0460話:2018年06月10日

早いもので、6月も、もうちょっとで大祓祭祀をしないといけない時が来ております。
月日が経つのが、「矢の如く月日のこまの早ければむなし過ごすなおしきこの世を」という歌ではないけれども(笑)、一日一日が、大切な日だと思います。

◇諏訪とは一体、何なのか

我々は、わかる(分る、解る、判る)ということは、わけるが語源だということを、よく話すんですが、大祓の中でも、”豊葦原の水穂の國”を、豊葦原と水穂に別けるというような、あるいは、もう一つ言うと、大祓の天孫降臨のくだりは、二段階になっていますよね、ご承知のように、後半に”大倭日高見の國”というのも、たぶん、統合したんですね。
大倭という大和の国と、日高見の国というのは、これは、昔から言われているのですが、多分、別々だったというか、なっていたのではないかと。
今回、諏訪のツアーと、ずっとテキストというか、諏訪を開発するというのもおかしいのですが、古代のものを全部見直して、今「諏訪とは一体、何なのか」ということを、大掛かりに研究させていただいて、諏訪の研究者として、多分、一番深いのではないかという寺田鎮子(てらだしずこ)先生を、「脳梗塞になって、もうダメだ」と言っているのに、「やれば治るから」と言って、無理やりですね(笑)、強引にお願いしちゃって、息絶え絶えに、全部、出していただいて大変ご苦労をおかけすることになってしまいました。
元々、寺田さんはネパール協会の理事をされていて、今は、もう76歳ですが、ネパールの研究者としては、本当に、”クマリ”というんですかね、神になる女の子の研究をされていた時に、少しお手伝いしたこともあったんですが、今になって「そのお手伝い分を返してくれ」と、大変なことを要求してしまって、本当に色々と申し訳ないとは思っていたんですが。
やっぱり、素晴らしい研究の小冊子が出来まして、いずれ、今までの作品と一緒にして、終ったら是非、検討してもらえるように、舟橋さんや佐藤さんにお願いする予定というか、既に、お願いをしてあるですが。今回、非常に色々なことが分かりました。

◇満州シャーマンと諏訪シャーマン、ルーツは同じ

例えば、金大偉さんの”ロストマンチュリアサマン”の映画を、寺田先生に観てもらったら、全く同じ意見だったのですが、やっぱり、満州シャーマンと、諏訪のシャーマンと言いますか、諏訪も同じルーツであろうことが分かりました。
シャーマンが吊るす銅鐸のような、鈴のような鉄の棒があるんですけれども、全く同じでしたね、諏訪と満州のものが。それを、映画で観た寺田先生がビックリしていたということが、分かったのですが、私も全く同じ意見です。
元々、黒曜石の石器は、伊藤さんが岩宿遺跡の相沢忠洋(あいざわただひろ)さんの記念館を守っているんですけども、その相沢さんも早くから、バイカル湖周辺の民が諏訪に来たのではないかということ言っていまして、「全く同じ様な信仰とか、文化があった」ということでございます。そういうことも、非常に大きな発見で、北方に移り住む、北方のシャーマンや、そういうもの影響があったということですね。
諏訪は、そういうものが日本でも一番残った処というんですかね。深い山の中ですから、飛騨と同時に残ったということでも、あるんですけれども。もちろん、今度は諏訪から飛騨と一宮ですね。水無神社のツアーをやりましょう、ということを、石原さんにもお伝えして、「やりましょう!」ということになっているんですね。出来れば、今年中、秋には全国の一宮のそういう検証と同時に、最初にやろうと。

◇日高見の国山岳民の文化

山というか、山岳民が、やっぱり深く安全な場所として入ったり、狩猟ということですから、どうしても山の中に本拠を置いていた。もちろん、氷河期が来る前ですから、7500年前~6000年前後までは、一つの氷河期が始まる前は、山の上の方にみんな住んでいたと、日本列島の中では、住んでいたんだけれども。その文化が、非常に高度に発達していたということが、だんだんと今の考古学の中でも分かってきたということがあると思います。
そういう考古学上の発見から言えば、1万6000年くらい前は、既に、土器が出ておりますから、そういう土器は、まさに文化の象徴と言いますか、文化そのものであるわけでありますから。縄文の火焔土器というものにも繋がる、最初の土器があって、その時、既に家庭や部族の連合や、国というものが、日高見の国ということで残っていたというのは、考古や日本文化の研究者である、田中英道(たなかひでみち)先生なんかも、そういうことを言われているということもございますけれども。そういう縄文期の文化と、国という文化の代表的な一つの祝詞の中に残っているものとして、日高見の国ということを言われていたということを、何人かの研究者の方が、既に言われているんですけれども。私も、そう思います。

