0459話:2018年06月08日

◇神を迎える修行

基本的に、この白川のご修行というのは、神を迎える修行ということであって、まず遠津御祖神をお迎えする。我々は、先祖のDNAを持っているわけですから、その自覚と同時に、遠津御祖神と自分とは一体なわけです。
あと、もちろん、身体の要素としては、自然の五行の存在でもあるというんですかね、その要素を保有しているということで、一体の部分もあるんだけれども、その要素を使って、例えば、水だったら70%近く、この身体は水ですから、そういう水を、要素として、水の神を迎えると。
ですから、遠津御祖神を迎えて、最初に出る修行は水の働きが起こるわけです、遠津御祖神と一体になった後はですね。当然、この水というものは、色々な回転というか、そういうものがあるから、回転力で、それを行うわけですね。
そういう働きが、今度は、五行の中の水として、そしてまた、五魂として、あるいは水の神、弥都波能売神という存在として、それと自分が一つになって迎えるということをやるわけですね。この場合には、水ですけれども、要素は水だけではないから、水の神様と全く一体というわけではないですね。水の働きとしての神様の働きはあるけれども、水、そのものではないという事になるんですけれども・・・

◇日本の伝統的な物づくりは五行を使う

五行も、火の神とか、土の神、それから、金の神、木の神、水の神とあるわけですけれども、五行というものを、日本の文化というものは、ほとんど、茶道なんかでも、結局、思想的は寂滅為楽(じゃくめついらく)という仏教的なものでありますけれども、これは、「人を温める木と火、命を守る水、そして土の中に含まれる金」という教えで、五行の修行というか、その変化を楽しむということでもあるわけですね。
神道はそれを木火土金水(きびつ神)と呼んで、三方荒神で伝えています。いつも言っているのは、「刀鍛冶も、五行で作るんですよ」という事とか、あるいは、染め物も五行全てを使うんですね。
だから、我々が、この白い白衣を着るというのは、どの神の色にも染まります、という宣言のあらわれですけれども、やっぱり色も五行で作るんですね、発色というものは。多分、殆どの日本の伝統的な物づくりというものは、五行ということですね。
もちろん、お米なんかを作る時には、五行になると思うんですが。そういう五行の働きを、身に受けるということは、自然を迎えるということなんですね。

◇元々は”天然”という言葉だった

また、ヨーロッパの人達から見た、Nature(ネイチャー)というものが、日本に入ってきた時に、”自然”と翻訳したのは、四百年くらい前なんですね。
元々は、”天然”という言葉で、”美しき天然”という歌も、明治の頃にありましたけれども。自然という概念は、ヨーロッパの概念ですから、一つの人間に対立した存在としての自然というような捉え方というか、どちらかというと対立概念ですよね。
まあ、西欧からみると、実りということもありますけれど、基本的には人間に対して、寒いとか暑いとか、厳しいというところから見ると、どちらかというと不利な条件からみているところが、自然ということになると思うんです。
結局、日本では、自然というものが、一つひとつ神になっているわけですが、これからヨーロッパ、あるいは、日本以外の人達に、それを伝える時には、この概念はなかなか難しいところでもあると思うのですがね。彼らのいう自然と、我々がいう五行という自然の違いですね。これは、お伝えする時に、難しい点は、多々あると思いますが。
我々の自然とは、あくまでも五行ということで、その五行から、全てのものをいただいているという存在ですかね。命と、文化もいただいているんだというところの違いがあると。
文化を伝える時、自然という存在としてあれば、それは我々が、あくまでも、自然と、どう人間がコミュニケーションするかというところからがテーマですから。

◇最先端のDNAの研究から見えてくること

これは、どこまで通用するのかというか、そこが入り口になって、更に、魂とか神という世界に広がることが出来るのではないということが、言えると思うですね。ですから、我々が、最近の説では、二十万年くらいで、DNAの九割方が、同じ頃の始まりで生まれているということが、DNAを調べていったら、そんな結果が出ていることもあるんですが。
ある面では、人間の存在というものと、今、地球上にある、九割方の生物が、同じ様な存在だというところから見た時に、一つの生命存在というところを、そんなに差別することなく、掴めるようなDNAの研究の土台が出てくるんじゃあないのかということも言えると思うですね。
ですから、そういう意味の今までの進化学ということが、ちょっとクエスチョン・マークが付いたのが、今の時代のDNAの研究なんですね。その中で、我々が人として、人と人のコミュニケーションをより良いものにする時に、全ての生き物も、確かに参考になる存在になろうかと思います。
ところが、この白川というのは、人も、あくまでも亡くなった人でも、これは遠津御祖神までであって、そこからは神として迎えるということでは、今のDNAから見れば、その自分のDNAの中の存在を、遠津御祖神というふうにいう事と、全ての生命の存在というものも、神に至ろうとする面では、そのところはもう繰り返しをしないわけですね。

