0457話:2018年06月07日

◇徳を積むとは・・・

昨日、テレビを見ていたら、人間が元気になる、認知症とかならないように、どうしたら良いのかということについて、アメリカの研究では、人に親切にするのが、一番効果があったと。そういう遺伝子を賦活させるという力があると。それは、世の中のために役立つということをするよりも、効果があったという番組でした。
ちゃんとした、世の中のためになるという個別のデータにならないから結果が出にくいかもしれませんから、その遺伝子が活性化しないと。もちろん、自分のための、欲求を満たすことでは、出てこないようでしたけれども。
端的に、人に親切にするというのは、今の徳を積むことと繋がっているのかなというのは、あるんですけどもね。
インドの神々は、3000万年くらい経過すると、必然的に、また、人や物に輪廻しちゃうという思想ですから、神々も、そのカルマには、例外はないといいますかね。そういう捉え方になっているわけですね。弥勒菩薩も、五十億年という人のカルマを救うというか、その年月を経て、地上に降りてくると。

◇DNAが、どういう場合に一番良いか

そういう時間を設定したり、超えて、思考できるというのか、あるいは、たぶん、人間の脳もそういうことが可能なんだと思うんですね。そういうことを考えられるということは、時空を超えることが実現できるということである。
「人間は、また戻らないといけない。神様でも、そうだから」というふうにして、情緒の中で、そういうことを味わうことも、悪くないんですが。
要するに、意志として、自分は解放されるんだと、あるいは、解放されたというふうな意志を発生させることができる能力を人間の脳が持っていると。そういうことを、感じるということのほうが、生産的かなと。
これからは、意識進化の中でDNAが、どういう場合に一番良いかということが、どんどん出てくるし、そういう遺伝子も発見されると思うんですね。ですから、人間が、時空間を超える遺伝子を賦活させるというか、活性化させる。そういう遺伝子の名前も、方法も出てくると思うんですけれどもね。
我々は、それに先んじて、意識進化ということで、意の識、知情意の意と、最終的には、それが、神の創造意志というところに、人間も神の世界、造化という世界に関われるということでの境地といいますかね。そういうものが、感じられるわけですから、当然、証明されると思うんですけどね、DNAというものでも。実感に到れるというのが、一つの実証のはじまりだと思うんですけれどもね。
徳を一つひとつ積んでいくというものも、結構、努力のいることで(笑)。そういうものも、どんどんデジタルにできたら、ということを、すぐに考えてしまうというか。非常に、安易な考えのところがあって、申し訳ないんですが。

◇「これを一生やり続けても良い」

賽の河原で石を積んでいくような子供の亡くなった後、そういう世界もあるというふうに、いいますけれども。一番の刑罰は、ここにある砂を、こっちに持って行く。そして、それが出来たら、今度は、こっちに移した砂を、元のところに持ってこさせるという、どっか近くの国でやっていたようですけれどもね。ある思想の元に、意味の喪失ということを人にそういうことをしたんですね。
ただ、私は、それが苦痛にならない方法を考えたんですよね。どうしたら、それが、苦痛にならないかということですね。ある面では、これは、罪、原罪というものの理屈と同じなんですよね。持っているから、罪に問われるということなんですね。だから、人間の労働の、始まりを聖書には書いてあるんですね。
それが良いか悪いかは、別にして、だったら、その労働というものを、一つひとつ丁寧にやるだけなんですね。その瞬間瞬間に、丁寧にやっていく。そして、「自分の人生は、これを一生やり続けても良い」と。そこで、もう開き直っていっちゃうというか。それで、もう何の苦痛もなく、作業が出来て、感激して、ウルウルするような感動を覚えるというか。そういうことが、原罪とか、罪を贖って、そういう徳の積み方もあるというか。
たぶん、あれも、そうですね。餓鬼の供養も、昨日の話でも、ちょっと出ましたけれどもね。餓鬼の供養を、施餓鬼供養というんですが、それを、毎日、食前に我々は、やるんですが、餓鬼の心は、ずっと水を飲んでも、食料を食べても、まだ足りないという意識なんですね。
餓鬼の世界、地獄の五階層で、地獄、餓鬼、畜生で、餓鬼は、動物の想いよりも低い世界と捉えているんですが。それは、地域という際限のない、法のない世界は、法を作ればいいだけですけれども。欲望というものを満たしても満たしても、まだ満足出来ないということだったら、辛いところですね。
それを、供養するのは、前も話したかもしれませんけれども。供養する者が、何度でも、施餓鬼供養を一生してあげるよ、ずっとやってあげると思ってしたら、餓鬼さんも、少しは分かってくれるのかなということで、少しは楽になるんじゃないのかなと。そういう救済の仕方をすると。

◇徳というものから開放される

徳を積むということも、もちろん、良いんですが。徳ということも、一つひとつが、足りないから徳を積むということではなくて、一回一回でもって、その徳で、「これで良いんだ!」という満足感でやれたら、そんなに徳ということに対して、特別に、何か考えないといけないようなことでは、無くなると。その時に、自分の心が徳というものからも、開放されると。
罪と徳、あるいは、カルマと徳というものも、一つの二項対立の中に、自分の精神や、感情が入り込んでいると、ちょっとつらいかなと。それも、解決する方法が、そういうところでの満足というか。
ここで、インドの悟りの話をしますね。お師匠さんに、弟子が、「先生、私は、あと何回、輪廻したら、もう輪廻しなくても、良いんでしょうか」と聞くんですね。そしたら、もうだいぶ葉の落ちた、何枚か残っている木を見て、「これくらいだ」と言うと、「まだ、こんなに生まれ変わらないといけないのか・・・」と、がっかりしたと。
そこに、弟弟子が来て、今後は、同じ様に、「お師匠、本当、私は、あと何回、生まれ変われば、良いでしょうか」と聞くんですね。そしたら、師匠が青々とした木を指さして見て、「お前は、これくらいだ」と言うと、「あ、あと、これだけ生まれ変われば、良いんですね」と大喜びしたと。そして、その瞬間に、悟ったという話もあるくらいで、その時の気持ちというんですかね。
だから、功徳を積んだり、業があるから、徳を積むというのも、一回一回でもって、やると短縮されて、メビウス的に、メビウス言語として、徳が、瞬間に、畳まれて解決するんじゃないのかなと。また、出来そうもないようなことを言って(笑)
これは、一つの法則というか、論理としては、そんなことだと思うので、あとは、自分の気持の問題になるのかなと。今日は、そんなところで。
ありがとうございました。