◇縄文の黒曜石の文化

日高見の国と大和が繋がるということは、今回の諏訪のシャーマニズムもありますけれども、元は縄文の黒曜石の文化であるというか。これは、東南アジア、ユーラシアに共通な石の文化でもあるんですけれど。
その文化が、次第に、中心が甲斐、信濃に、それと群馬辺りですね、そういうところにあって、ですね。石の生産地としてあったということですね。それを、供給していたということが、三内丸山遺跡も、もちろん北海道にも有るんですが、十勝なんかにも黒曜石の産地は有りますけれども、そういう開発されていたということがあって、それが逆に、出雲の石の玉造なんかにも影響をしていたのではないのかなと。だから、逆じゃないのかなという事も感じておりまして・・・
建御名方神が、諏訪に来るということは、奴奈川姫(ぬなかわひめ)のお母さんは、元は、糸魚川周辺で、そういう技術集団に属して、玉の磨きや神事に使う祭祀、つまりそういう祭祀をやっていたということですね。それが出雲に行くという形だと思うんですね。
そういうことで、次第に日本列島に色々な部族が住みだした時に、やはり一つの国、日高見の国と大和とが、大倭日高見の国になるまでの一つ戦略的な動きがあったのではないのかと。それが、結局、天孫降臨と、それからそれを促す為の古事記にある、建御雷神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)、何と言いましょうか、大中臣、中臣、藤原、白川となるんですけれども。その祭祀のところが、そういうものを進めてきたというか。
それがちょうど、戦略的にも統合されてくるということは、当然であって、それが、多分、挟み撃ちのような戦略の形で、日本列島の平定が行われたということが、多分そういうことが残っていたのではないのかなと。

◇我々が出来る用意

今、我々が大祓の言葉を見ると、どうもそういうところの名残があるのではないのかなということを、つくづく感じるわけでありますが。
その辺りで九州と東の方から攻めて攻めてというか、それが神武天皇の第一代へ統合されたと言いますかね。大倭と日高見の国ということに繋がっていくんではないのかなということを思うんですけれども。
今回、一方では、第124代の今上天皇(きんじょうてんのう)から、第125代になられる皇
太子徳仁親王(こうたいしなるひとしんのう)が、天皇になられる、何というか神格をお受けになると言いますか、天皇になっていただく為に、我々が出来る用意というものをさせていただくということも、烏滸がましいですけれども、白川から見て、今、進めさせていただいているわけですね。
これはやはり、第1代の神武天皇が、高倉下(たかくらじ)という神様から、まさに建御雷神の剣と言いますか、それを授けるということをされた家があるんですね。今回、菟田俊彦(うだとしひこ)先生という方が、伊勢の神官をされていて、あと研究者になられた方がいらっしゃいますが。そのお孫さんが、その意志を引き継がれて、菟田家というのは、九十代なんですね。欠史何代かあると思うんですけれどもね、そういう中で、しっかりと日本で一番古い家になるわけですが。その家の方が、神武天皇に高倉下神を通じて、刀降ろしをするということがあったんですが、今回、それにまさに、そのように稀勢の里の太刀もありましたけれども。
今度は、そういうものを用意して、今、我々がさせていただいているということになるわけですが。そのところが、今回の諏訪と言いますか、大和の王権というものに、ある面では、歴史上の中では反対したということではないけれども。
神様ですね、建御雷神と相撲かどうか知りませんけれども、それで止めるという形で、諏訪に戻られるということがあったわけですが。

◇諏訪、日高見の国の鎮魂

少なくとも、一番の大倭日高見の国になる時の一番お慰めしないといけないような所が、今回の諏訪の神ごとと言うか、神事ということに繋がっているということだと思うんですね。ですから、これをしっかりと、諏訪湖に沈んだ、縄文の人々が沢山、いらっしゃるわけですね。それと、建御雷神の想いをお慰めして、今の時代にも、125代というような中で、もう一度、安泰な天皇として、しっかりとお立ちいただくというような、烏滸がましい言い方ですけれども、その為の一つの鎮魂と言いますかね。
諏訪鎮魂ということも含めて、それは日高見の国の鎮魂でもあり、また国の命(めい)を受けた大和であり、出雲であり、諏訪であるということで。
統和した日本の王権というか、天皇の姿がこの時代に、もう一度、しっかりと初心に還るといったら、失礼ですけれども、そういう場面が、これからいよいよ我々の周りで起こるということですね。
我々が、企画して出来ることではなくて、神事と言いますか、自然に、そういうふうに導かれていくということが起こってきておりまして、「もうこんな大変なことは御免こうむりたい」ということは、やまやまでもあるんですが。

◇はっきりと、神事であるというところから道を進めていく

しかし、それは、今の時代の中で、きっと、我々の大和の国も、日高見国も、縄文も、少なくとも文明、文化というものが起こった、1万6000年という中での我々のDNA、あるいは精神遺伝子に刻み込まれた、そういうものから、きっと、ものを言わされているのではないかと。それをしっかりとお聞きして、できるだけ世界の為、また、日本の為に、そういう道ですね、人々が仲良くで出来る道を、神事として、それを出来るようなところまで、我々がそれを伝えていく、あるいは、それを実現していくというところが、きっと役割として、ミッションとしてあるのではないかなと。
ちょうど後1年ですけれども、現天皇陛下が区切られて、そして示しをしていただいているわけですけれども、そのことが一つはっきりと神事であるというところから、更に道を進めていければ良いんじゃないのかなというとことを、今日は感じております。
この諏訪の鎮魂ということが、非常に役割が大きいかなと。今回、二回、諏訪は、百人くらいずつ、皆さんでやりましょうと。もう一度、鎮魂をしてお慰めするというか、それをしたいということでございます。
今月一ヶ月間の進み具合をみてみましても、皆さんと共に計画して振り返ってみたいと思いますので、その後も、また、お話したいこともございますので、今はこのあたりで。