◇人間の形をとった技は無い

白川の修行は、全て、神という存在とのコミュニケーションなんであって、人間の技をしない。そして、動物の技もしないと。
それは、自然という五行の働きを神として、そこをベースにして、国津神、天津神という神を迎えるということをするわけです。
ですから、あるいは迎える時の作法は、稀には、起こることはあるんですが、それは何かというと、ほとんどが神の神示を受ける時の作法があって、それは人間が受けるから、どう受けるか(ご修行を受ける指の形)、など人の形は、ほんの少しありますけれども、そういう神示として受ける時の作法はあるけれども、それ以外の人間の形をとった技は無いんですね。出てこないというところが、非常に不思議なというか、明確な違いがあると。ですから、人間の技や動物や生き物の技が出てきたら、即中止なんですね。
それは、一種の超能力なんですよね。人間の能力ではないから、人を超えた能力、すなわち超能力というふうに言ってもいいと思うですね。もちろん、人間も、長い間のDNAの見ると、似たものもあると言いますけれども、それも最近では、二十万年くらいの中でもって、学んだものということです。言ってみれば、「恐竜の技は、人間の中には、無いんじゃないですか」ということになるわけですね。

◇神を迎える時は非常に”ぎこちない”

だから、哺乳類や両生類や、あるいは、爬虫類の技は、白川には、全くないということが特徴であって、ただそれに、神に行く時に、非常に、”ぎこちない”わけですね。
我々は、人間ですけれども、遠津御祖神であるけれども、やっぱり、自然という神、あるいは国津神、天津神という神を迎えるということの神が、神話にしかないわけですね。
それが、ある面では、人間的な動きというか表現はあるんですけれども、我々は、全くそのような動きは取らないというか、それを、人間の技としては捉えないということになるわけですね。ですから、神というものを迎える時、やっぱり、ぎこちないわけですね。
最初、どんな存在か、全く分からないわけですね。自然というものは、まず、導入としては良いんですが、それも、自然の五行に馴染む、水に馴染む、土に馴染む、火、それから、金、木に馴染むということはあると思います。
それは、だんだんと慣れます。しかし、それでもぎこちないんですね。それが見ていて、ちょっと面白いというか、不思議な動きをするというふうに思いますけれども、それは、一時の間というか、暫くすると、また変わります。

◇心地よいものとして感じられる時が来る

その次に、国津神、天津神ということを、学ぶと。それも、人間の動きをしないということであるわけですから、その辺りは、何というか、楽しみと言っちゃ、楽しみなわけです。
そのことがまた、自分の体感の中で心地よいものとして、神を迎え入れたものとして、それを感じられる時が来ますので、それはまたそれで、非常に楽しいことになると思います。
ただ、今の段階では、まだまだ、色々な動きは出ますけれども、それは、すぐに分かってしまうわけですね。動物的な動き、あるいは人の動きは、これはやれないということになります。だから、修行を止めるわけです。
それは稀に吹き送りのような大変な儀式があって、それを吹き送ってから、また修行するということも昔はあって、その辺は、再現は非常に難しいところでもあります。
ただ、そういうものがあるということを、承知しておいて、自分自身は、あくまでも人間がやるのに、「これは、神の業なんだ、神の動きのみの修行なんだ」ということが、このご修行であると。
ですから、とにかく、最初は、ぎこちない様に見えますけれども、この辺は、少し時間がかかりますけれども、愚直にこの修行を続けてもらいたいということがあります。そんなところで。
なかなか、どうしたら良いということを、リードすることが出来ないところが、この修行の特徴でありますから、皆さん、一人ひとりが、そこを抜けていただけるようにしていただくと良いのではないかと。一緒に、やっているようですけれども、本当に、個人個人、みんな一人ひとりの修行であるということを、ご自覚いただいてやっていただければ良いかなと。そんなことを思いました。どうも今日は、ご苦労様でした。
ありがとうございました。