は、ほとんど、道具としての言語と言っていますけれども、そうじゃなくて、そういう神聖な言葉という捉え方で、音も、自然の太陽系の惑星の運行の音という捉え方、あるいは、自然の五行というものが、「あいうえお」だというような、そういうところから、神と人を繋ぐ魂というところにいく、あるいは、神という世界に行ける道が開けてくると。
それを、一つの教育の基本にするということが、たぶん、これからのチャイルド・アーツ・アカデミーでも、それをやることで、みんなが、もちろん、我々も、死ぬまで、あるいは、死んでからも、その世界には、行けるんだというか、必ず、より良いところが、学べるというのが、リインカーネーション、リベラルアーツという学びに、お清め三科という、毎日の我々の中にあると思うので、これは、いつも言っているように、是非、進めるというか、単なる口祝詞やマインドのメディテーションということではなくて、しっかりとその辺りは、神意識を、いつも掴もうという意識でやっていただけると、非常に、有り難いかなということを感じております。
そんなところで、一週間宜しくお願いいたします。